電波報國隊の記録(二工)/大西順一郎
はしがき
前回の戦争の末期近く昭和18年には戦況は制空権が大きな鍵を握るようになった。これには航空機の性能の優秀なことは言うまでも無いがそれにも劣らず大きな重要な戦力に影響するのは電波を利用して敵機を捕らえることであった。これは戦況が不利になると共に米国との技術力の差が明らかになった。開発力と共に更に製造力の育成が最重点になってきたが、従来の武器と全く異なるために製造能力を増大するためには基礎から教育訓練を開始しなければならない。このため製造力の拡大は計画に対して大幅に遅れてきた。このような時にはできるだけ充足が困難な条件を取り上げて言い逃れをするのはよくあることである。このときも、製造部門から「遅れは電波兵器製造に必要な技能者が著しく不足している」と言う声が出てきたのであろう。この時期には大学生、高専生を動員して戦力化しようとの動きがあったので、軍としては現場の実情も調べずにこの声に乗って、大学工学部のしかも電気工学を専攻している学生を一般学生よりも一足早く動員して製造現場の応援をさせるのは当然の流れであった。
勿論、この必要を感じたのは陸軍と思われるが、海軍も同調して同時に実施が決定した。具体的な実施方法はそれぞれが別に決めていた。戦時下ではあまり必要でない具体的な情報を集める発想は無かったので自分自身に関係することしか知らなかった。第一工学部と第二工学部、陸軍と海軍での作業内容が、この記録を編集するために寄せられた報告を読んで始めて知って、基本的に違っている点が多いのに驚いている次第である。私は字が拙くて自分で書いた文字を読むのが嫌いであったので記録を残さない主義であった。従って不十分な記憶に頼っているので皆さん方から頂いた記録に大変助けられた。ここで寄せられた方々にお礼を申し上げたい。
報告は大きく三部に分けて先ず報國隊の客観的な概要をまとめて、次に皆さんから寄せてもらった報告の抜粋と最後の第三部に私の主観的な記録を報告することにした。
第一部 第ニエ学部電波報國隊の概要
1.第二工学部本隊
期間:昭和18年10月8日~昭和19年3月31日
1.所属 陸軍東京第一造兵廠
主管 青木少佐(後に中佐)
2.1 第一次作業場所住友通信工業㈱玉川向製造所
(宿舎東一造宿舎浦和)
全員が合宿となった。この宿舎には、東京工業大学、早稲田大学が宿泊した。
【作業内容】
これは当時でもハッキリと明確な人に説明できなかったのが我々の作業の特徴である。明確な指示も無かったような印象である。組み上がってきたセットの検査も少ししたような記憶がある。しかし、順調に物が流れて来なかったのが強い印象である。また手待ちになった時に読書をしていると、読書を止めるように注意を受けたという噂もあった。今思えば次の相武台の作業が本来の作業で、それまでの待ち時間と思われる。
2.2第二次 作業場所 相武台最終調整現場(正式名称不明)
(宿舎 中心道場 小田急線 座間)
【作業内容】
来襲する航空機の方向を電波で探知する電波探知機で本体は地下に埋めていて、左右に伸びた腕木の両端にアンテナを取り付けてあってこれを360°回転して左右のパルスが同じ強さになるようにして飛行機の方向を検出する。この電波探知機の最終調整をする作業場である。しかじ現実は調整の方法を検討する段階であった。
2.3住友通信工業 生田研究所(枡形山)
(宿舎は同じ 中心道場)
3.に述べるような研究を支援していた。
2.東大航空研究所 (注)この部分は丹羽君の報告を基にしている。
(陸軍多摩技術研究所駒場分室)
期間:昭和18年10月8日~昭和19年3月31日
分遣先:東大航空研究所(陸軍多摩技術研究所駒場分室)駒場の航空研究所には正門正面の本館の上に大きな時計台があり、更に其の上にはフィリピンのコレヒドールで捕獲した米軍のレーダーのアンテナが聳え立っていた。電波報國隊発足の前年には、電波兵器の劣勢を補うべく陸軍多摩技術研究所を創設し(昭和17年6月)星合研究室は多摩研駒場分室(正式名称不明)となっていた。キャンパスの一番奥に新設した木造建築が我々の作業場であった。波長1.7m(タキ)、0.8m(タキ2)、4m(タキ3)のパルスレーダーの研究を進めていて、また航空機から地表までのパルスの往復時間をCRTでなく回転するネオン管の点灯位置で示す方式の高高度用電波高度計(波長0.8、タキ11)の研究・試作も行っていた(タキnは航空機搭載電波機器の略称)。3階の屋上の櫓にはレーダーのヤギアンテナが乱立していた。唐津先輩が中尉として常駐、陣頭指揮を執っておられた。星合教授はタキ11の高高度飛行実験の際空気が希薄で息苦しくて寒かった話を繰り返された。
