電波報國隊/昭十九会
本稿は東京大学第一・第二工学部電気工学科、昭和19年9月卒業のクラス会「昭十九会」が平成16年に編纂した、昭和18年9月から19年3月までの学徒勤労動員の記録です。
目 次
学徒動員の背景、電波報國隊の誕生 /矢部五郎
電波報國隊の記録(第一工学部) /島田博一
電波報國隊の記録(第二工学部) /大西順一郎
K-装置の開発 /矢部五郎
3号電探 /矢部五郎
電波報國隊 /平野忠男
東大航研での電波報國隊 /丹羽 登
本稿は東京大学第一・第二工学部電気工学科、昭和19年9月卒業のクラス会「昭十九会」が平成16年に編纂した、昭和18年9月から19年3月までの学徒勤労動員の記録です。
学徒動員の背景、電波報國隊の誕生 /矢部五郎
電波報國隊の記録(第一工学部) /島田博一
電波報國隊の記録(第二工学部) /大西順一郎
K-装置の開発 /矢部五郎
3号電探 /矢部五郎
電波報國隊 /平野忠男
東大航研での電波報國隊 /丹羽 登
1.国家総動員と学徒勤労動員
旧制第一高等学校の寮歌に歌われたように20世紀の東洋は戦争の世紀を迎えたが、欧州は既に17世紀から戦乱が続き、やっと1945年に第二次世界戦争終結で平和が回復した。しかし、東洋では1973年に米国が南ベトナムから撤退するまで、戦火が続いた。
18世紀になって欧州の諸国が組織的に軍隊を持ち、政治・経済的欲求を軍事力で達成しようとしたが、国民全体及び国家経済全体を戦争に動員する必要が生じたのは第一次世界戦争の経験に基づいている。日本も各国の国家総動員体制を参考に昭和13年に国家総動員法を制定した。
国家総動員法は戦時(準ずる事変を含む)に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及び物的資源を統制運用する広範な権限を政府に与えた。
先ず、同年8月に学校卒業者使用制限令が出され、翌年には賃金統制令が出され、逐次国民徴用令などが出され、強制的に国民を労働させる体制が構築された。学生・生徒も例外ではなく、昭和13年6月には文部大臣通牒「集団的勤労作業運動実施に関する件」が指令され、中学校以上の学生・生徒を労働による実践的教育を施すことが始まった。昭和16年2月には「青少年学徒食糧飼料増産運動実施要項」が制定され、我々は旧制高等学校で出征農家の作業応援を体験した。これらの学生・生徒の勤労作業はドイツのアルバイツディーンストを模倣したもので、現在の学生語であるアルバイトの語源が生まれた。
戦争開始を決意した政府は、開戦直前の昭和16年12月1日に国家総動員法第五条による国民勤労協力令を施行し、文部大臣と厚生大臣との共同で出される出動命令が学校長に出されて学徒が動員されることになった。この命令を「報國隊出動令書」という。
戦況が悪くなった昭和18年6月25日の閣議で「学徒戦時動員体制確立要綱」が決定され、これに基づいて学徒は労働力の供給源となった。電波報國隊が動員された昭和18年9月時点では、学徒動員の手順はここまでしかなかった。
我々の電波報國隊が動員された後、昭和18年10月12日の閣議で「教育に関する戦時非常措置方策」が決定され、昭和19年1月18日の閣議で「緊急学徒動員方策要綱」が決定され、同年3月7日の閣議では「決戦非常措置に基づく学徒動員実施要綱」が決定され、4月1日には学校別学徒動員基準が発表され、同月6日には理科系学徒の動員要綱が決定され、同月17日には文部省訓令「決戦非常措置要綱に基づく学徒勤労動員に関する件」が出された。
つまり、我々が動員中に、学徒動員の体制がすっかり整備された。このことは、電波報國隊が体制不備のままスタートしたことが反面教師になって、急いで体制を整備したのではないかと勘ぐるのである。そして、ついに、昭和19年5月16日文部省は学校工場化実施要綱を定め、学校は教育の場所ではなくなり、8月22日に学徒勤労令が公布されて、学徒動員の体制は整った。
当時の新聞報道では、「学徒は時局を外にして安閑として勉学に耽っている場合ではなくひとしく産業戦士として出陣しなければならなくなったのである。」と述べている。
2.学徒勤労動員の待遇と問題点
昭和19年9月6日に文部省が定めた基準によると、大学生は70円/月(注 当時の大学卒会社員の初任給は75円程度)となっていた。昭和20年9月第二工学部電気を卒業した豊田正敏氏の記憶(今岡和彦:東京大学第二工学部146ぺ一ジ)によると70円受け取ったというのでこの基準は実行されていたと解釈できる。
学生の勤労、又は実習教育(インターン)の待遇、報酬、義務、権利については、常に問題があって、平和な社会でも議論が多い。
電波報國隊の待遇に統一されたルールがなかったのはやむを得ないと思うが、一つの歴史として記録すると次のようになる。
①集団で合宿、三食給与、報酬なし。
②自宅通勤、弁当持参、少額の報酬(月額約15円)。
③白宅通勤、昼食給与、報酬なし。
④その他、詳細不明
幸いに軽い病気以外に労働災害や重病は発生しなかったが、災害発生のリスクが高い作業もあった。万一の事故の場合に補償問題はどうするつもりだったのか疑問に思う。というのは大学院学生が戦時研究中に事故で殉職したとき、急邊博士号を与えて繕った事例があったが、我々が事故で殉職した場合の対策はあったかどうか知らない。
その後、多くの学生・生徒が動員され軍需工場で空襲の被害を受けた人も少なくない。軍人の戦死者と比較して国家がどの程度補償したか疑問に思う。
3.その後の学徒動員
昭和19年8月24日の文部省通達で理科系の第二学年以上のもので必要な学徒は動員から除外し、専ら研究に従事させるようになった。
したがって、次の学年(昭和20年9月卒業)は学徒動員されていないので、電波報國隊の体験は我々が「始め」で「終わり」ということができる。
4.卒業証書に記載された証拠
東京帝国大学の卒業証書は2通あって、学士号授与の証書と取得単位の証明書であるが、取得単位の証明書に朱色で「在学中大東亜戦争学徒勤労動員出動」と記載されていた。
このような特別な卒業証書を受け取った卒業生は、学業半ばで出征した文科系の同期生も同様と推測する。
5.当時の社会情勢
この記録の社会的背景が理解できないと思うので、少しばかり当時の社会情勢を説明する。
①物価
煙草:一番安い金鵄(ゴールデンバット)10本が23銭(昭和18年)
豆腐:10銭
市電:7銭が10銭に値上げ
②学制
小学校6年、中学校5年、高等学校3年、大学3年
③東京(帝国)大学第一・第ニエ学部
第一次世界戦争をほぼ傍観していた日本は好況に恵まれ、高等教育を希望する学生が増加したので、大正末期に旧制高等学校を増設し、大学の学生定員も増加させたが、昭和初期の不況で大学は出たけれど就職できない人が溢れて、学生の定員をほぼ3/4に削減した。
昭和10年ごろから産業界も活気を取り戻して、人材不足が表面化したので、昭和14年から旧制高等学校の定員が復活した。その結果、我々が大学を受験する時には、大学の定員を復活する必要が生じたが、たまたま、技術者の不足が問題になり工学部の入学者を増やすことが政治問題になった。そのとき、政治家の選択した解決方法は、東京に急いで工学の大学を設置することであったという。具体策として、東京(帝国)大学工学部を2倍に拡張することが決まった。
入学者を2倍にして、その半分を千葉市弥生町に急造したキャンパス(現在の千葉大学の敷地)で教育することになった。我々電気工学科の入学者はくじ引きで本郷(第一工学部)と千葉(第二工学部)に配分された。
このような事例は始めてではなく、九州(帝国)大学に医学部が新設されたときにも、東京(帝国)大学医学部と同時に入学試験を行って、くじで配分したと聞いている。
1.まえがき
平成14年10月の昭十九会(昭和19年9月卒東京帝国大学第一・第二工学部電気工学科合同同窓会)で、平成16年に迎える卒業六十年会を記念するため、人生を締めくくる会員相互の挨拶として「寄書」を集めること、併せて、我々大学時代の大きな出来事であった電波報國隊について隊員の記録をまとめて、記録として後世に残すこととなった。そして、第一工学部関係の報國隊記録は、当時、隊長を務めたことと、報國隊についての一資料がふとした縁で手に入ったことから、筆者が受け持つ運びとなった。
2.電波報國隊活動の経過
2-1発足
ガダルカナル撤退、山本元帥戦死、アッツ島玉砕と、ただならぬ時局の急が報ぜられだした昭和18年の初秋のある日、第一工学部電気工学科の一同は、阪本捷房教授から思いもかけぬ通告を受けた。それは:「本年10月から来年3月まで、東京所在の4大学、即ち:東京帝国大学、東京工業大学、早稲田大学、藤原工業(現慶応)大学の電気工学科学生は、電波報國隊として、原則として全員が陸軍或いは海軍指定の電波兵器工場に派遣され、直接国のため力を尽くすこととなった。諸君の派遣先は、東京芝浦電気株式会社柳町工場と小向工場である。目的は、電波技術分野の強化、そして国として今後学生を工場労働に動員する可能性の検証である。技術現場を体験できる有り難い機会でもあり、大いに頑張るように。」とのことであった。「とうとう来たか。」が、一同の気持ちではなかったかと思う。
