第Ⅰ部 入学から卒業まで
我々の育った昭和初期の社会を顧みて
我々は大正中期に生を受け、昭和の前期に学校時代を過ごした。昭和の初期は、世界大不況の影響を受け、日本経済は不振の時期であり、特に農村の困窮は著しいものがあった。社会では血生臭いテロが相次ぐ時代でもあった。軍部の動きによる満州事変が始まり、満州国の建国、満州への経済進出が始まる。
大陸への進出に伴って、中国との摩擦が増大、事変と呼ばれる大陸での戦いが始まっていた。この間軍備の充実が叫ばれ、産業は刺激を受け、満州への工業進出、重化学工業の振興が進められた。
こうして昭和10年代の日本経済は、準戦時体制へと進んだ。「国家総動員法」が制定され、統制経済の時代に入っていく。
技術者の需要増加に対応するため、昭和14年より卒業生の就職先の「割当制」が行われた。いわば人間の切符制が始められていた。
工学部学生の増加募集行われる
昭和13年の秋、翌年の春の高校卒業を控え大学進学を目指す者にとっての朗報が伝えられた。それは社会の必要に対応して、「理工系の学生募集人員を増加する」というものであった。東大工学部では、土木・建築学科を除く各学科の募集人員が増加された。
電気工学科においては、それまでの定員35名が、5割増の53名になると伝えられた。
難関の入試を経て53名の合格者決まる
当時東大の入試の受験は、全国の35の旧制高等学校の卒業生に限られていた。
工学部志願者は全国的に増加が著しかったが、東大電気工学科は3倍余の競争率で、最難関の一つとされていた。こうして昭和14年の春を迎え、入学志願者の募集が行われた。
筆者は恐れ気もなくかねての希望に従い、東大電気工学科を志望した。締切り後の志願者は前年を上回る120名余りであったが、増員のお陰で競争率は前年を下回る二倍半程度であった。
3月10日ころ、2日にわたる工学部の入試が行われた。科目は「数学(力学を含む)」・「図学」・「物理」・「化学」・「外国語(英・独・仏の中の選択)」・「身体検査」であったと思う。10日ほど経って発表があり、53名のクラスメートが決まった。競争の倍率は緩和されていたが、前年までの激戦を反映して、現役からの受験者には狭き門で、ストレート組の合格者は22名(受験73名)、過年度の合格者29名(受験49名)という構成である。
入学者を高校別に見ると、一高(東京)が群を抜く11名、続いて六高(岡山)6名、あと4名が八高(名古屋)と筆者の母校武蔵高が並んでいる。このほか全国の14の高校出身者と他の学科からの転科者でクラスメートが構成された。
こぼれ話①
ここで試験問題の例を紹介しよう。
【外国語】 和文欧訳の問題、「次の文章を英、独、仏のいずれかに翻訳すべし」。 「新聞紙上の言論は、輿論を代表するが如く見ゆるも、其の實は却て一記者の私見たるに止まること多ければ、之を読むもの注意を要することなり」 (以下3行略)
【物理】 (1)Boyleの法則を気體運動論に依って説明せよ。
【数学】 (3)次の積分を求めよ。
入学からの学生生活
安田講堂での入学式で、平賀 譲総長(海軍造船中将)の訓示を聞いたあと、教室においてオリエンテーションがあり、新しい学生生活が始まったのは昭和14年4月であった。さすが全国から集まった俊英揃い、立派な人々であった。学科主任は大山教授、西教授が最長老であった。
当時の帝大生の服装は入学時の記念写真で見られるように、旧制高校時代の弊衣破帽は卒業しており、黒の詰め襟服に金ボタン、角帽姿で、現在の学生とは大分違っている。エリートの書生姿と言えるものであった。(名前が判別できない者4名…花形・藤沢他)
教養科目はすでに旧制高校において済ませており、学科は専門の基礎学科から始まる。いくつかを挙げれば、「電気磁気学(福田助教授)」・「電気測定法(鳳講師)」・「交流理論(山田助教授)」・「電気機器学(瀬藤教授)」などがある。また「応用力学」・「機械工作法」・「熱機関」などは、航空・船舶・機械などの学科と共通受講であった。こうして一年目の大学生活が始まった。
学科は午前で終り、午後は実験に充てられた。当時の学生は8時からの講義に、皆小さなインク瓶を持ち、ペンでせっせとノートを取った。今のようにコピーの機械など無いから、休んだり居眠りをすると後が大変だった。明治時代の建築と思われる実験棟で、週3日は電気の実験があり、製図一日、また学生増加から数学演習か工業分析実験のいずれかが課せられた。