分遣者:安達芳夫 妻藤達夫 津澤正巳 丹羽登 藤井忠邦
【作業内容】
1)タキ(11)―波長08m高高度用電波高度計の研究試作の応援
2)測距のための繰り返し周波数の移相器試作
3)レッヘル線、立体回路による超再生受信器の試作と波長測定
4)1.7mレーダーの操作時計台上のアンテナと太い同軸ケーブルでつながった屋上の木造小屋の送信機とで連絡を取りながらパルスレーダー習熟の為の操作・特性測定を行った。アンテナ系は地上高44mの寒風でかじかんだ手で方位角用の大きなハンドルを操作してアンテナ台全体を回し、別の一人が上下角用のハンドルでビームアンテナエレメントの迎角を換える。エコーの源であった秩父連山の冬景色が瞼に残る。
5)平磯実験 報國隊終了後の4月19日―29日平磯での多摩研の大規模なレーダー総合実験への参加を要請された。波長の違うパルスレーダーを併用して、水平飛行をして来る航空機からのエコー直接波と海面反射波との干渉間隔から、飛行高度を測る実験を平磯海岸の崖上で行っていた。我々は航研班のレーダー機材を駒場で輸送車に積み込み同乗し、現地での組み立て、操作運用などを行った。
日本工業出版社刊8巻7号(1996.7)
3.住友通信工業 生田研究所 (注)この部分は相田君の報告による
派遣先:第二研究課
派遣者:相田実 大久保欣哉
【作業内容】
1)中間周波トランスの特性測定
2)センチメートル波発振管の測定
住友通信工業生田研究所には無線レーダの研究の拠点で有能な先輩が多く活躍していた。所長は大沢さん(昭和7年卒)第二工学部に来られた森脇先生(昭和8年卒)長森享三(昭和9年卒)多田さん(昭和11年卒)国府さん(昭和13年卒)川橋さん(昭和18年卒)西尾さん(昭和9年卒)原島さん(昭和10年卒)が居られた。それぞれ戦後の日電の技術を背負って活躍した人々である。
第二部 皆さんの報告抜粋
01.物価と手当て
当時は物価統制令で公定価格である。
干し柿 5.75/500匁 蕪、人参、大根 1.05 味噌漬、大蒜 127
沢庵 0.51 鱈 5,10/1貫目 鰈 6.60/1貫目
東一造で隔週配給していた饅頭は4個20銭となる。因みに我々の手当ては毎月45円であった。(相田君)
02.座間では一間6人
同室者の個性描写も詳しくあった。非常に有意義な生活だったとの感想も述べている。(相田君)
03.「在学中大東亜戦争学徒勤労動員出動」朱印 (3ぺ一ジ参照)
取得科目証明書(取得科目、卒論題目記載)に捺印してある。(丹羽君)
04.超音波技術講習会(財団法人科学動員協会主催)
極めて著名な講師陣で東大の法文系の大講義室で行われた。(丹羽君)
05.我々の電気知識
電波報國隊の開始まで入学から1年半、2回あった夏休みは短縮され直前の夏休みも夏季実習があった。それまでも講義は充実していたが、動員先で与えられた業務をするには電気工学科の3年生としての知識は不足だったと言わざるを得ない。其の頃使っていたメモ帳(大学ノート)は紙も装丁を悪く、ばらばらになりかかっているが必要に追られて読みまくった参考書・便覧の要旨が細かく書き込まれている。(丹羽君)
06.航研組の感想
レーダーなどに直接関係する仕事もあったし、肉体労働、単純作業でつらいことも多かった。しかし我々は条件が良かった方だとも言えそうである。つまり動員のため大学での実質的勉学時間は短かったと証明されているのだ。戦時の「非常措置」によるとは言え、電波報國隊によって貴重な青春の時間を費やしたとも言えるし、其の体験・知識を後日に生かし得た例もあった。思いは複雑である。従って級友の評価も感想もまちまちである。(丹羽君)
07.当時発表したこの級友の評価
宮崎仁君は「浜名海兵団を経て中尉に任官後海軍電測学校に入った。レーダー関係の研究・教育機関で、僕は大学の時動員でレーダをやっていたから、こっちが先生方を教える立場になっちゃってね。」と(今岡和彦:東京大学第二工学部 講談社(1987.3))に述べている。
航研組であった藤井忠邦君は「電波報國隊の期間中、一部の人は軍の研究の手伝いをしたが、多くはタ号電探の据付調整、電源の運搬など並大低の苦労ではなかった。」と(東大電気電子工学科同窓会編:東大電気工学科のあゆみ同窓会刊(1983.5))に述べている。(丹羽君)
