【3号】わが国原子力平和利用研究の出発当時の回顧/駒形作次

回顧などいうと、とても古い話でないとピッタリしない。この場合はせいぜい4、5年というところなのである。しかし、色々なことのある点では相当なものと思う。ともかく、昭和29年頃に大分一般に読まれた「ついに太陽をとらえた」を繙くと、わが国の原子力研究は、戦争末期の頃、仁科芳雄先生等によってなされたことがわかる。勿論、軍事目的であった。その後戦争が終って原子力の利用を平和目的に向けようと諸外国が努力し始めた。そしてその成果が間もなく断片的に世の中に流れ始めてきたのである。

しかし、わが国では、広島、長崎の惨禍が余りにもひどかっただけに、原子力というと、頭から恐怖をもって迎えられた。このことは、例えば昭和27年10月の日本学術会議の総会で茅、伏見両氏から「原子力問題の検討について」という議題で、問題の調査を行おうという提案がなされたが、次の総会での激しい討論の末、遂にその賛成を得るに至らなかったことでもわかる。私にはこのときの光景はいまでも印象に残っている。

ところで、世界の原子力平和利用の急速な進展と特にわが国における将来性に対する期待とから、昭和29年1月の第19国会で、当時の改進党、 日本自由党、自由党の三党の話合いにより、原子炉築造助成のため、二億三千五百万円を通産省工業技術院予算中につける修正を行うことになった。この主張は主として改進党の中曾根康弘氏、斎藤憲三氏、堀木謙三氏、稲葉修氏等によってなされたものであったが、 この予算修正には各界から厳しい批判が起った。しかし、結局は、基礎的並びに応用技術の研究のための「原子力平和利用研究補助金」という形になって国会を通過したのである。当時私は工業技術院にいて、当事者の1人となって、国会にかかる予算の世話役を引きうけたのであったが、何しろ頭から決まった予算に対し、すぐその内訳や説明が必要だというので一夜漬けの作業をしたり、予算委員会に呼び出されて油を絞られたり、散々で、わが国の原子力の夜あけ前の光景らしいといまでは思っているが、そのときは仲々どうして一生懸命であった。

この「原子力平和利用研究補助金」が、わが国原子力研究着手へのきっかけといってよいのである。およそ物事の踏み切りには決断を要する。政治家達が、大局に立って、 この重要問題の出発に火をつけた点に大いに意義があると思う。

昭和29年の4月には日本学術会議で、原子力三原則を政府に申入れている。これは、原子力基本法の精神にとり入れられているものである。また、政府は前述の予算に端を発して、原子力の将来の重要性から国としての基本方針を決めることとし、 29年5月国会終了後直ちに内閣に「原子力利用準備調査会」を作り、その基本方針に基づいて、予算を実施するために、通産省に「原子力予算打合会」を設けた。打合会の意向に従って29年12月、藤岡由夫氏を団長とする原子力利用調査団が諸外国に派遣されることになって、私もその一員として加わった。諸外国の情況を見て、とてもこんなことをしていては大変だと一層感じて帰ってきたが、調査団は小型炉の導入と国産炉への着手とをその報告書の中で提案した。そして原子力平和利用研究補助金の主なるものは国産原子炉の設計および材料の開発研究に向けられ、これには学界、産業界が一体となって仕事を進めたが、現在のJRR-3炉の前身をなすものであった。

30年6月わが国は米国と相互協定を結んで研究用ウラン6キログラムを導入できるようになった。四囲の情況からして早急に、研究実施機関を設立することとなり、一先ず財団法人組織で出発することとなった。財団法人原子力研究所の正式発足は30年11月で、石川一郎氏が理事長になられ、私も工業技術院をやめて移った。最初の事務所は工業倶楽部にあった。開所早々研究所の土地の選定、研究陣容の整備、湯沸し型原子炉購入の仕事で、それ等が一遍にやってきて、テンヤワンヤであった。何としても手狭なので、翌31年1月に当時改造中の旧東電ビル内に事務所を移したが、寒い中に火の気なく、工事の槌の音の中を、その進捗に従って、数回に亘って、室を移し変えて頑張ったことは思い出の一つである。

30年秋に原子力基本法など、31年の初めに日本原子力研究所法などが国会を通過した。31年6月に財団法人原子力研究所を解消して、現在の日本原子力研究所になった。先輩安川第五郎氏が理事長となられ、その下で一生懸命やった。また、渋沢先生、密田良太郎氏その他の先輩から数次の激励の御手紙をいただいて感激している。ともかく、それから2年半経過した。茨城県東海村の研究所も着々整備され、緑の松林の中に白亜の研究棟群が立ちならぶに至った。独特の研究もポツポツでき始めている。せっかちの人の多い世の中のことであるから致し方もないが、時間をもう少し与えていただきたいものである。しかしまた、私自身にとっても、わが国の原子力研究の出発の頃のことは相当昔のことのような気がしないでもない。とすると世の中の人が何をグズグズしているというのも、あるいは当然なのかも知れない。

<3号 昭34(1959)>

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