無題/矢部五郎

1.2年半の学生生活の思い出

高等学校三年の2学期に、繰り上げ卒業の噂で、授業が駆け足で進み始めたが、急にまた予定が変わって、大東亜戦争がまだ勝利気分の昭和17年3月に電気工学科に入学することができた。しかし、最初の1学年を半年に短縮するために化学の実験を土曜の午後に行うような詰め込み時間割であった。そして、4月18日(土)の昼休みに化学実験室の前の芝生でひなたぼっこをしながら駄弁っていたとき、上空を見慣れない飛行機が飛ぶのを発見した。しばらくして、空襲警報が鳴り、これが最初の本土空襲であることを知った。

つまり、我々の大学生活は空襲体験から始まり、食料難、学徒動員、卒業式も参加することなく陸海軍に勤務するという、慌ただしい2年半であった。

しかし、次の3期に相当する学年の学生はもっと激しい戦争体験を経験したのであるから、贅沢は言えないが、電気同窓会の名簿で調べると不思議と我々の同期生(特に第一工学部)は早く亡くなった人が多く、次に多いのが20年卒業である。

理由は分からないが、精神的、肉体的な条件が我々を短命にしているのかも知れない。

2.間一髪、靖国神社に行かずに

昭和20年6時22日午前9時20分ごろから呉海軍工廠は米軍の爆撃を受けた砲こう部を中心に激しく破壊されたが、私が新米技術中尉として勤務していた木造2階建の電気部外業工場は半分崩壊しただけで人は無事だった。ところが、偶然、私は今川貞郎先輩(昭和16年3月卒)の出張中の代理として消防隊長を臨時に務めていた。一度空襲警報が解除されたので、防空壕から出て消防隊を指揮して、隣接した工場の火災に放水を始めた。盛んに燃える炎を見て、なにしろ初めての消防隊長は消せるかどうか、まったく自信がなかったが、ともかく放水を続けていた。突然、空襲警報が鳴り、総員退避の命令が出た。一般の職員工員は直ぐ防空壕に走ったが、消防隊員はホースを撤収して、ポンプを停止してから防空壕に走った。隊員全部が現場を離れたのを確認して、空を見たらB29の爆弾倉が開いて爆弾が空中を落下するのが見えた。それから、夢中で、一生一度の全力疾走で工廠神社の下にある防空壕に駆け込んだ。しかし、防空壕は既に満員で、通路も人がぎっしり壁に並んでいた。その列の最後にたどりついたと同時に防空壕の入り口付近で爆弾が炸裂して爆風で壕内に衝撃波が走った。一瞬、胸を押し潰された感じがしただけで、助かり幸運に感謝した。それから、半分消した火災の消火を再開し、やっと消し終えて、ポンプを片付けたのは昼過ぎになっていた。

この恐怖の経験は、自覚することなしに心の奥に潜在していて、今の言葉でPTSD(心的外傷後ストレス障害post-traumatic stress disorder)を起こしていたことが、6年後に結婚してから、自覚症状を経験して初めて分かった。

3.分からないことを調べる楽しさを50年

戦後は文部省電波物理研究所で柿田さんと一緒に勤務したり、旭化成㈱の研究部などで勤務してから、満50歳で定年扱いで退職し、技術士事務所(産業科学研究所)を開設した。ここで、何をするか考えたが、他人のやらない事をやれば下手でも一番になれると思って安全社会学(現在は安全学という)を始めることにした。

災害や事故で死ぬのは人であるから、災害や事故を防ぐ方法すなわち安全を研究するには、死んだ人、被害者の立場で調査し検討しなければならないというのが、出発点である。多くの事故報告では事故の原因は被害者(死んだ人)の過失、不注意であると書いてあるが、本当だろうか、「死人に口なし」で、真相は隠されている場合が多い。

安全社会学は死んだ人の言い分を聞くことから始めている。技術士法が改正されて、技術士は公共の安全を害することがないようにする責務が規定された。この機会に「技術者のための安全学」を執筆しようと計画している。30年考えてきたことを記録し、少しでも社会のお役に立てばと思っている。

幼時から現在までの人生を振り返ると、どうも「考える」ことのみに興味を感じる性格らしいと思うようになった。ともかく記憶の必要なゲームや学科は興味もないし不得手である。中学の学期試験を病気で休んだとき先生が追試試験を口頭でするというので教官室にいって先生の質問に答えたが、それがまるっきり教科書と違うので先生は呆れてしかることができなかった思いでがある。また、4年終了で静岡高等学校に入学して、第1学期の日曜日に帰京し、デパートに遊びに行ったとき、ばったり中学の恩師に会ったが、先生の名前を思い出せなくて恥をかいたこともある。

というわけで、記憶が必要なことはすべて諦めることにしている。しかし、考えることは楽しい。

4.道楽は日曜農園

満50歳で会社を辞めたことを記念して、退職金で千葉県佐原市の外れの住宅団地を購入して農園にしている。ほぼ毎週、年40回ぐらい出掛ける。30年過ぎると、種子を撒いたニセアカシア、カシ、ナラなどが大木に育っている。

農園で一番面白いのは、椎茸栽培である。ほかの作物は、花が咲き実が太るのが予測できるが、椎茸は数日前でも予測ができない。突然、傘が開く神秘性は自然の芸術である。

コメント1件 : “ 無題/矢部五郎”

  1. 古川典保 より:

     先生の主催するインフォーマルミーテングで勉強させて頂20数年になります。
    先生の戦前戦後を通しての「科学・技術談話」は皆さんに知っていただきたいものばかりです。今後ともご活躍を期待しております。

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