08.食料買い囲しの名手
軍と関係が深く食料には恵まれていたがそれでもやはり補充が必要であった。多くの期待を集めて芋の買出しに能力を大いに発揮した。これは家庭環境と米語に似ている金沢弁を身に着けていた為と思っている。(山本君)
09.一人頑張る
年末には皆帰省した。私は翌朝出発する予定だった。一人錬兵場で体操していると、青木中佐が近づいて「良い体操をしているね!」と声が掛かった。「東大鍛練体操です」と答えると「友達はどうした」と重ねての質問である。「年末年始の休みで帰省しました。私も明日帰るつもりでいます。」と答えると早速「学生達は日本が今どんなに大変だか解っていないので困る。この電波兵器が一週間遅れると、南方の島が一つ占領されてしまうのだ。この際休みを延ばして手伝ってくれないかね?」と返ってきた。こちらも「友達と旅行の約束をしているので、困ります。」と答えた。「約束なら電話か電報で断ればよい。君だけでも手伝ってくれよ!」と頼まれると嫌とはいえない。宿舎の中心道場に宿と食事を協力してもらった。道場は80畳の大広間、押入れの中は鼠の集団が暴れていた。俺も男だ、一人で頑張った。(宮本君)
10.黄疸にかかる
徴兵検査のために帰郷した時に寝込んだ。診断では「黄疸」と診断であった。私は一番重症で回復に約1月かかった。ハッキリした原因は不明だが、宿舎で「南京虫」対策に「ピンデン」と言う殺虫剤を多用した為、肝臓を悪くしたと思われる。(宮本君)
第三部 隊長の記憶から
00.まえがき
前にも述べたように、戦時下では今のように情報公開の環境ではなくむしろ情報は機密事項として外部に漏れないように努力をしていた。今ならば十分な討議をしなければならない事もしないで隊長が殆ど独断で決心して実行ができた。今この様なことを続けていると必ず不満が出てくると思うけれども、当時は終了までこの方向で続いた。従って今ここに報國隊として級友に明らかにしていなかった事項を報告する。
さらに、手元に寄せられた報告から新しい事実がたくさん判明した、いかに事実を知ることの難しさを感じている。
01.入寮歓迎夕食会…寮長の嫌がらせと…気配り
浦和にある東一造の宿舎に陸軍に所属する東京工大、早稲田大学と合同であった。宿舎に入った日の夕食は三大学合同の歓迎会であった。これ以後は全く相互に打ち合せ会も連絡会もなかった。勿論昼聞の作業についても話し合ったことも無い。戦争中は上からの指示なしで会合することは軍としては好ましくないことの相談していると疑って神経を尖らせていた。軍に関することは口に出さないことを無難としていた。今考えると自分でも異常であったと思うが、当時としては当然であった。
最初に出てきた問題は食前の挨拶をして箸を取るときに起こった。「舎監よりも我々が先に箸を取ったのは礼儀に反する。隊長が代表して謝りに行くべきでないか」と早稲田の隊長が駆けつけてきた。先ずは気配りの凄さに驚いた。東工大の隊長と相談してもとっさの事で結論が出ない。結論としては一同で食前の挨拶をした後であるので我々の常識では問題にならないのでないかと謝りに行かなかった。食後はやはり歌を歌うことになり一高出身者に寮歌をお願いした。
02.教養講演会賀川豊彦氏の講話
作業の間に一般教養の講演会もあった。その一つに戦時体制で旅行が大変な時に日本を回って精神訓話をしておられた著名な賀川豊彦氏が来られて講話があった。話の内容は全然覚えていないが、強烈に印象に残ったのは途中に元素の周期表が出てきた時である。黒板に向かってスイスイと淀みなく周期表が出来てくる。記憶の良さを印象付けているようであった。しかし話し相手が悪かった。周期表を書くことは出来なくとも間違いを見つけることは出来る。あちこちに誤りが出てくると講師に不信を持つようになる。講話する前に相手を知ることの大切さを反面教師として知った。
03.年末休暇交渉
年末が近づいて来て、年末年始の作業を打ち合わすことで思い出すことが多い。この打ち合わせは我々を世話するために同じように道場に宿泊していた少尉とすることになった。当然単独では休暇の許可を出せないので沈黙が続いた。そこに同席していた道場の主が「今の若者は“休暇を取りたければ取りなさい”と強く言えば、決して取りませんよ。」と口を出した、良い忠告をもらったと少尉はその通りをこちらに向かって返答した。こちらの面前で言われたことに反撃するような雰囲気になり、「お言葉通り休暇を頂きます。」と返事して決着をつけた。当時はすでに大阪までの切符を手に入れるのは困難であったが早速手に入れて急いで帰阪した。`