このとき、筆者と田畑稔雄は、それぞれ隊長、副隊長を命ぜられた。そして教授のお宅に呼ばれ、体制、宿舎、勤務条件等の説明を承り、連絡事項、注意事項など、細かい指示をいただいた。
この記録は、断りのなり限り、東芝派遣グループに関するものである。
2-2体制
各大学の派遣先は、下記の通りであった。
東大一工・・・・・東京芝浦電気株式会社(海軍)
同二工・・・・・住友通信工業株式会社(現NEC)(陸軍)
東工大・・・・・同上(陸軍)
早大 ・・・・・同上(陸軍)
藤原工大・・・・・日本無線株式会社(海軍)
なお、陸軍・海軍の各委託学生は、別途、軍の研究所等の施設に配属された。また、特定の学生は、教授の研究助手に当てられたと聞く。
2-3参加者
第一工学部電気工学科学生は、東芝派遣が主体であった。この東芝グループが、会社幹部と一緒に撮った記念写真がある。(「付図」)この写真を見ると、派遣者は25名であった。以下にその名を示す。
赤居正太郎 島田良巳
石川伝二 田中好雄
伊藤伊好 田畑稔雄
小笠原直幸 高森三郎
岡村直彦 中村道治
岡田勉 藤井敬三
荻田敬直 舟引一郎
片山愛介 前野拓三
小林一治 増田耕
斉藤仁代 廻健三
粟冠俊勝 山内康平
柴橋貴恭 吉田得郎
島田博一
付記2:西山長吉は休学中。吉野淳一もしばらくして休学。
2-4活動
東芝に派遣されたのは、当時の大詔奉戴日、10月の8日であった。清水与七郎社長他各位に挨拶の後、最初の勤めは、1週間の基礎知識教育の受講であった。会社幹部から、電波兵器の原理、種類、その構成、部品、材料、製造工程、調整試験、及び工場技術について説明を受けた。概括的だが具体的で生々しい話に、一同息を凝らして傾聴した。
その後、一同は、柳町と小向の2工場に、5班に分かれて勤務についた。柳町工場は、川崎市の中心部、駅の西側に所在。会社の本部とシステム関係が主体で、設計、製造、研究、さらに業務、管理の諸部門があった。一方、小向工場は、柳町工場から北北東約3㎞、多摩川寄りに所在。部品材料関係が主体の諸部門があった。工場はどちらも現存している(注)
配備された5班の編制は、柳町に3班、小向に2班であったと想像するが、正しく記録できないのが残念である。
各班に配属されるや、直ちに班毎に、担当すべき技術の実地訓練を受けた。そして、月改まる11月、一同は実務のスタートを切ったのであった。我々に与えられた仕事は、要約して、海軍納入電波兵器の本体或いは構成部品に関係する基礎研究、設計、試作、実験、或いは試験器・測定器の設計、試作、更に量産装置の調整・試験であった。主体的に任された仕事もあったが、会社責任者の助手的な仕事も少なくはなかった。一部の隊員は製造作業そのものを担当した。「当時手記」を見ると、筆者は、「米英撃滅のための重要兵器が我々の手に託され、敢闘精神で完成されて行ったことは、思い出すも痛快。」、或いは「全員、愉快に勤務し通し得た。」と書いている。今考えれば、いささか誇張の感を否めない。
「当時手記」は、又、「毎週水曜日午前に隊員全員に輸講の機会が与えられ、担当業務の発表・討論があった。学究的欲求を潤し、皆にも会え、楽しい思い出だ。」と書き留めている。かすかに、そんなこともあったかと思う程度の記憶である。もしその輪講の記録が手元にあったなら、この報國隊記録がどれ程充実したものになるか、の思いが空しく去来する。
なお、大学への報告は求められていなかった。機密維持のためかもしれない。
2-5宿舎`
一同に準備された宿舎は、街外れで小向工場に近い旧家らしい大きな平屋の農家であった。何人かの有志は各白の宿から通勤したが、殆ど全員がここに合宿して通勤した。家の所有者、相沢さんの一字をとり、相生荘と呼ばれていた。一切は我々学生の自治に任されていた。
2-6任務の終結
こうして昭和19年3月31日を迎え、それぞれ派遣先の任務を終えた。海軍関係工場派遣の各大学学徒は、翌4月、目黒の海軍技術研究所に参集した。受け入れ先の清水東芝社長を始めとする各社各幹部も参集した。そして海軍当局に実施業務と成果を報告し、報國隊は解散した。この時、筆者は隊長として、東芝派遣一工電気報國隊について報告を行った。その内容は、後に求められて帝国大学新聞に寄稿、昭和19年5月1日第983号に、「意欲と誠意と喜び一海軍某工場に奉仕して一」と題して掲載された。先に掲げた「当時手記」は、それらの転載であり、書き出し部分を削除している。また、○○の伏せ字は実名で埋めてある。その他の部分は同文で、省略はない。参考までに、「付属資料一2」に、「当時手記」で省略されている該帝国大学新聞記事の冒頭部分を示す。
3.実施業務
以下に、隊員諸君が担当した業務と活躍ぶりを述べる。順序は氏名の五十音順である。このたびの報國隊言己録作成にあたって、学友諸君から寄せられた情報に基づいている。
3-1電波兵器本体或いは部品の研究開発関係
3-2電波兵器量産装置の製造、調整、試験関係
3-3試験器、測定器等の研究、設計、試作関係
ある大学派遣の報國隊では、生産現場に入って作業を分担し、まとまった電波兵器の生産に当たったと聞く。下村さんもある時、「学徒全員で、「勤労学徒号」の銘板入り電波兵器ひと揃いを造る行き方もある。」と話しておられた。然し我々東大一工電気の報國隊は、以上述べたように、各種の業務に分かれて会社の機能を補佐、強化するという形を取ったのであった。どちらも、意義ある行き方ではなかろうか。
付記:東芝以外に動員された学友の状況
第一工学部電気工学科の軍関係委託学生等の動員計画は阪本教授によって進められ、陸軍海軍の区別無く、9名が海軍関係機関に3班に分かれて配属されたようである。
参考までに、以下にこれを記録する。
参考―給与、食費などについて
ある自宅通勤海軍派遣学徒の記憶では、給与は工員相当の日給55銭。大学帰還後支給。食事、弁当は自給。残業弁当は支給。とのことであった。東芝派遣学徒の給与は、食費などの情報は得られなかった。筆者の記臆では、費用はすべて会社が支給、支弁。給与は海軍派遣学生並であったかどうか、何がしか支給されたような気もするが、思い出せない。
3-4学徒の所感
以上の担当業務と共に、次のような所感が、級友諸君から筆者のもとに寄せられた。(順不同)
付記:軍派遣学徒の所感
なお、海軍委託学生の諸君からも次のような所感が寄せられた。
4.思い出すこと
4-1日々の生活のこと
三度の食事は会社の食堂で摂った。このため、出勤は7時20分までに着く必要があった。終業は5時40分。必要により残業、時には徹夜も、という一日であった。
休憩時間は一日三度。有志の者は屋上で東大鍛練体操、乞われて寒風の中、社員に手ほどきする事もあったと聞く。
相生荘は、小向工場には近かったが、柳町工場は歩いて20分。厚生課長の松井さんが止宿されており、毎朝の起床号令、「柳町!起きんかャ!」をはじめ、何かと大変お世話になった。ある隊員は、頂いた干柿の有り難さを今尚忘れない。松井さんの将棋は大変強かった。
往復一里の道も、やがて馴れれば肩の凝りをほぐす良い運動になった。湯に浸かって、ある隊員は、「イヤハヤ甘露!甘露!」の声をあげて喜んだとか。畳に座れば、或いは万葉集を吟じ、或いはマントをかぶって哲学書に読みふけり、或いは車座になって、「雨」だ「坊主」だに打ち興じた。
「当時手記」は、「最後の出勤の日の朝は、白い富士山がくっきりと見えた。そして、帰ってきた一同を、相生荘の梅がふくよかな香りを以って迎えてくれた。」と書きとどめている。
4-2学徒出陣壮行式への参加のこと
右、左の見当がだんだんついてきた10月21日、神宮外苑競技場に参集を命ぜられた。文科系学生の徴兵猶予制度が停止されて、軍隊に入ることとなり、それを壮行する学徒出陣式が行われたのであった。動員総数7万5千人、雨の一日であった。すぐ戦場に立たねばならず、故郷に帰っている文科系学生を呼び返すのは可哀相だという判断があったとかで、工学部の我々が代わって参加、銃を肩に水しぶきをあげて行進した。誰が下したか、美しい判断であった。
この時の情景は、今もなおテレビや新聞雑誌で何度となく報ぜられている。「大学旗を先頭に行進する顔々が、我々に見えて仕方がない。」とある隊員は述懐をよせている。
4-3「当時手記」で論じていることごと
「当時手記」はその後半で、学徒側、受け入れ側の間で逢着した諸問題と解決策、それぞれの反省点を論じている。その要点は次の通りである。
相互間に色々問題があったと「当時手記」に記したが、一体その問題とは具体的に何であったか?手記はそれには触れていない。今思い出すのは、次の4.4で述べる正月休みの事だけである。このことを抽象的に一般化したような形で書いたため、針小棒大に、問題だらけとの誤解を呼ぶ恐れ無しとしない。今、大いに反省するところである。
4-4下村さんのこと
会社側の学徒担当責任者は技術部長下村尚信氏(昭和7年東大工電卒の先輩)であった。氏は比類ない学識・人格そして責任感の方であった。姿勢正しく闊歩される姿は凛々しく、技術者の鏡と一同敬慕したのであった。筆者は役目がら席が近く、接する機会に恵まれたので、特にその感が強かった。
