【1号】電気工学教育の発端(Ⅰ)/渋沢元冶
エアトン先生-電信学-ポールエンジニア
この度、東京大学電気工学科卒業生諸君が、相互の親睦を密にするため、同窓会を組織し、会誌を発行することになり、余にその第一号に挨拶の語を述ぶるように委託された。そこで余はまず諸君に電気工学教育の発端について話そうと思う。
これは自分の生れる前および子供の時分のことであるから、もちろん自分で経験したわけではないが、確かなる筋から調べた結果を総合して、初めて日本で大学に電気工学科という学科が置かれた由来を述べて見たいと思う。
そもそもわが国における電気教育の初めは、次のようなことから起こっている。明治2年、東京横浜の間に電信がかかった。そこでこれに関する通信技術を司る技手を養成する目的で修技塾というものができた。次いで明治4年に工部省が置かれたとき、工学寮ができた。これは明治10年に工部大学校(虎の門、今の文部省の位置)となったもので、これに電信科が置かれて高等の電気教育を施すこととなった。工学寮電信科の教授として英国から有名なエアトン先生が招聘せられた。その教育は数学とか物理学とかに重きを置き、応用方面は初めは主として電信であった。後になって電灯とか発電機なども幾分は教えられたようであった。当時の教育の模様は故山川(義太郎)博士が『工部大学校昔噺』の中に話しておられるからその一部を次に抄録しよう。
『予科の2年のときに物理実験があってエアトン先生がその担当教官であった。その実験はすべてオリヂナルのもので教官がいちいち丁寧に指導したのであるが、一般学生には果たして完全に消化し得たか否か非常に疑問である。しかしこれは後になってふり返って見るとき非常にためになったように思われる。さていよいよ予科の2年を終わって専門に入るのであるが、何分にも電信学ばかりの時代であるからすでにこの専門の2年目において実地演習を行うに至ることは自明の理である(講義は高等数学と電信諸学科とで、その実験がかなり多かった)。その2年目において実習に行った例として、青森県の一戸へ行ったことを少しく話そう。当時一戸付近に電信の改築工事があって友達と2人で出張したのであるが、汽車のない時代のことゆえもちろん徒歩であった。丁度片道が20日。その服装は制服に草履、脚絆、振分荷物といった有様で、もって当時の状態がよくうかがえると思う。』
かように電信柱を建てることが主であったので、pole engineerと呼ばれたという。この電信改築工事に出張中、こんな笑い話があったと余らの学生中先輩の話として伝えられた。『あるとき、藤岡先生と中野先生とが、学生として実習中、田舎の宿屋へ泊っておられた際丁度、駆け落ちの若い男女があったとて警察がその宿屋へきて宿帳を調べた所、藤岡先生の名は市助、中野先生の名は初子(はつね)であるので、てっきりこの2人に違いないと夜中呼び出されたら、2人共当時田舎では、官員さん以上に尊敬されていた帝国大学々生であったので警官は平身低頭してほうほうの体で逃げ帰ったとのことである(真偽は保証しないが学生間に誠しやかにいい伝えられた)』
エアトン先生は学生の指導に創意を主とせされたばかりでなく、自分自身も非常に研究熱心で、マックスウェル先生が「電気学の中心英国を去って日本に移れり」と戯れにいわれたことが有名な挿話となっている位である。
電気記念日。明治11年3月25日、東京京橋木挽町に中央電信局が新設された。その開業祝賀式の宴を工部大学校で開いた際、エアトン先生が当時の学生藤岡、中野両氏を助手としてグローブ電池を開いてアーク灯を点火して参列者を驚かした。これが本邦における電灯点火の嚆矢であるとして、この日を記念日と定められた。
かように創意ということを主眼として教育されたのであるが、後の専門科の第2年になると実際電信の改築工事などにたずさわった。すなわち実地練習に重きを置いたことは一つの特色で、今日でも東京帝国大学にはその風が残っており、また貴重なる工学教育方法の一つとして保存されている。電信科の第1期卒業生は明治12年の10月に卒業された有名な志田林三郎博士1人であった。志田博士は卒業後海外に留学されたが、そのときエアトン先生は任期満ちて帰国され英人の講師グレー氏が招聘されていた。
次いで明治14年には藤岡、中野、浅野の諸博士が卒業されて工部大学校の教授補に任ぜられた。後グレー氏が講師を解かれるにおよび初めて日本人の教官のみとなった。明治16年に志田博士が帰朝して工部権少技兼工部大学校教授に任ぜられた。すなわち志田博士は本邦人として最初の電信科の教授であった。(以下こちらに掲載させて頂きました。幹事)
<1号 昭32(1957)>