【4号】37年の大学生活を顧みて/山下英男

大正12年3月東京帝国大学電気工学科を卒業しまして、直ちに工学部講師嘱託、その後助教授、 教授として電気工学科に在職37年、 あと十数日でいよいよ定年退官することになりました今日この頃、改めて「光陰矢の如し」の言葉をしみじみと感じております。私の卒業当時、教室は現在の工学部1号館(土木、建築科)の所にあった煉瓦造の古い建物の中にありました。専任教授は鳳、鯨井、西三先生、助教授は瀬藤先生がドイツヘ留学され、大山、尾本、星合の三先生でした。私は、鯨井先生の室に机を並べていましたが、先生は毎朝8時から出勤しておられるのに、私は学生時代の気分がまだ抜けきらず、先生より遅れ勝ちで、気兼ねをしながらドアをソーと開けて室へ入ることが多かったのを記憶しています。

卒業後すぐ電気科の電気磁気実験を担当するほか、他学科の学生の電気工学大意という大講義を受持たされました。聴講学生は200人余りで、中には高等学校時代の上級生、同窓生も交っているようなわけで、なんとなくテレながら講義をしました。他学科学生に対する電気の講義は、 退官まで続けることになりました御蔭で、工学部卒業生には顔が相当広くなりました。国内やたびたびの海外出張先の思わぬ所で私の講義を聞いたという見知らぬ紳士から挨拶をされることがしばしばありました。最近は記憶力が大分減りましたが、さすがまだ電気科の卒業生諸君に私の名刺を出すようなことはありませんでした。ただ名前と顔とをidentifyするのに苦労することが時々あります。

大正12年9月1日の関東大震災で教室の建物が半壊した後、教官室は工学部2号館(機械科)に同居することになり、震災復旧費で現在の3号館が昭和16年に出来上るまで、 この居候生活が続きました。大山先生を筆頭に若い助教授連は、狭い室に机を一緒に並べていましたため、私は公私とも先輩から兄弟のように指導や面倒を見て頂くことができたことをいまでもありがたかったと思っております。大正13年には、兼任であった渋沢先生が専任の主任教授として教室の面倒を見られることになりました。

当時電気工学科の年間経常費は1万円前後(現在は約250万円)で図書、 学生実験等の諸経常費を除くと、教官研究費はほとんどなくなってしまう状態でしたが、渋沢先生はいろいろ工面されて、 とにかく若い教官は年間500円の研究費を自由に使えるよう捻出されました。実験補助者もほとんどないので、実験に伴う肉体的の仕事もかなり自分でやる必要があり、夜遅くまで実験室に残ることが多くありました。渋沢先生はわれわれの健康に絶えず注意され、夕方少し遅くなると実験室を見回りにこられて追出されたものであります。西先生も率先してテニス、 スキー、山の発電所の見学などに私達を引っ張り出されました。よく学び、よく遊ぶことを教室のモットーとして、工学部教官の懇親旅行、東西両大学の懇親運動会などには、電気科はいつも全員を挙げて参加するような有様で、教室の円満ぶりは常に他科の羨望の的でありました。

昭和10年4月から電気学会岩垂奨学資金により米国のMITに1ヵ年出張することになりました。当時文部省留学生は、生活費の関係から米国へ行く者はほとんどなく、大部分はドイツヘ行ったものであります。2.26事件や鯨井先生の御逝去をボストンで聞き大変驚きました。そのため1ヵ年を予定していた欧州諸国の出張を半年に縮めて昭和11年9月帰国しました。戦後は電子計算機や電気標準等の国際会議に出席のため、前後8回主として欧州へ出張する機会に恵まれました。

昭和16年大戦に突入、 千葉に第二工学部が設置されると共に、瀬藤先生を初めとして電気科教授陣の半数に近い教官が転出されることになりましたが、新規補充の若い教官はほとんど軍の技術官に徴集され、本郷の教官陣は誠に淋しくなりました。他方設備、定員拡張の伴わない学生増員、卒業年限短縮を強いられ、教育は非常な危機に陥りました。昭和19年平素御健康に見えた西先生が御逝去になり、私は同年から昭和24年まで主任教授の仕事を勤めることになりました。苛烈な戦争末期、終戦の混乱期と、私にとっては公私とも最大のピンチに襲われた時代でありました。

電気工学科の講座は、大正末期から戦争まで5講座でありましたが、戦時中通信工学の2講座が増設され、戦後第二工学部の廃止と共に電気材料講座が転換され、8講座(教授、助教授各8名、専任講師1名、学生定員45名)の大世帯に膨れましたが、最近電子工学の急速な発達に伴い、その教育と研究の必要が叫ばれるようになりましたので、工学部に電子工学科の新設を提言することにしましたところ、幸に各科の賛成を得て、 昭和33年度から4ヵ年計画で実現されることになりました。完成の暁は電気科を合せて講座総数13、学生定員80名となります。行政上電気、電子と二学科に分れてはおりますが、教育、研究的見地からは大電気工学科に総合運営さるべきものと思います。私は最近まで16年間事業生の就職事務を担当していましたが、何分にも卒業生数が少なく、御要求に応じられなかったことを心苦しく感じていますが、これで多少なりとも緩和されることを喜んでおります。

戦後科学技術の振興が叫ばれていますが、大学の研究費、教育費は物価指数を考慮しますと戦前にもまだ及びません。東大工学部の主な設備の99%は明治以来の戦前のもので、戦後の新設は1%にすぎない状態であります。渋沢先生の御尽力で電気科の実験設備が大分更新されたことがありますが、 電気科といえどもこの例にもれません。一二年前民間会社の寄付にすがることを考えたこともありますが、在職中遂に果さずに終ったことは心残りの一つであります。

大学入学以来正に40年、本郷の象矛の塔の生活をいま無事に大過なく終ることができますのは、偏に恩師の御指導はもとよりですが、同僚、同窓生諸氏の一方ならぬ御支援によるものと深く感銘しております。幸に自分では健康に恵まれているつもりでおりますので、今後は私学の教授を主な業とし、業界で御邪魔にならない範囲で御役に立つことができれば幸と考えております。いままでの非礼を御詫び申上げると共に御厚情を引続いて賜わらんことを勝手ながら御願い申上げる次第であります。

<4号 昭35(1960)>

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