お願いする事はすべて即座に聞き届けて下さった。しかし、一つだけ例外があった。頑として拒絶されたこと、それは正月には帰省させて頂きたいと云う希望であった。何度お願いしても同じで、実に恨めしかった。実際には年末休暇が出たので、万事解決であった。今思えば、下村さんは会社の最高技術責任者として、超非常時下の重い重い軍と国の要請と諸問題を双肩に担い、休みの話などは論外であったに違いない。未だ40歳には達しておられなかった筈なのにこの重責、凄いことであった。
この場で下村さんに、お詫びを一言申し上げさせて頂きたい。海軍技研での報告会の時であった。隊長としての筆者の報告に対して、下村さんが発言を求め、海軍担当官がそれを許さなかったことがあった。一方、筆者の報告は褒められたとか。下村さんの発言要求は、筆者の報告に黙っていられないお気持ちからのことに違いない。報告会で筆者が何を話したのか記憶はないが、それをもとに書いたのが「当時手記」であることは確かである。今考えれば、4.3で述べた、あの針小棒大な誤解を呼びかねない表現、内容に対してのご抗議ではなかったかと思う。
下村さんには、誠に申し訳ない事であった。心苦しい。もし、「若気の至りだ。」とお許しいただけるのであれば、誠に有り難いことである。戦後、二度ほどお目にかかったことがあった。報國隊の話はなにもなく、元気に、にこにこしておられた。みな忘れて下さっておられたのだと思います。
4-5今岡専務取締役のこと
今岡賀雄さんは東大物理の出身と聞く。学徒受け入れの所管役員であられた。にこにこと優しい方であった。然し、想像を絶する責務、激務による過労のため、帰宅の夜川崎駅での事故で一命を落とされたのであった。この報に全社、そして我々も、粛然とし頭を垂れたことを思い出す。筆者は、その今岡さんから大喝を受けたことがあった。「その服装は何事だッ!!」それは、全社防空演習のさなか、規定に違反してゲートルなしの姿でウロウロしていた為であった。隊長の面目もあったものでない。顔から火がでた。強烈な思い出である。
5.あとがき
われわれ電波報國隊の成果・教訓を待つことなく、時局は大学・高専さらに中等学校生徒まであらゆる生産分野に動員するに至った。緊迫度の高まりを見れば、やむをえぬこと、否、是非を越えた当然のことであったと云うべきであろう。しかし、それらの動員に対して、我々の実績が必ずや何か役立つところであったに違いないと思いたい。
受け入れ側から見て、我々の作業成果は、果たしてそのための諸経費に見合うことができたであろうか。我々学徒側が得た体験の価値の方が大きくはなかったろうか。
勉学の時間を大幅に献納したには違いないが、生産現場体験のプラスは大きかった。就職の判断のためにも、生涯にわたっても、言いしれぬ恩恵を受けたことは問違いない。
学窓での勉学は尊い。然し、もし筆者個人の意見を問われ牟なら、現在でも、報國隊の方を選ぶであろう。あの経験の感銘、その生涯を通しての意義が忘れられないからだ。
我々は、この恩恵の大本に感謝せねばならない。当たり前すぎて、当時、否、現在でもあまり意識することがない。それは、派遣先の業務と学んでいる学問とが合致していたという幸せである。後々、勤労派遣文科系学生の悩みや摩擦を耳にするに付けて、この思いを深くする。
一部の級友については、連絡不能、或いは困難のため、業績を記録することが出来なかった。やむをえない事とは云え、残念である。物故諸君の活躍の記録も僅かしか残せなかった。もし出来れば、大変良い供養になったのではと思われる。これまた、残念である。
筆をおくに当たり、当時ご指導をいただいた本学阪本教授、東京芝浦電気株式会社下村技術部長及び関係幹部・社員各位そしてお世話になった松井課長にたいし、報國隊参加学友一同とともに厚く御礼を申し上げる。
そして、この記録の筆者として、協力いただいた学友各位、担当各位、及び第二工学部電気の担当各位に深く感謝する。
[添付資料目録]
付 図:「冒波報國隊記念写真」
(東京帝国大学第一工学部電気工学科学生及び東京芝浦電気株式会社幹部各位による)
付属資料―1:「工場勤労手記」(略して「当時手記」)
(「学徒勤労の書」(大室貞一郎著、昭和19年12月研進社発行)の第17章より)
付属資料―2:「意欲と誠意と喜び」
(帝国大学新聞昭和19年5月1日第983号2面の抜粋)
付 図:「電波報國隊記念写真」
(東京帝国大学第一工学部電気工学科学生及び東京芝浦電気株式会社幹部各位による)
付属資料―1:「工場勤労手記」
(「学徒勤労の書」(大室貞一郎著、昭和19年12月研進社発行)の第17章より
付属資料―2:「帝国大学新聞昭和19年5月1目第983号2面の抜粋
(「工場学徒手記」との差異)
原新聞記事は、(一)から(五)に分けて掲載されている。「工場学徒手記」(即ち「当時手記」)は、そのうちの(二)から(五)までであって、省略無く全文が転記されている。参考までに、欠如する(一)の部分を下記に示す。伏せ字○○は、電気、電波、東芝など。工場の甲、乙はそれぞれ柳町、小向である。
附記:この帝国大学新聞第983号は4面構成で、そのうち2面全部を、「勤労の体験に省みる」と題して、学徒動員記事の特集に当てている。筆者の記事はその6記事のひとつである。掲載された6記事を以下に列記する。
そして次号から、帝国大学新聞は休刊となった。そういう時局であった。
前回の戦争の末期近く昭和18年には戦況は制空権が大きな鍵を握るようになった。これには航空機の性能の優秀なことは言うまでも無いがそれにも劣らず大きな重要な戦力に影響するのは電波を利用して敵機を捕らえることであった。これは戦況が不利になると共に米国との技術力の差が明らかになった。開発力と共に更に製造力の育成が最重点になってきたが、従来の武器と全く異なるために製造能力を増大するためには基礎から教育訓練を開始しなければならない。このため製造力の拡大は計画に対して大幅に遅れてきた。このような時にはできるだけ充足が困難な条件を取り上げて言い逃れをするのはよくあることである。このときも、製造部門から「遅れは電波兵器製造に必要な技能者が著しく不足している」と言う声が出てきたのであろう。この時期には大学生、高専生を動員して戦力化しようとの動きがあったので、軍としては現場の実情も調べずにこの声に乗って、大学工学部のしかも電気工学を専攻している学生を一般学生よりも一足早く動員して製造現場の応援をさせるのは当然の流れであった。
勿論、この必要を感じたのは陸軍と思われるが、海軍も同調して同時に実施が決定した。具体的な実施方法はそれぞれが別に決めていた。戦時下ではあまり必要でない具体的な情報を集める発想は無かったので自分自身に関係することしか知らなかった。第一工学部と第二工学部、陸軍と海軍での作業内容が、この記録を編集するために寄せられた報告を読んで始めて知って、基本的に違っている点が多いのに驚いている次第である。私は字が拙くて自分で書いた文字を読むのが嫌いであったので記録を残さない主義であった。従って不十分な記憶に頼っているので皆さん方から頂いた記録に大変助けられた。ここで寄せられた方々にお礼を申し上げたい。
報告は大きく三部に分けて先ず報國隊の客観的な概要をまとめて、次に皆さんから寄せてもらった報告の抜粋と最後の第三部に私の主観的な記録を報告することにした。
1.第二工学部本隊
期間:昭和18年10月8日~昭和19年3月31日
1.所属 陸軍東京第一造兵廠
主管 青木少佐(後に中佐)
2.1 第一次作業場所住友通信工業㈱玉川向製造所
(宿舎東一造宿舎浦和)
全員が合宿となった。この宿舎には、東京工業大学、早稲田大学が宿泊した。
【作業内容】
これは当時でもハッキリと明確な人に説明できなかったのが我々の作業の特徴である。明確な指示も無かったような印象である。組み上がってきたセットの検査も少ししたような記憶がある。しかし、順調に物が流れて来なかったのが強い印象である。また手待ちになった時に読書をしていると、読書を止めるように注意を受けたという噂もあった。今思えば次の相武台の作業が本来の作業で、それまでの待ち時間と思われる。
2.2第二次 作業場所 相武台最終調整現場(正式名称不明)
(宿舎 中心道場 小田急線 座間)
【作業内容】
来襲する航空機の方向を電波で探知する電波探知機で本体は地下に埋めていて、左右に伸びた腕木の両端にアンテナを取り付けてあってこれを360°回転して左右のパルスが同じ強さになるようにして飛行機の方向を検出する。この電波探知機の最終調整をする作業場である。しかじ現実は調整の方法を検討する段階であった。
2.3住友通信工業 生田研究所(枡形山)
(宿舎は同じ 中心道場)
3.に述べるような研究を支援していた。
2.東大航空研究所 (注)この部分は丹羽君の報告を基にしている。
(陸軍多摩技術研究所駒場分室)
期間:昭和18年10月8日~昭和19年3月31日