午後4―6時は選択科目があるが、現在と違い週一回「軍事教練」の時間があった。これは選択科目扱いであったが、受けていないと軍隊に入ったとき幹部不適格とされ、将校への道が閉ざされる事になるので、時局を思うと選択することになる。大学1年の時は学科だけで、戦史などの話を適当に聞いていれば良かったが、2年目に入ると三八式歩兵銃を持っての術課が行われるようになった。秋には那須の方の演習場に行っての野外訓練まで行われた。工学部の連中は皆仲間意識があるから、結構気分が変わって兵隊ゴッコを楽しんだ思い出になった。
大学2年目になると、ほとんどが専門科目になり、忙しい生活が続いた。筆者は高校時代からの剣道を続け、入学前年に竣工した「七徳堂」に通った。かなりの実力を蓄えたが、暇のある法文系の学生が羨ましかった。
とにかく忙しい学校生活が3年目の7月まで続き、しっかりと鍛えられたと思う。この間土曜日の午後などを利用しての工場・研究所などの見学のスケジュールも組まれた。2年の秋、教学の実態視察ということで、昭和天皇の大学への行幸があり、当時のことであり大分緊張したことが、思い出される。
この年は皇紀2600年に当たり、国を挙げての祝賀ムードに包まれていた。国内経済は好況で、国内生産も戦前のピークを記録した年でもあった。欧州ではドイツが大陸を席巻したが、日本は日独伊の三国同盟に加盟の道を選び、支那事変は泥沼状態、戦争への道を歩み始めた年でもあった。
この年、日本は東京でのオリンピック招致に成功していたが、実行できる世界情勢では無かった。しかし大学の教育は予定に沿って続けられた。学生も真面目に学業に取り組んでいた。
こぼれ話②
米の配給制が始まっていたが、学内食堂料金は朝食10銭・昼食15銭だったのが少し値上げされ、質も低下したが、米飯のお代わりは自由だった。
時局の急展開と卒業の繰上げ
当時の電気工学科の教育スケジュールは、第3年度の7月で授業・実験を終え、夏から秋にかけて現場実習、秋口から卒論に取り組み、これを仕上げて3月の卒業に至るというものであった。
我々は大学側での準備に基づき、夏の実習プログラムを選び実習先を決定した。実習先は国内各地の現場に及び、この年起こった日食観測の手伝いで、台湾や事変中の中国の揚子江を上り漢口に出かけた者もいた。
筆者はまず三菱電機・神戸製作所で1カ月、8月末から逓信省工務局の神奈川県下での同軸ケーブルの実験に、クラスの数名とともに参加することになった。
昭和16年(1940年)に入って世界の情勢は急展開した。すでにソ連と不戦条約を結び、欧州の大半を占領していたドイツが、6月にソ連に侵攻し戦いを始めたのである。
一方ソ連と中立条約を結び、支那事変の解決を図り、南進の機会を窺っていた日本軍部は、ソ連を叩くチャンス到来と、大動員をかけ満州に兵力を集中した。これは関東軍特別大演習(関特演)と呼ばれ、国内は準戦時状態となり輸送力確保のため、夏の学生のスポーツ大会は一切中止となるなど緊迫した情勢になった。満鮮への実習計画も流れたはずである。この作戦はさすがに無理があり実現に至らなかったが、軍部の南進への勢いが強まり、南部仏印への兵力派遣を強行、米国との関係は決定的に悪化の道をたどった。
このような情勢の中、実習は一応計画通り進められ、筆者の第一期の工場実習は予定通り終り、8月末からの第二期実習に取り組んだ。逓信省本省、横浜にある出先などに挨拶回りをし、いよいよ工務局先輩技師の指導の下、実験を始める9月初めであったと思うが、大学から「卒業が3カ月繰り上げられるから、実習を中止して戻り、卒業研究に取り組むように」との指令を受けた。こうして実習を中断し、それぞれ教室に帰り、12月の卒業に備えることになった。
卒業に当たっての就職先の決定
さて卒業研究に取り組む一方、卒業に備えて就職先を決定することになる。当時理工系の大学卒業生はすでに割り当てになっていたことは先に触れた。各人の希望、企業などの方針、大学の推薦などが交錯しつつ、クラスメートの就職先が決まって行った。決まった52名の就職先は次の通りである。―佐波君の資料による―
大学・研究所など
瀧 保夫・斉藤成文(東大工学部)
前田 稔(名古屋帝大)
藤井亮一(京城帝大)
飯島健一(中央航空研)
三輪高明・百田恒夫(逓信省電気試験所)
官庁など
栗山国雄(逓信省工務局)
後藤誉之助・武安義光(逓信省電気庁)
粂沢郁郎・澤野周一(鉄道省電気局)
国内電力会社
花形 澄・松岡 実(日本発送電)
通信・放送
尾上通雄(放送協会)
川島 浩・河津祐元(国際電気通信)
電機メーカーなど
佐波正一・杉下和也(東芝・芝浦支社)
西島輝行(東芝・マツダ支社)
高林乍人・中島俊之(日立製作所)
須藤卓郎(日立中央研究所)
鷲尾信雄・加藤又彦(三菱電機)
町原 熙 (明電舎)
小松改造・藤沢喜行(住友電工)
塙 宜良(古河電工)
