【3号】定年退官に際して/星合正治

来る昭和34年3月31日,定年の故を以て東京大学を退官致すことに相成りました。大正11年4月に、東京帝国大学工学部講師嘱託の辞令を頂戴してから、満37年、本学に入学して以来を数えますと、丁度40年という長い年月を本学の中で楽しく過ごさせていただいたことになります。いま、本学を去るにのぞんで、この年月を省みますと、真に、文字通り、感慨無量と申す外ありません。

大正8年に入学した頃、大正11年に卒業した頃の教室の建物は、正門を入って、斜め左の方、いまの工学部の土木建築のある場所にあった練瓦造りの二階建。明治の初めからの、何でも由緒のある建物だったそうですが、その正面を入った、直ぐの右左が電気科でした。講義室は正面アーケードの直上の四号室というのでありました。

当時は山川義太郎先生、鳳秀太郎先生、鯨井恒太郎先生、西健先生、瀬藤象二先生、大山松次郎先生、大山先生は卒業されたばかりの一番若い講師で、私達のクラスが先生の最初の門弟だった訳です。渋沢元治先生は、その頃逓信省電気局技術課長が御本職であり、こちらへはまだ兼任で来て下さっていた時代でした。3年になったときに、一級上の尾本義一さんが卒業されて、講師として教室にお入りになりましたが先生を合わせても、 僅か8人です。それが40年後の今日では、教室だけで20人に近く、昨年私の還暦を教室でお祝い下さつた折に数えましたところ、教室の外、生産技術研究所、航空研究所、工学部応用物理学科、同総合試験所所属の方がたを合計しますと、東大、電気科連の総数が30余名、今後は電子工学科もできますので近くは、 40名を越す数となりましょう。大変な発展振りです。

その40年の間に、先ず起った大事件が、大正12年9月1日の大震災でした。この頃、教室は模様替の工事中でしたが、西先生と、一番若い山下英男講師と、 3人三階の室にいて、これから一緒に食事に行こうと立上った、その瞬時にガタガタときました。大きいよ、 とおっしゃる西先生の掛声と共に、飛ぶようにして、中庭に出ましたが、その直後に廊下の上のコンクリートの飾壁が大きな音をたてて、崩れ落ちました。いまもある、裏のアンテナ柱が、途中にノードができて、教科書にある通りの姿態で大きく揺れていました。

昭和6年9月18日の満州事変突発当時は、丁度ニューヨークに滞在中でした。朝の新聞を見て、これは大変なことになったと、逢かに遠い故郷を思い、如何とも仕様のない焦燥の念に駆られたことを、いまでもはっきりと思い出します。

昭和11年2月26日の晩の事件の折は、実を申すと、友人数名と共に、赤坂のさる料亭で酒を飲み、大雪だなあと感じながら遅く帰宅。翌朝のラジオ放送を聞いて、さて危ないところだったと、思わず胸を撫で下ろしました。

昭和12年7月7日に支那事変が始まり、非常時代に入って、早速、身近に起ったのは、若い沢井研究員に召集の赤紙がきたことでした。その時分は、当時の航空研究所に航空電気部を育て上げる仕事の最中で、昭和9年に卒業した井上均君、同10年卒の沢井善三郎君と、この若い2人を相手に、元気に航空電気関係の研究を始めたばかりのときでしたから、これは、私にとって、大問題でありました。幸にして、沢井さんが、身体が弱かったため、即日帰郷、大助かりでした。

昭和16年から始まった第二工学部の建設は私のその後の人生を大きく変えることになりました。昭和16年12月8日大戦が勃発、研究室の疎開までもしましたが、終に20年8月15日、戦争に敗れてから、同年12月には忽ち航空研究所が廃上になって、折角、育った航空電気部は解散。そればかりでなく、次には第二工学部の仕事そのものも止めになって、代りに昭和24年5月31日に生産技術研究所が発足、私自身も長い間の学部の生活から離れて、研究所の仕事に没入するなど、大学教授の生活としては、比較的起伏変転の多い、慌しい毎日が続きました。特に昭和31年3月、研究室の若い助手、島村道彦君の突然の急逝は、私にとってこの上ない大きな痛手でありました。だんだん年をとったせいかも知れませんが、振返ってみますと、年月だけが飛ぶように過ぎ去って、只アレヨアレヨと、呆然、自を失うばかりであります。そして、私自身の言動についての思い出は、真に過ちだらけの冷汗物で、よく、この長い期間を東京大学に甘えて過ごして参ったことと、甚だ申訳ない気が致します。

本年に入つて、いよいよ、定年のときが近づき、これまで、いろいろお世話になった同窓の方がた、ないしはその間にお近付きになった方がたに御挨拶廻りを始めましたところ、皆さん過去の私の不躾をお許し下さるばかりでなく、あたたかい態度で送って下さいます。その御厚情はしみじみと有り難く、東京大学で40年もの長い生活を送り得た幸を今更ながら、改めて感ずるのであります。

なお、私の退官後のことについても、同窓の方がたを始め、その他の知友の方がたから、大変、親切な御配慮をいただきました。何とも感謝に堪えません。お勧めによって、 日立製作所に入り、その中央研究所に勤務致すことに相成りました。10年この方の、生産技術研究所での生活の延長のようでもあり、それに引かれたことも事実であります。他面、同じく研究所は研究所ながら、また、大きく相違するところもあって、今後、あるいは、去就に戸惑うような場合がないとも限りません。甚だ厚顔しくはありますが、 これまでの御厚情を、今後の私にも御延長下さって、一層の御支援、御鞭撻を賜わらんことを、ひたすらにお願い申上げる次第であります。

<3号 昭34(1959)>

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