分遣先:東大航空研究所(陸軍多摩技術研究所駒場分室)駒場の航空研究所には正門正面の本館の上に大きな時計台があり、更に其の上にはフィリピンのコレヒドールで捕獲した米軍のレーダーのアンテナが聳え立っていた。電波報國隊発足の前年には、電波兵器の劣勢を補うべく陸軍多摩技術研究所を創設し(昭和17年6月)星合研究室は多摩研駒場分室(正式名称不明)となっていた。キャンパスの一番奥に新設した木造建築が我々の作業場であった。波長1.7m(タキ)、0.8m(タキ2)、4m(タキ3)のパルスレーダーの研究を進めていて、また航空機から地表までのパルスの往復時間をCRTでなく回転するネオン管の点灯位置で示す方式の高高度用電波高度計(波長0.8、タキ11)の研究・試作も行っていた(タキnは航空機搭載電波機器の略称)。3階の屋上の櫓にはレーダーのヤギアンテナが乱立していた。唐津先輩が中尉として常駐、陣頭指揮を執っておられた。星合教授はタキ11の高高度飛行実験の際空気が希薄で息苦しくて寒かった話を繰り返された。
分遣者:安達芳夫 妻藤達夫 津澤正巳 丹羽登 藤井忠邦
【作業内容】
1)タキ(11)―波長08m高高度用電波高度計の研究試作の応援
2)測距のための繰り返し周波数の移相器試作
3)レッヘル線、立体回路による超再生受信器の試作と波長測定
4)1.7mレーダーの操作時計台上のアンテナと太い同軸ケーブルでつながった屋上の木造小屋の送信機とで連絡を取りながらパルスレーダー習熟の為の操作・特性測定を行った。アンテナ系は地上高44mの寒風でかじかんだ手で方位角用の大きなハンドルを操作してアンテナ台全体を回し、別の一人が上下角用のハンドルでビームアンテナエレメントの迎角を換える。エコーの源であった秩父連山の冬景色が瞼に残る。
5)平磯実験 報國隊終了後の4月19日―29日平磯での多摩研の大規模なレーダー総合実験への参加を要請された。波長の違うパルスレーダーを併用して、水平飛行をして来る航空機からのエコー直接波と海面反射波との干渉間隔から、飛行高度を測る実験を平磯海岸の崖上で行っていた。我々は航研班のレーダー機材を駒場で輸送車に積み込み同乗し、現地での組み立て、操作運用などを行った。
3.住友通信工業 生田研究所 (注)この部分は相田君の報告による
派遣先:第二研究課
派遣者:相田実 大久保欣哉
【作業内容】
1)中間周波トランスの特性測定
2)センチメートル波発振管の測定
住友通信工業生田研究所には無線レーダの研究の拠点で有能な先輩が多く活躍していた。所長は大沢さん(昭和7年卒)第二工学部に来られた森脇先生(昭和8年卒)長森享三(昭和9年卒)多田さん(昭和11年卒)国府さん(昭和13年卒)川橋さん(昭和18年卒)西尾さん(昭和9年卒)原島さん(昭和10年卒)が居られた。それぞれ戦後の日電の技術を背負って活躍した人々である。
01.物価と手当て
当時は物価統制令で公定価格である。
干し柿 5.75/500匁 蕪、人参、大根 1.05 味噌漬、大蒜 127
沢庵 0.51 鱈 5,10/1貫目 鰈 6.60/1貫目
東一造で隔週配給していた饅頭は4個20銭となる。因みに我々の手当ては毎月45円であった。(相田君)
02.座間では一間6人
同室者の個性描写も詳しくあった。非常に有意義な生活だったとの感想も述べている。(相田君)
03.「在学中大東亜戦争学徒勤労動員出動」朱印 (3ぺ一ジ参照)
取得科目証明書(取得科目、卒論題目記載)に捺印してある。(丹羽君)
04.超音波技術講習会(財団法人科学動員協会主催)
極めて著名な講師陣で東大の法文系の大講義室で行われた。(丹羽君)
05.我々の電気知識
電波報國隊の開始まで入学から1年半、2回あった夏休みは短縮され直前の夏休みも夏季実習があった。それまでも講義は充実していたが、動員先で与えられた業務をするには電気工学科の3年生としての知識は不足だったと言わざるを得ない。其の頃使っていたメモ帳(大学ノート)は紙も装丁を悪く、ばらばらになりかかっているが必要に追られて読みまくった参考書・便覧の要旨が細かく書き込まれている。(丹羽君)
06.航研組の感想
レーダーなどに直接関係する仕事もあったし、肉体労働、単純作業でつらいことも多かった。しかし我々は条件が良かった方だとも言えそうである。つまり動員のため大学での実質的勉学時間は短かったと証明されているのだ。戦時の「非常措置」によるとは言え、電波報國隊によって貴重な青春の時間を費やしたとも言えるし、其の体験・知識を後日に生かし得た例もあった。思いは複雑である。従って級友の評価も感想もまちまちである。(丹羽君)
07.当時発表したこの級友の評価
宮崎仁君は「浜名海兵団を経て中尉に任官後海軍電測学校に入った。レーダー関係の研究・教育機関で、僕は大学の時動員でレーダをやっていたから、こっちが先生方を教える立場になっちゃってね。」と(今岡和彦:東京大学第二工学部 講談社(1987.3))に述べている。
航研組であった藤井忠邦君は「電波報國隊の期間中、一部の人は軍の研究の手伝いをしたが、多くはタ号電探の据付調整、電源の運搬など並大低の苦労ではなかった。」と(東大電気電子工学科同窓会編:東大電気工学科のあゆみ同窓会刊(1983.5))に述べている。(丹羽君)
08.食料買い囲しの名手
軍と関係が深く食料には恵まれていたがそれでもやはり補充が必要であった。多くの期待を集めて芋の買出しに能力を大いに発揮した。これは家庭環境と米語に似ている金沢弁を身に着けていた為と思っている。(山本君)
09.一人頑張る
年末には皆帰省した。私は翌朝出発する予定だった。一人錬兵場で体操していると、青木中佐が近づいて「良い体操をしているね!」と声が掛かった。「東大鍛練体操です」と答えると「友達はどうした」と重ねての質問である。「年末年始の休みで帰省しました。私も明日帰るつもりでいます。」と答えると早速「学生達は日本が今どんなに大変だか解っていないので困る。この電波兵器が一週間遅れると、南方の島が一つ占領されてしまうのだ。この際休みを延ばして手伝ってくれないかね?」と返ってきた。こちらも「友達と旅行の約束をしているので、困ります。」と答えた。「約束なら電話か電報で断ればよい。君だけでも手伝ってくれよ!」と頼まれると嫌とはいえない。宿舎の中心道場に宿と食事を協力してもらった。道場は80畳の大広間、押入れの中は鼠の集団が暴れていた。俺も男だ、一人で頑張った。(宮本君)
10.黄疸にかかる
徴兵検査のために帰郷した時に寝込んだ。診断では「黄疸」と診断であった。私は一番重症で回復に約1月かかった。ハッキリした原因は不明だが、宿舎で「南京虫」対策に「ピンデン」と言う殺虫剤を多用した為、肝臓を悪くしたと思われる。(宮本君)
00.まえがき
前にも述べたように、戦時下では今のように情報公開の環境ではなくむしろ情報は機密事項として外部に漏れないように努力をしていた。今ならば十分な討議をしなければならない事もしないで隊長が殆ど独断で決心して実行ができた。今この様なことを続けていると必ず不満が出てくると思うけれども、当時は終了までこの方向で続いた。従って今ここに報國隊として級友に明らかにしていなかった事項を報告する。
さらに、手元に寄せられた報告から新しい事実がたくさん判明した、いかに事実を知ることの難しさを感じている。
01.入寮歓迎夕食会…寮長の嫌がらせと…気配り
浦和にある東一造の宿舎に陸軍に所属する東京工大、早稲田大学と合同であった。宿舎に入った日の夕食は三大学合同の歓迎会であった。これ以後は全く相互に打ち合せ会も連絡会もなかった。勿論昼聞の作業についても話し合ったことも無い。戦争中は上からの指示なしで会合することは軍としては好ましくないことの相談していると疑って神経を尖らせていた。軍に関することは口に出さないことを無難としていた。今考えると自分でも異常であったと思うが、当時としては当然であった。
最初に出てきた問題は食前の挨拶をして箸を取るときに起こった。「舎監よりも我々が先に箸を取ったのは礼儀に反する。隊長が代表して謝りに行くべきでないか」と早稲田の隊長が駆けつけてきた。先ずは気配りの凄さに驚いた。東工大の隊長と相談してもとっさの事で結論が出ない。結論としては一同で食前の挨拶をした後であるので我々の常識では問題にならないのでないかと謝りに行かなかった。食後はやはり歌を歌うことになり一高出身者に寮歌をお願いした。
02.教養講演会賀川豊彦氏の講話
作業の間に一般教養の講演会もあった。その一つに戦時体制で旅行が大変な時に日本を回って精神訓話をしておられた著名な賀川豊彦氏が来られて講話があった。話の内容は全然覚えていないが、強烈に印象に残ったのは途中に元素の周期表が出てきた時である。黒板に向かってスイスイと淀みなく周期表が出来てくる。記憶の良さを印象付けているようであった。しかし話し相手が悪かった。周期表を書くことは出来なくとも間違いを見つけることは出来る。あちこちに誤りが出てくると講師に不信を持つようになる。講話する前に相手を知ることの大切さを反面教師として知った。
03.年末休暇交渉