ところが宮本君からの報告を見て、一日残っていたために上官に会い説得されて皆を代表して残ったと言うのを始めて知った。
04.入浴の後始末
浦和宿舎の浴場は大浴場だった。銭湯の常識を心得ているのが極めて少ない。浴場の管理者から指摘を受けたときも、その皆が出た後の乱雑ぶりを見ると、贔屓目に見ても言い訳を許さなかった。管理者の指摘も親切さを感じるほどであったので、只平身低頭素直に従った。
その後企業に入っても、手洗いでの躾を見てこの時のことを思い出す。
05.住友通信工業幹部の講話
玉川向の工場では計画的に住友通信工業の幹部の講話を聞くことになっていたが、これがなかなか予定通りに進まない。予定が流れて時間の無駄が多い。学生の身では予定表は常に実行できるものと信じているので、企業の会議の習慣…終日結論の出ない会議を行って、しかも飛び込みの会議もあり、幹部の予定がずるずると変更するのが当然と考えている企業の文化と大きな差があった。
今ならばこちらも企業文化に馴染んでいるので、当時ほど頭に来ないだろう。
06.連休延長手待ちの間
先にも述べたように、玉川向製造所では製品が順調に流れてこないために手待ちがたびたびであった。たまたま二日の連休になるのでもう一日延長をして貰って、宮崎君の家が筑波山にあるので、数人と山登りをした。今考えると無茶をしたものと思う。
07.満腹の姿勢金曜日の外食
胃が満杯になった時、どのような姿勢が一番楽かご存知だろうか。戦時下では比較的豊富な食事を出してもらっていてもまだ不足気味である。座間に滞在中は近くに滞在している軍関係の人々も同じである。この人たちは週末に外出許可が出て食欲を満たす。外食店もこの日に合わせて食材を用意しておく。我々の利点はこのような拘束がなく何時でも外出できる。従って食材がたっぷりある金曜日に出かけるのである。金曜日の食後は宿舎で正座をしている人が目立つのである。聞けば、寝るよりもこの正座が一番楽だという。翌朝皆何事もなかったように出勤していた。
08.昼間は修復作業、夜間は改悪作業
座間で電波探知機を調整している時に知った体験は「人間は厳密に言えば一私は…一日のうち頭が冴えているのは数時間にすぎない。」と言うことである。勿論個人差も大きい。具体的には、昼間に調整をして満足な結果になったので、この調子であと少し続けると更に素晴らしい状態になるといい気分になっていると、必ずといってよい程落し穴に落ちてしまう。夜遅くなっているので、作業は翌日になって修復作業となる。
この繰り返しが多かった。これは当時の真空管の性能が不足していて能力一杯では直ぐに能力不足になる。これを補うために回路を色々いじると以前の能力が出なくなる。
09.最高出力は瞬間カ 地上で最高好調、離陸をすれば処置なし不調
電波兵器は地上に出ている10メートル程の腕木の両端で反射電波を受けて、ブラウン管にそれぞれ赤と青の二色で表示して、左右が同じになれば白色になって、腕木と直角に検知物があると検知する方式である。三色でなく二色のカラー方式である。
発振管はエーコン管で元々が出力不足であり、それを無理して出力を上げると直ぐに出力不足になり調整は困難を極めた。他でも飛行機に搭載した電波兵器も地上で最高の調整をしても空中に上がると出力不足で期待の性能が出ないとの話も聞いた。
10.大学間の無連絡 第一工学部との情報交換
第一、第二の報告を読んでお互いに連絡がなかったことに気を付かれたかもしれない。私自身も今は不思議に思うほどであるが、当時の雰囲気は軍に関することは出来る限り避けるよう努力していたのが実情である。従って我々から積極的に情報を教官に求めなかった。同じ陸軍の指揮下になった他の大学の情報も全くなかった。
11.その後の中心道場
これは全くの余談であるが、京都、奈良間の研修所に用があって行ってみると昔中心道場をやっていたと言う。道場から研修所とは良い発想の転換である。
12.大部屋の生活
座間に宿舎を移転してからは、広い畳敷きの広間を障子で仕切って一室6名で、各自が其々持ち込んだ寝具で夜を過ごした。食事は特に大きな不満もなしに過ごしたと思っていた。