庄司徳三(藤倉電線)
今野与八(東京電気)
日下部正直・小平信彦(日本電気)
楠 順三(沖電気)
平野宰次(日本無線)
村橋秀雄(ビクター)
一般工業など
岡本明修(東京航空計器)
久保原 弘(東洋高圧工業)
牧野六彦(日本軽金属)
陸海軍関係
西山 実・星埜 衛・湯原仁夫(陸軍)
阿部英三・奥村 宏・新堀達也・高橋祐夫・角 豊三(海軍)
外地企業
市川真人・大森 豊(鴨緑江水電)
森重太郎(崋北電業)
盛定義安(西鮮合同)
就職先を展望して
大学関係、官庁研究所、逓信省・鉄道省などの行政官庁などは例年卒業生が送り込まれている就職先である。数年前の電力国家管理が行われた電力業界には、国策会社の日本発送電(株)だけで少ない。そのあとの通信会社、電機メーカーの大手会社には、例年のごとく多数が就職している。
目立つのは陸海軍に8名が就職していることであろう。これはすでに在学中に委託学生として採用された者と、研究所などに入った者とがいる。また外地の電力会社に4名就職しているのも、時局を反映している。
ただ我々は卒業後、軍に就職した以外の者は、ほとんど職場で過ごすことなく軍隊に入る結果になり、そこが当面の就職先になるという運命をたどったのである。
大東亜戦争の開始と、繰上げ卒業まで
さて我々は、それぞれ各教官の指導のもと卒業論文の課題に取り組んだ。そしてまとめの最終段階に入った12月8日「英米との戦争状態に入った」とのニュースに衝撃を受けたのである。真珠湾攻撃を始め、南方各地の作戦が順調に進んでいるとの発表に落ち着きを取り戻し、論文の仕上げ、卒業を前にした行事への対応を進めた。
12月27日に安田講堂で全学の卒業式が、初めての父兄も出席して行われた。平賀総長の告辞があり式は簡単に終わった。工学部卒業者は一同一号館で乾杯が行われた。さらに電気工学科の者は三号館に戻り、西先生より卒業証書を受けて行事を終えた。
戦時下の卒業という前途への希望と先行き不安の交錯した複雑な気分の中、お互い共に学んだ日々を思い出しつつ、学窓と友人に別れを告げて散って行った。いずれも20歳代前半の若者であった。
クラス会を「Z会」と命名
ここで我々のクラス会が「Z会」と名付けられた所以を述べておく。
第一のものは、我々が初めての戦時の繰上げ卒業で、大学生活を3カ月短縮されている。当時支那事変下で、電気機器の工業規格で、温度上昇などの条件を緩和する暫定規格が、工業界で作られ「Z規格」とされていた。これを取り入れ、準戦時下の就学期間の3カ月短縮は、まさにZ規格ではないかと、少しく僻みと自嘲を取り入れた名前であった。
第二のものは、我々は大東亜戦争開始の超非常時に世に出ることになったことで「Z旗」から名付けたとする。Z旗とは日露戦争の最後の海戦で、欧州から回航してきたバルチック艦隊を対馬沖に迎え撃った連合艦隊が、出陣に当たり旗艦三笠に掲げた信号旗として有名であり「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という内容であったが、今次大戦に当たり出撃する海軍連合艦隊は同じくこのZ旗を掲げて激励したと伝えられた。
開戦直後の卒業となる我々のクラス会の名には、時局を反映した以上の二点を取り入れての命名がふさわしいということで決まったものである。ただし誰が言い出し、何時決まったかは、明らかでない。開戦後の短い期間に決まったのであろうが、70年にわたって用いられてきている。
こぼれ話③
11月下旬に溯るが、一夕工学部の学友会である「丁友会」が主催しての卒業生壮行会が行われた。余興として映画のほか、当時世界的にも名の通っていた高名の歌手・関屋敏子の独唱が披露され、一同聞き惚れた。同じく当時子役として売り出していた中村メイ子が出演し、チョコチョコと舞台を駆け回って皆を喜ばせた。ところがその日の夜半、関屋敏子が自ら命を絶ったという報が、我々を驚かせた。理由など明らかにされなかったが、卒業を控えた一同ショックを禁じ得なかった。
こぼれ話④
この度改築のため姿を消す工学部三号館は、我々の在学中に新築され移った。7頁の写真は入学時に教室のあった一号館前で撮ったものと思う。
こぼれ話⑤
時局を反映して国が行う体力検定の制度があり、大学でもグランドで検定が行われた。主に運動部の連中が受けた覚えがある。種目は百米走・走り幅跳び・二千米走・懸垂運動・俵担ぎ走・手榴弾投げの六つ。それぞれをクリアするとタイム・距離などの基準に応じて初・中・上級の資格が取れ、確かバッジを授与された。バランスの取れた能力が必要で筆者も挑戦したが、手榴弾投げがやっと三十米、懸垂の回数が及ばず、初級を頂戴するに止まった。