年末が近づいて来て、年末年始の作業を打ち合わすことで思い出すことが多い。この打ち合わせは我々を世話するために同じように道場に宿泊していた少尉とすることになった。当然単独では休暇の許可を出せないので沈黙が続いた。そこに同席していた道場の主が「今の若者は“休暇を取りたければ取りなさい”と強く言えば、決して取りませんよ。」と口を出した、良い忠告をもらったと少尉はその通りをこちらに向かって返答した。こちらの面前で言われたことに反撃するような雰囲気になり、「お言葉通り休暇を頂きます。」と返事して決着をつけた。当時はすでに大阪までの切符を手に入れるのは困難であったが早速手に入れて急いで帰阪した。`
ところが宮本君からの報告を見て、一日残っていたために上官に会い説得されて皆を代表して残ったと言うのを始めて知った。
04.入浴の後始末
浦和宿舎の浴場は大浴場だった。銭湯の常識を心得ているのが極めて少ない。浴場の管理者から指摘を受けたときも、その皆が出た後の乱雑ぶりを見ると、贔屓目に見ても言い訳を許さなかった。管理者の指摘も親切さを感じるほどであったので、只平身低頭素直に従った。
その後企業に入っても、手洗いでの躾を見てこの時のことを思い出す。
05.住友通信工業幹部の講話
玉川向の工場では計画的に住友通信工業の幹部の講話を聞くことになっていたが、これがなかなか予定通りに進まない。予定が流れて時間の無駄が多い。学生の身では予定表は常に実行できるものと信じているので、企業の会議の習慣…終日結論の出ない会議を行って、しかも飛び込みの会議もあり、幹部の予定がずるずると変更するのが当然と考えている企業の文化と大きな差があった。
今ならばこちらも企業文化に馴染んでいるので、当時ほど頭に来ないだろう。
06.連休延長手待ちの間
先にも述べたように、玉川向製造所では製品が順調に流れてこないために手待ちがたびたびであった。たまたま二日の連休になるのでもう一日延長をして貰って、宮崎君の家が筑波山にあるので、数人と山登りをした。今考えると無茶をしたものと思う。
07.満腹の姿勢金曜日の外食
胃が満杯になった時、どのような姿勢が一番楽かご存知だろうか。戦時下では比較的豊富な食事を出してもらっていてもまだ不足気味である。座間に滞在中は近くに滞在している軍関係の人々も同じである。この人たちは週末に外出許可が出て食欲を満たす。外食店もこの日に合わせて食材を用意しておく。我々の利点はこのような拘束がなく何時でも外出できる。従って食材がたっぷりある金曜日に出かけるのである。金曜日の食後は宿舎で正座をしている人が目立つのである。聞けば、寝るよりもこの正座が一番楽だという。翌朝皆何事もなかったように出勤していた。
08.昼間は修復作業、夜間は改悪作業
座間で電波探知機を調整している時に知った体験は「人間は厳密に言えば一私は…一日のうち頭が冴えているのは数時間にすぎない。」と言うことである。勿論個人差も大きい。具体的には、昼間に調整をして満足な結果になったので、この調子であと少し続けると更に素晴らしい状態になるといい気分になっていると、必ずといってよい程落し穴に落ちてしまう。夜遅くなっているので、作業は翌日になって修復作業となる。
この繰り返しが多かった。これは当時の真空管の性能が不足していて能力一杯では直ぐに能力不足になる。これを補うために回路を色々いじると以前の能力が出なくなる。
09.最高出力は瞬間カ 地上で最高好調、離陸をすれば処置なし不調
電波兵器は地上に出ている10メートル程の腕木の両端で反射電波を受けて、ブラウン管にそれぞれ赤と青の二色で表示して、左右が同じになれば白色になって、腕木と直角に検知物があると検知する方式である。三色でなく二色のカラー方式である。
発振管はエーコン管で元々が出力不足であり、それを無理して出力を上げると直ぐに出力不足になり調整は困難を極めた。他でも飛行機に搭載した電波兵器も地上で最高の調整をしても空中に上がると出力不足で期待の性能が出ないとの話も聞いた。
10.大学間の無連絡 第一工学部との情報交換
第一、第二の報告を読んでお互いに連絡がなかったことに気を付かれたかもしれない。私自身も今は不思議に思うほどであるが、当時の雰囲気は軍に関することは出来る限り避けるよう努力していたのが実情である。従って我々から積極的に情報を教官に求めなかった。同じ陸軍の指揮下になった他の大学の情報も全くなかった。
11.その後の中心道場
これは全くの余談であるが、京都、奈良間の研修所に用があって行ってみると昔中心道場をやっていたと言う。道場から研修所とは良い発想の転換である。
12.大部屋の生活
座間に宿舎を移転してからは、広い畳敷きの広間を障子で仕切って一室6名で、各自が其々持ち込んだ寝具で夜を過ごした。食事は特に大きな不満もなしに過ごしたと思っていた。
それよりも隊長として非常に有難く思うのは急患が一人も出なかったことである。
13.入出門の規律
玉川向工場では当然工場の正門を通って出入りする。ここでも大学と軍隊の常識の差が表面化する。東大の正門を学生が隊伍を組んで歩調を取って通る事などは想像も出来ない。この習慣が身に付いていると、つい雑談をしながら隊伍宇組まないで正門を通ることになる。軍隊では規律がない証拠として嫌われるのである。たびたび注意を受けた。
14.陸軍と海軍の中
電波報國隊の発想は、想像するに、陸軍が主導で海軍はお付き合いとして同調したように思える。第一工学部の作業を見ていても、海軍では研究部門であり、我々は工場での作業が最優先であったように思える。しかし陸軍に納期遅れの理由に人手を要求した製造会社も、予想以上の早さで実現した報國隊の実現で、受け入れの計画が十分と思えなかった。現に玉川向の期間は確立レた計画の下に日々を過ごしたとは思えなかった。
住友通信工業内部では両軍の管理下にあったが、作業現場では明確な管理状態にあるが、課長級になると両方のバッチを付けている。
少し横道に入るが、浴場では、「本来、海軍の技術領域の潜水艦探知機技術でも陸軍が優れた技術を開発している。」と贔屓話が出てくる。
この様な対抗意識は無駄なように思えた。
15.報國隊の期間延長不明確な目標
報國隊も年が明けたころ期間延長が話題になった。作業が遅れ気味であったので、軍としては延長が出来れば幸いと判断していたようだった。しかし我々の立場からは学業に飢えていたし、報國隊の目標が明確でないので文字通りの終了を希望した。勿論先生たちも我々の希望に賛成であったので、すんなりと予定通りに終了した。一部の学校では延長したと聞く。例によって公式の情報はなかった。
16.調整作業か開発作業か?調整作業法の確立が目的?
報國隊が発足しても兵器の製作が遅れ気味であって、住友通信工業内の検査作業の筈が、検査するものが届かなかった。最終調整の筈の座間での作業も実態は調整作業の技術開発であったと思う。我々の実力も指示を受けてやっと作業を行える程度である。現場には東北大学の先生たちも見えていた。
17.日米電波技術の差続合力の差
これまで日本の電波兵器の技術について不十分な点を強調しすぎたように思う。大学に戻り米国の爆撃機B29のRadarを分析する機会があったが、使用している技術が学会誌に報告がないのに先ず驚いた。明らかに発表を抑えていたとしか思えなかった。
落下したRadarを見ても、急な配線変更をしたために切断した線が残っていた。この原因は色々想像できるが、もっとも善意に解釈すると、戦場からの変更要求に素早く対応するためとも思われる。
機中のManualには北九州の俯瞰写真が出ていた。噂のようにここが目標だったかも知れない。
18.座布団電車
戦時下の雰囲気を伝えるために、息抜きとして、今では想像も出来ない情景を一つ入れる。休日明けには自宅から座間に戻ってくる連中もいる。彼らからの報告によると、新宿からの小田急線に将官の副官が恭しく座布団を提げて折り返しの空いた車両に乗り込んできて中央にその座布団を敷くと言う。ご当人は発車間際に乗り込んできてその定位置に座るという。今ならば当然自動車を利用すると思うが、当時は上級将官でも電車通勤であった。我々は「座布団電車」と陰で呼んだ。
19.おわりに今思うこと
19-1.何も知らなかった隊長
皆さんから報告を受けて、隊長として全てを知っていると思っている自信が全く壊れてしまった。よく報國隊が無事終了したと思う。戦時下で今以上に団体行動に対する協力心が強かったのであろう。もっとハッキリというと、戦争に疑問を持っていても戦っている以上やはり勝利には全力を挙げて協力をしていたのであろう。改めて多忙な中貴重な報告を寄せて戴いた皆さんにお礼を申し上げる。
19-2.何もしない隊長
何よりも恐ろしいのは戦争中で無気力感を持っていて只時の流れに従うよりしょうがないと諦めていたのは当時としては常識であったが、今考えるとあの時にもっと色々な手を打てたと思うと申し訳なく残念である。
19-4.この経験は生きているか
我々としては日米の技術力の差を紙上でなく生々しい現場で知った。貴重な体験である。残念ながら今でも技術育成の戦略では少しも改まっていない。今関係しているコンピュータソフト育成の戦略について痛感している。
陸軍の人との交渉方法の知識を習得したが、今では役立たせる機会が無い。
