【4号】Second Childhood/古賀逸策
電気工学科の同窓会報のために何か書くようにとの御注文を幹事から受け、また原稿を書かされるのかという感じがした。しかもそれは筆者が還暦に達したからだという。還暦の御祝いの意味だといわれると一応有難く御受けするのが当然だとは思うが。こともあろうに、原稿の御依頼を謹んで御受けするというのでは、書くことのあまり好きでない筆者にとっては、二重の有難迷惑である。
さて泣言はともかく、筆者も無事還暦を迎え得たのは、やはり幸せだったというべきであろうが、一面、誰からも、あまりにはっきり老人扱いにされるのはいささか不満でもある。しかしこれがすでに老人のひがみでもあるかも知れない。昨年も招かれるままに、米国の東南部にあるジョージア工科大学でしばらく先方の人達の仲間入りをしていた期間中のこと、たまたま年令の話がでて、他国人の年令はなかなかわかりにくいものだなどということから出発して、筆者が一二ヶ月で満60才になることを話したところ、先方ではびっくりして、なかなか信じてくれなかった。
読者は、筆者が御世辞をまにうけてそういっていると思うかも知れないが、実は50才代の人で誰が見ても筆者より年長に見える人がいたからである。しかし筆者はその際正直に白状したが、色々な点で自分はもう確かに老人の仲間にはいったことを自覚せざるを得ない。たとえば若い人より早く疲れがでる。書物を読むのに不自由で虫眼鏡を必ず用意しなければならない等は特に顕著な点である。ただしかし自分の気持ではいままでも若い人達に負けない位気だけは若いつもりでいる。日本では満60才になると人生の再出発というような考え方をして、御祝を述べる習慣があるが、自分も1960年から再び小供になったつもりで、大いに若い気で仕事をしようと思っているといった。
ところがそれを受けて仲間の一人が、われわれにも、同じような意味からだと思うがSecond Childhood という表現があるということを教えてくれた。なるほどうまい言葉だナと感心したが、あとでこの話をまた思い出し、一体それでは、反対に「老碌」というのは英語でなんというかしらと思い、和英辞書を引いて見たら、なんとこれがSecond Childhoodとなっていたのには、驚きかつ苦笑を禁じ得なかった。そればかりではない。なんといううまい文句だろうと一層感嘆したものである。確かに年をとると、小供のように聞きわけがなくなる、我儘をいいたがる、 いわゆる大人気がなくなる。その上筆者のように童心にかえって全く若返ったつもりでいるなどは、文字どおりのSecond Childhoodで、 まさに老碌の典型ともいうべきものであろう。これだから年はとりたくないものだ。いやそんなことを考えるのもやはり老碌のせいかナ。
<4号 昭35(1960)>