それよりも隊長として非常に有難く思うのは急患が一人も出なかったことである。
13.入出門の規律
玉川向工場では当然工場の正門を通って出入りする。ここでも大学と軍隊の常識の差が表面化する。東大の正門を学生が隊伍を組んで歩調を取って通る事などは想像も出来ない。この習慣が身に付いていると、つい雑談をしながら隊伍宇組まないで正門を通ることになる。軍隊では規律がない証拠として嫌われるのである。たびたび注意を受けた。
14.陸軍と海軍の中
電波報國隊の発想は、想像するに、陸軍が主導で海軍はお付き合いとして同調したように思える。第一工学部の作業を見ていても、海軍では研究部門であり、我々は工場での作業が最優先であったように思える。しかし陸軍に納期遅れの理由に人手を要求した製造会社も、予想以上の早さで実現した報國隊の実現で、受け入れの計画が十分と思えなかった。現に玉川向の期間は確立レた計画の下に日々を過ごしたとは思えなかった。
住友通信工業内部では両軍の管理下にあったが、作業現場では明確な管理状態にあるが、課長級になると両方のバッチを付けている。
少し横道に入るが、浴場では、「本来、海軍の技術領域の潜水艦探知機技術でも陸軍が優れた技術を開発している。」と贔屓話が出てくる。
この様な対抗意識は無駄なように思えた。
15.報國隊の期間延長不明確な目標
報國隊も年が明けたころ期間延長が話題になった。作業が遅れ気味であったので、軍としては延長が出来れば幸いと判断していたようだった。しかし我々の立場からは学業に飢えていたし、報國隊の目標が明確でないので文字通りの終了を希望した。勿論先生たちも我々の希望に賛成であったので、すんなりと予定通りに終了した。一部の学校では延長したと聞く。例によって公式の情報はなかった。
16.調整作業か開発作業か?調整作業法の確立が目的?
報國隊が発足しても兵器の製作が遅れ気味であって、住友通信工業内の検査作業の筈が、検査するものが届かなかった。最終調整の筈の座間での作業も実態は調整作業の技術開発であったと思う。我々の実力も指示を受けてやっと作業を行える程度である。現場には東北大学の先生たちも見えていた。
17.日米電波技術の差続合力の差
これまで日本の電波兵器の技術について不十分な点を強調しすぎたように思う。大学に戻り米国の爆撃機B29のRadarを分析する機会があったが、使用している技術が学会誌に報告がないのに先ず驚いた。明らかに発表を抑えていたとしか思えなかった。
落下したRadarを見ても、急な配線変更をしたために切断した線が残っていた。この原因は色々想像できるが、もっとも善意に解釈すると、戦場からの変更要求に素早く対応するためとも思われる。
機中のManualには北九州の俯瞰写真が出ていた。噂のようにここが目標だったかも知れない。
18.座布団電車
戦時下の雰囲気を伝えるために、息抜きとして、今では想像も出来ない情景を一つ入れる。休日明けには自宅から座間に戻ってくる連中もいる。彼らからの報告によると、新宿からの小田急線に将官の副官が恭しく座布団を提げて折り返しの空いた車両に乗り込んできて中央にその座布団を敷くと言う。ご当人は発車間際に乗り込んできてその定位置に座るという。今ならば当然自動車を利用すると思うが、当時は上級将官でも電車通勤であった。我々は「座布団電車」と陰で呼んだ。
19.おわりに今思うこと
19-1.何も知らなかった隊長
皆さんから報告を受けて、隊長として全てを知っていると思っている自信が全く壊れてしまった。よく報國隊が無事終了したと思う。戦時下で今以上に団体行動に対する協力心が強かったのであろう。もっとハッキリというと、戦争に疑問を持っていても戦っている以上やはり勝利には全力を挙げて協力をしていたのであろう。改めて多忙な中貴重な報告を寄せて戴いた皆さんにお礼を申し上げる。
19-2.何もしない隊長
何よりも恐ろしいのは戦争中で無気力感を持っていて只時の流れに従うよりしょうがないと諦めていたのは当時としては常識であったが、今考えるとあの時にもっと色々な手を打てたと思うと申し訳なく残念である。
19-4.この経験は生きているか
我々としては日米の技術力の差を紙上でなく生々しい現場で知った。貴重な体験である。残念ながら今でも技術育成の戦略では少しも改まっていない。今関係しているコンピュータソフト育成の戦略について痛感している。
陸軍の人との交渉方法の知識を習得したが、今では役立たせる機会が無い。