電波報國隊として海軍技術研究所に配属された細島博文、吉名真及び矢部は新川浩技師の電波探信儀開発に従事することになり、始めはともかく勉強のため、3号1型電探の試験調整を行っている茅ヶ崎砲台を約1週間見学した。ただ見学するだけでは勤労動員にはならないというためか、行き掛けに測距用目盛りを動かす指数関数ポテンションメーター(住友通信製)とその距離目盛りを高角砲の計算機に送信するセルシン(角度送信機)などを組み込み頑丈な箱に収めた測距装置(正式の名称は忘れた)を富士電機の川崎工場で受け取り茅ヶ崎砲台まで運搬した。つまり、我々3名の作業は重量物運搬で始まった。
茅ヶ崎では、海軍技研で3号1型の責任者だった乙部聖爾技術大尉(東工大・旧制中学で矢部の5年先輩、かつ矢部の小学同級生の兄)と砲術学校教官の上田實技術中尉(電気、昭和17年9月)にお世話になった。これも奇縁といえる。上田中尉の縁で砲術学校の電探部長の大佐(氏名を失念、後に戦死された)に夕食をご馳走になり、酒の上で、戦局や職業軍人の悩みを打ち明けられたのを人生の教訓として聞いた。
茅ヶ崎から恵比寿の技研に戻ると、3名は世田谷区砧の日本放送協会技術研究所に移り、受像機部において城見多津一技師の指導を受けてK―装置の開発を担当することになった。先ず、高柳健次郎部長に着任挨拶して、城見さんから仕事の内容を教えてもらった。
たった1年半しか電気を勉強していない、僕ら3名にとって、受像機のイロハから勉強しなければならなかった。いきなりビデオアンプといわれても、まったく分からない。しかたがないので、しばらくは図書室に入りびたりで、テレビの解説書やIREの論文を読み、やっと、研究室の人の言葉が分かるようになった。
さて、K―装置とはなにかというと、簡易型電波探信儀の開発コードで航空機搭載用になるべく軽量小型にすることが目標であった。プロジェクトリーダーは大阪大学の原子物理学の菊地正士教授であった。僕らの任務はK―装置のCRT表示装置を2台試作することで、軽量小型にするために真空管を使わず、磁気回路で、同期信号と、CRTの横軸偏向電圧、輝度信号、陽極加速電圧を発生する装置とCRTを一つの箱に収める設計であった。(注)
先ず、部品設計に着手する前に、納期が長い箱を設計して注文することから始めた。略図を書いて、蒲田にある通信機工場に頼みに行くまでは3名の共同作業だったが、部品設計に着手する前に、矢部だけ住友通信工業(現在のNEC)の玉川向工場検査課に行くことになった。したがって、その後の経過は細島君から聞いた話である。
箱の材料で問題が起きた。それは航空機用だからアルミを使いたいが、材料配給キップがないがどうするかと注文先の工場から質問されたが、手配の方法が分からずに、まごまごしていると、工場が適当に材料を融通して解決してくれた。やかましい統制時代でも、なんとかやりくりできることを経験した。
箱に収める部品はすべて細島・吉名両君の手製で、E型の圧粉鉄心にコイルを巻いたものとコンデンサ及び抵抗器をアルミ板に固定して回路をハンダ着けした。
昭和19年3月に完成品を菊地先生に届けたが、ただ受け取って戴けただけで、がっかりしたと細島君は述懐していた。
(以下も矢部の感想)
昭和19年2月に砧に戻ったときに完成した箱を見ることができたが、スマートな出来栄えで、とても兵器とは思えなかった記憶がある。
平成始めごろ、NHKの技術研究所の公開に行き、思い出の研究室の周囲を見て回った。その後、木造のテレビ研究室は取り壊されたので、今(平成16年)はない。日本で最初にテレビ放送の試験電波を送信したアンテナ、スタジオなどもなくなって、歴史の変転を痛感する。
小田急の祖師谷大蔵駅を降り、研究所まで麦畑を毎朝走った記憶が昨日のように残っている。
昭和18年10月から3学年になるので、今まで怠けていた勉強をしっかりやろうと思っていら、勤労動員 とかで、恵比寿(中目黒)の海軍技術研究所に行くことになった。(正直言って、何をするのか、まったく理解不足で始まった。)
仲間は、平野忠男、細島博文、三上一郎、吉名真、吉野淳一と僕である。何も分からずに行くと、平野君 と三上君及び吉野君は岡村先生の研究室、外の3名は新川浩技師の研究室に配属された。
しかし、新川技師は忙しくて、指導できないので、砧の日本放送協会技術研究所に転属された。転属が決 まるまで、電探取扱説明書を勉強したり、ドライバー1本で3号卓上電語器の修理をして時間つぶしをしたり 、雑用を手伝ったりしたが、ほとんど、仕事はなかった。雑用とは3号1型電波探信儀(フィリピンで捕獲した米国のレーダーのコピーで高角砲の照準用)の部品を川崎の富士電機の工場から茅ヶ崎の砲台まで運搬する仕事であった。その後は3号1型の試運転を約1週間見学した。毎日、牛乳(燃料が不足して都会に輸送できないので、茅ヶ崎では牛乳が余って困っていた。)をがぶ飲みして、終日、試運転の見学、そして夜はブリッジの手ほどきを受ける生活であった。
試運転が終了して恵比寿に戻ったら、日本放送協会の技術研究所で城見技師の指導を受けることが決まっていた。砧の研究所に出勤すると、受像機研究部に所属するので、高柳健次郎部長に着任の挨拶をした。したがって、我々3名はテレビで有名な高柳氏の弟子になったことになる。
受像機研究部で研究する電探の技術は、ブラウン管を使った表示装置(モニター)である。電気の学生といっても、1年半しか勉強していないのだから、先ずビデオアンプの回路から勉強しないと、何も分からない。それで、しばらく、図書室に籠もって参考書を読むことにした。
しばらくして、城見技師からK装置の表示装置を設計、製作することを命じられた。このことはK―装置に記載した。
12月ごろになって、矢部だけが住友通信工業(日本電気)の玉川向工場にある海軍技術研究所の出張所(小さなプレハブ小屋、現在のNEC技術学校がある場所)に転属になった。そこで、3号2型電波探信儀の出荷検査を手伝うことになった。3号2型はシンガポールで分捕った英国のSLC(サーチライトコントロール)をデッドコピーしたものである。これを25台まとめて生産した。
佐藤博検査課長(戦後は東洋通信機の社長)の下で雑用をしながら装置の出荷検査を手伝いながら作業を見学していた。忘年会の夜は出張所の宿直をする社員がいないので、代理することになった。小屋の和室で寝ていると、小屋のすぐ隣にある線路を走る貨物列車の揺れで目が覚めるが、昼間の疲れでなんとか熟睡した。毎日夕食を工員宿舎でご馳走になるが、帰るのは東横線工業都市駅(今はない、新丸子と元住吉の中間にあった。東横線の武蔵小杉駅はなかった)から終電車で渋谷に出て山手線で巣鴨の自宅に戻ると12時になり、軽く夜食を食べて寝て、朝は6時に起きて、8時までに玉川向工場の南側の田圃にある小屋に出勤するのが日課になった。幸いに社員と違って、海軍からの派遣者だから工場のタイムレコーダーに関係しないので、社員より30分遅くても作業開始時に間に合うので助かった。
作業は先ず、蓄電池の運搬から始まり、1号機の各装置を相互に接続するケーブルにコネクターをハンダ着けすることを手伝った。装置を机に並べて、真空管を挿すと準備完了する。出荷前の検査とは、受信機の調整である。200MHzの受信機の周波数変換は、空中線からの入力を5極のエーコンチューブ(小型の真空管UN-954)で3極のエーコンチューブ(UN-955)で局部発振した信号と混合する方式であった。ところが、この同調回路の立体的構造が微妙で感度を上げると発振を起こし、発振を抑えると感度が低くなる。設計の技術者がハンダ鏝を振り回して、切ったり、つないだりして、調整したが、予期する受信性能が出ない。
毎日、この繰り返しで3週間ぐらい過ぎ、やっと、どうにか送受信の総合運転ができるようになったのは昭和19年も年末に近いころであった。
総合試運転には、探照灯と管制装置(12サンチ高角双眼鏡で敵を追尾する装置)を連動させる電動発電機を運転しなければならない。これらを運転すると、小屋は騒音で満たされる。そして、3本継ぎのアンテナ柱の中程にある腕木に載せたM装置(味方識別装置、送信機からのパルス電波を受けて、一定時聞遅れた同じ周波数のパルスを発信する装置)からの戻り電波が受信できるかどうかを検査する仕事である。
アンテナ柱は木柱を3本つないだ移動用の電離層観測用アンテナ柱で、支線は鋼線ではなくマニラロープでゆるく張ってある。したがって、柱はぐらぐら揺れているので、M装置を滑車で吊り上げると同調が狂ってしまう。それを吊り上げてから足場釘を頼りに電柱を昇り、レーシーバーを耳に当てて、同調ダイアルを調節する。胴綱(安全ベルト)もない危険な作業で、片腕はしっかり電柱を抱えていなければならないから、操作はすべて片手で行う離れ技が必要であった。12月末の寒い夜に高い電柱でこの作業を行っていたら風邪をひいて発熱したが、電波研究部総員集合が命令されたので、無理して31日に伊藤庸二電波研究部長(大正13年卒)の年末訓示(論語の話)を恵比寿で聞いて帰宅した。翌日(昭和19年元旦)起きられず、顔の右半分が神経痛で、雑煮も食べられなくなった。幸いかかりつけの医者が元旦にも拘わらず往診に来てくれて、モルヒネ注射で、やっと口が動くようになった。この後遺症は60年後の今でも僅かに残っている。
貴重な新年の休日も病気回復に使って、4日からまた終電車帰宅を再開した。しかし、我が国の通信機工業としては最初の射撃用電探25台の量産は画期的な冒険で、最初の1台すら完成していなかった。
3号2型は4組の指向性八木アンテナをフェイズリングで合成した信号を受信機に入れ、出力をフェイズリングと同期してブラウン管の垂直水平軸に入れ、中心スポットを上下左右に表示する装置であった。八木アンテナの受信ロッドのインピーダンス整合するような位置に2本の同軸ケーブルを接続し、外部導体を三角形に結合して平行にし、スペルトップフ(Sperrtopf)で1本の同軸ケーブルに変換してフェイズリングの入力端子に入れる。
このような装置は複雑でコストも高いので、フェイズリングを廃止して機械的接点を使う改良設計(日立・戸塚工場)が同時に進められていた。
前述のように、受信機の調整が非常に難しく、設計課員が必死に調整するが、なかなか所期の性能が出なかった。2週間ぐらい苦労して、やっと受信機の調子がよくなると、反射体をぶら下げた風船を上げて追尾実験に移るが、距離1万メートルの敵機を捕捉して、探照灯を照射できなければ合格にならない。風船の場合は反射体が小さいから3千メートルぐらいまで追尾できれば合格という基準になっていた。しかし、最初は千メートルで分からなくなる。肉眼で見える距離の風船がレーダーで見つからないのだから、話にならない。
あれもだめ、これもだめ、と試行錯誤を繰り返しているのを見学していた僕には、一つの解決策が浮んだ。それで、疲れて困っている社員に代わって、双眼鏡(送信機及び送信アンテナと一体になっていて、受信アンテナを装着した探照灯と連動する)の操作を行うことを提案し、許されて、操作ハンドルを握った。見事、解決策(雑音を無視して、目標からの信号だけに注目する方法、雑音と信号の区別は経験による判断、経験法則は説明できる)は成功して3千メートルの追尾性能を実証する事ができた。万歳、これで行ける。検査課長も設計部長も大喜び。それからは、次から次に合格して、とうとう、2月末の納期を5日残して完成した。戦時中でなくても、新しい通信機が納期に間に合うことはなかったから、これは製造した工場も注文した海軍もびっ<りした大事件になった。
昭和19年2月末、僕の仕事はなくなったので砧に戻った。到底3月までに終わると思っていなかったので、あと1ヵ月の仕事が用意されていなかったが、城見技師から福岡に行けと言われた。九州の福岡かとびっくりして聞くと、国際電信電話㈱の研究所の分室が埼玉県の上福岡にあるから、そこの竹内彦太郎課長の仕事を手伝うことになった。池袋から東上線で上福岡に行き麦畑の中を歩いて、受信所のアンテナの下にある小さな研究室を訪問した。ここでは、アンテナをコンパクトにするためにFolded Yagiの指向性の研究を手伝うことになった。研究論文の抜き刷りを渡されて勉強しながら実験を手伝った。やはり帰りは終電車で、麦畑を走りながら隣の新河岸駅を発車する電車の音を聞いて慌てる毎晩であった。
昭和28年に日本でもテレビ放送が始まったが、使われたアンテナはすべてFoldedであったので、感慨無量で見ていた。恐らく、世界で初めてのFolded Yagiの実用化を昭和19年に我々は試みていたのではないだろうかと思う。しかし、今から考えると間が抜けていたと思うのは反射器、導波器も正直に折り曲げていたことである。
アンテナ研究の完成は見ないで、3月末に大学に戻った。
平和な現在からみると、僕の体験した学徒動員は、労働基準を無視した労働であった。朝8時から夜11時まで毎日、しかも、電柱の上の作業(墜落危険)や、バラックセットの送信機(感電危険)などであるが、幸いにも風邪による顔面神経痛だけで、無事に大学に戻ることができた。
電波兵器の検査を3ヵ月経験したことは、新米の海軍技術中尉として呉海軍工廠電気部外業工場に配属され、潜水艦の無線蟻装を担当したとき、熟練した工員などからも評価された。この時にイ号48潜水艦の橋本艦長とお会いして、電探整備を念入りに要望されたことは印象に残っている。同艦は原爆をテニヤンに輸送した巡洋艦インディアナポリスをその帰途に捕捉し撃沈する殊勲を立てたことは橋本艦長の手記(伊58潜帰投せり:戦記文庫)に詳しい。同艦長は潜水艦に電探を装備することを主張し、重視したことで有名である。
また、危険な作業を経験したことは、後に化学工場の現場で勤務する場合に労働安全衛生などのリスクについても理解できるようになった。
技術は科学を基礎にしているが、人の技能も必要なことを体験することができた。新技術の開発において、この経験は役に立ったと思う。
戦争最後の段階で、厚木と伊丹に秋水(液体燃料[ヒドラジン・過酸化水素]コロケット戦闘機)の配備が予定され、その誘導装置の工事が進められていた時期に、伊丹航空隊の設備工事を担当した。詳しい説明は何もなく現地工事の実務だけベテランの技術大尉から指導を受けたが、電探そのものは百も承知として準備をしていた。考えてみると、おかしな話で、呉の山の上に3号2型は1台あったが、3号1型を知っている技術士官は誰もいなかった。なんの抵抗もなく、この仕事を引き受けたが、潜水艦と水上特攻を担当中の僕が突然、伊丹に行けと言われたのは、勤労動員の経歴が関係したのかも知れない。
秋水誘導装置は2台の電探で味方の秋水戦闘機と敵B29爆撃機の高度と位置を時々刻々求め未来位置高度を計算し、敵を攻撃するために秋水が飛行する方向(方位角と目標高度)を操縦士に伝える装置である。当時の計算機はアナログ方式であったが、電探から送られたデータを計算することができた。秋水戦闘機は非常に高速で飛び航続時間も短いので、操縦士が敵を目視で捕らえて接近することは無理だから、地上から敵の飛行する方向と速度を測定して、操縦士に方向を指示する必要があった。
結局、伊丹に行く準備中に戦争が終わり、この仕事も幻になった。なお、厚木の秋水誘導装置については内田敦美君(第二工学部電気同期生)が浜名風(海軍技術浜名会編、1994年5月)の35ぺ一ジに述べている。
小生は海軍委託学生でしたので皆さんと異なり別行動となりました。恵比寿の海軍技術研究所に配属になり吉野淳一、三上一郎両君が一緒でした。我々の勤務は監督は業務課長、矢島技術大佐でしたが非常に厳しい方で、一般工員に対し恥ずかしくない行動をするよう言われた記憶が有ります。なお宿舎は当初工員寮でしたが、問題も有り途中から自宅通勤が認められました。所長は徳川技術中将で颯爽たる姿で挨拶をされたのを聞いた記憶があります。また毎朝朝礼の後伊藤庸二技術大佐が「論語」の一節を朗読、説明され、なかなかの名講義でしたが、これは職員、一般工員に対する道徳教育の意味が有ったと思います。戦後伊藤氏は「光電製作所」を設立され、電波応用機器部門で色々活躍されたようです。
さて小生の勤務内容は「電波探知機の基礎実験」と言うことですが、実際は上司の方の実験のお手伝いでした。電波探知機は昭和16年に伊藤大佐がドイツ留学から帰られて、その必要性、精度向上が重要であるとのことで研究が始まったようですが、当時日本ではアメリカより性能が大きく劣っていることに気が付かなかったようです。
さて私も電波探知機「以下レーダーと略記」の原理、機構とか、性能向上のため超短波を出すための発振管「マグネトロン」とかを俄勉強しました。上司には大阪大学の林竜雄先生、東大の岡村総吾、斉藤成文、杉下和也等の先生がおりましたが、私は直接には杉下氏の下にいて色々お手伝いしました。またレーダーの性能試験のため月鳥まで海軍のトラックで出かけたこともありますが、これは斉藤先生が指揮を取っておりました。ブラウン管上に船から反射らしい、かすかな、ぼんやりしたパルスを見た記憶が有ります。いずれにしても私の場合実験の手伝いが多く、自分で独自の実験をした記憶があまり無く「忘れたのかも知れないが」、実際の仕事に役にたったかどうか自信がありません。然し電波兵器の基礎を若干でも勉強出来たこと、海軍部内の雰囲気を少し体験出来たことは矢張り有意義だったと思います。
以上断片的な記憶をたどって記してきたが、具体的にどのような実験をしたのか、或いは生活環境等どうもよく思い出せない。何か大事な事を忘れているかもしれません。戦後海軍技研は技術研防衛庁研究所になり、昭和40年頃知人に会うため同所を訪ねたことがあるが、建物は当時のままだったようですがなにか明るい感じを抱いた。建物の色でも変わったためか?。卒業以来吉野君と連絡が取れないのは気がかりである。
期 間:昭和18年10月~19年3月および4月19~29日
分遣先:東大航空研究所(多摩陸軍技術研究所駒場研究室)
分遣者:安達芳夫、妻藤達夫、津澤正巳、丹羽登、藤井忠邦
駒場の航空研究所には正門正面の本館の上に大きな時計塔があり、さらに其の上にはフィリピンのコレヒドールで捕獲した米軍のレーダーのアンテナが聳えたっていた。周囲の建物は昭和初期からの荘重な煉瓦作りであった。(なお当時航研があった敷地は現在は駒場リサーチキャンパスと呼ばれ、東大生研をはじめ種々の研究施設が建ってしまったが、時計塔のある本館は歴史的建造物として残され、昔の面影を伝えている。)
航研へ派遣された我々の所属は第二工学部電気工学科主任の星合正治教授が兼務しておられる研究室で、井上均助教授と庄野久男技官が専任で直接ご指導をいただいた。
我々の電波報國隊が発足した直前に、電波兵器の劣勢を補うべく多摩陸軍技術研究所が創設(昭和18年6月)され、星合研究室は多摩研駒場研究室となっていた。キャンパスの中央列南端に16号と呼ばれる木造3階建てがあり、波長1.7m(タキ1)、0.8m(タキ2)、4m(タキ3)のパルスレーダーの研究が進められていた。屋上のやぐらにはヤギアンテナが林立していた。
その頃陸軍では警戒機・標定機など航空関係の電波機器を「タ号」という略称で呼んでいた。機上搭載用は「タキn」、地上用は「タチn」で、nは順次つけられた番号である。なお地上用は(た号三型、た号改四型)などと省略した呼びかたも使われていた。
また同研究室ではパルスエコー方式の高々度用電波高度計(タキ11)と、FM方式による低高度用電波高度計(タキ13)の2種(双方とも波長0.8m)につき改良研究、試作が活発に続けられていた。この高度計の開発は多摩研創設以前からの、同研究室による先駆的研究によるもので、星合教授・井上助教授ほか数名の関係者は陸軍大臣から表彰されたと後で知った4)。
電波報國隊が始まった最初には井上助教授から電波兵器の概説と現状についての講義があった。我々は入学した直後(昭和17年4月18日)の書休みに東京奇襲の米軍双発機を見て驚いた。それは外房に設置されていた俗にワンワン式と呼ばれる超短波連続波の警戒機で捕捉されていたにもかかわらず、東京への通信連絡系が不備で空襲警報が遅れたのだという話が耳に残っている。その警戒機とは銚子・白浜に設撞された70MHz帯連続波の送受信地点を結ぶ警戒線を航空機が横切ると直接波と機からの反射波との干渉でワンワンと聞こえる(タチ6)だったようである4)。
多摩研からは唐津一先輩(後に松下通信㈱/東海大教授)が中尉として常駐され陣頭指揮をとっておられた。星合教授は(タキ11)の高高度飛行試験の際、空気が希薄で息苦しくて寒かった話を繰りかえされた。
我々は全員が同一行動ではなく、適宜仕事を分担していたのと、古いことで、不正確かつ断片的ではあるが、記憶に残るものを列挙する。
①電波高度計の研究・試作の応援
②反射波の遅れ時問を知るための、繰返し周波数(1KHz)の移相器試作
③レッヘル線、立体回路による超再生受信器の試作。波長α8m帯用
④1.7mレーダーの操作:時計塔上のアンテナと、屋上の木造小屋の送受信機とは太い同軸ケーブルで接続されていた。CRT上のAスコープ波形を見て塔上と電話で連絡しながらパルスレーダー習熟のための操作・特性測定を行った。アンテナ係は地上高44mの、寒風でかじかんだ手で、方位角用の大きなハンドルを操作してアンテナアレーの架台を回し、別の1人が上下角用のハンドルでビームアンテナの迎角を変える。エコーの源である航空機はめったに飛んでいなかったが、容易につかまる秩父連山やその後方の富士山の冬景色が瞼に残る。
⑤平磯実験:昭和19年3月末電波報國隊は終了し、4月から卒業研究の準備が始まっていたが、航研組は4月19日一29日茨城県平磯での多摩研の演習への参加を要請された。海岸の崖の上に多摩研傘下の波長の違う各種のレーダーが集められていた。水平飛行の試験機を追跡し、飛行高度をかえて繰り返す大規模な総合演習であった。古賀逸策教授が総指揮をとっておられた。我々は航研班のレーダー機材を駒場で梱包して唐津中尉運転の輸送車に積み込み、同乗し、現地では装置・アンテナの組立て、調整、操作運用などを行った。
電波報國隊の開始まで入学から1年半、2回あった夏休みは短縮され、直前の夏期実習も例年どうり実施されていた。それまでも講義は充実して行われていたが、動員先で指示された業務をこなすには電気工学科の3年生としての知識は不足だったと言わざるを得ない。その頃使っていた筆者のメモ帖(いわゆる大学ノート)には必要に迫られて読みまくった参考書・便覧の要旨が細かく書き込まれているが、紙が黄色くなり装丁も悪く、バラバラになりかかっている。
また、例えば動員直前には「広帯域増幅器の特性」についての森脇助教授の番外の講義があった。その時は内容を充分には理解できなかったが、後日パルスエコー方式の回路を自作するようになって、パルスの波形を崩さずに増幅するのに有効と知った。
この電波報國隊の初期(昭和18年12月)にレーダーを中心とした「超短波技術講習会」が科学動員協会主催で開かれ、それに出席したという修了讃書が手許に残っている。海軍技研・陸軍多摩・電波研・電気試験所・NHK技研・東芝・住通などからの極めて著名な講師陣による送信回路・受信回路・非正弦波回路・警戒機・標定機・・・などの講義名が記入されたA3版の立派な免状である。会場は本郷の東大法文系の大講義室だったように思うが、講義日数・時間などの記憶は無い。休憩時間に、他大学の電気工学科へ進んだ昔の同級生に会ったので、我々に続いて第2期の電波報國隊が計画されているらしい、と気付いた記憶がある。(当時は接している軍関係の仕事については、みだりに聞いたり話したりしない習慣があった。)
電波報國隊が3月に終わって大学に戻り卒業研究が始まった頃定められた「決戦非常措置ニ基ヅク学徒動員実施要領」によると「理科系ノモノハ其ノ専門ニ応ジ軍関係工場…ニ配置シ…」とあり、他学科の諸君も既に内定していた就職先などへそれぞれ動員されていたようである[文献1)p.142~p.144]。なお、この種の動員は昭和18年6月に「学徒動員体制確立要綱」で決まり、電波報國隊が発足した10月初日の直後、10月21日には小雨の明治神宮外苑で出陣学徒壮行会が行われた。
このような情勢下で実施された電波報國隊では、レーダーなどに直接関係する電気工学科学生らしい仕事もあったけれども、単純作業・肉体労働で、つらいことも多かった。航研分遣組は恵まれていた方であろう。級友の評価も感想も種々まちまちである。文書として残っている例を引用する。
宮崎仁君は「浜名海兵団を経て中尉に任官後海軍電測学校に入った。そこはレーダー関係の研究・教育機関で、僕は大学のとき動員でレーダーをやっていたから、こっちが先生方を教える立場になっちゃてね。」と電波報國隊の効果を語っている。[文献1)p.173]
また藤井忠邦君は我々を代表した思い出の記[文献2)p.179]の中で「電波報國隊の期間中一部の人は軍の研究の手伝いをしたが、多くはタ号電探の据付調整、電源の運搬など並大抵の苦労ではなかった。浜名海兵団の後は沼津海軍工廠無線部で電探関係の技術に従事したことになっている。然し敗戦直前の混乱期で、目先の応急対策に追い回され、建設的な仕事は出来なかった。終戦は工廠の疎開先、伊豆長岡の洞窟の中で迎えた」と記している。
筆者は電波報國隊のあとも多摩研の分室になっていた高木昇教授の研究室でレーダー校正装置の研究開発を続ける事が出来た。試験器をかついで関東地区のレーダー陣地を回った3)。直接接した標定機は稲毛・銚子の高射学校を含め10基余であったが、主力は電波報國隊の本隊が住通で苦心惨濾した「タ号3型」であった。「タ号2型」は1基だけ残っていた。「タ号1,2,4型」の長所をまとめた「タ号改4型4」は陣地に1基と高射学校の他はメーカーである東芝の小向調整場で接しただけであった。優秀な分隊長がいてタ号を良く使いこなしている陣地もあった。このことは記録に残したい。
さらに電波報國隊でも接していた(タキ1、タキ2)が既に双発機に搭載されているのでその較正装置も、との指示が来て(昭和20年6月)、徹夜を繰り返して製作した。上記のタ号陣地回りと時期が重なってしまい、6-8月は極端な過労の連続であった。同期生は皆軍服なのだからという緊張感で体力を持たせていたらしい。新作の機上用較正装置と電源箱をかつぎ、空襲や機銃掃射でヅタヅタの列車を乗り継いで富山の飛行基地へ通うこと3回、敗戦は富山で迎えた。
卒業式で卒業証書と共にもらった学士資格の免状(全取得科目名・卒論題目など記載)の欄外に「在学中大東亜戦争学徒勤労動員出勤」と朱印が捺してある。つまり動員のため大学での実質的勉学時問は短かったと証明されているのだ。戦時の「非常措置」によるとはいえ、電波報國隊によって貴重な学生時代を労働に費やしたとも言えるし、その体験・知識を後日に生かし得た例もあった。想いは複雑である。
電波報國隊を内側から見た記録を作ろうと試みたが、忘れかけていることも多いので(下記の)文献や当時のメモを活用して極力正確を期した。しかし、その内容は電波報國隊の一員である学生として、またその後も多摩研の分室である東大の研究室に所属する民間人としての見聞に過ぎず、軍のレーダー担当者としての正確な記述ではないことをお断りしておく。
参考文献
1)今岡和彦:東京大学第二工学部。講談社(1987.3)
2)東大電気電子工学科同窓会編・刊:東大電気工学科のあゆみ(1983.5)
3)丹羽登:超音波をレーダーの校正に、超音波TECHNO、日本工業出版㈱刊、8巻7号38-41頁(1996.7)
4)石川俊彦編著1軍用無線機概説、資料編Ⅱ、(1996)、(自費出版)