【2号】電気工学教育の発端(Ⅱ)/渋沢元治

電信学を電気工学に改正(明治17年)
志田林太郎教授― 中野初子教授
志田先生の卓見

明治17年工部大学校では従来の電信科を電気工学科と改めた。而して電信のみでなく電燈、電力、電鉄、電話等電気工学一般の講義を始めた。このことは電気工学に関する教育の基礎を置き、本邦に於ける電気工業の急速なる進歩の源を開いたというも過言ではないと思う。我々斯学に志し又は斯業に従事する者は、エアトン博士は勿論であるが、志田教授を初め之を助けた前記の諸先生に感謝せねばならぬと思う。

明治19年工部大学校は帝国大学に併合せられて工科大学となり現在の位置に移った。なお当時の諸先生の電気工学に関する抱負と意気込とを知るため、電気学会が創立せられた明治21年6月25日、会長榎本武揚子、幹事志田博士の演説の一部を次に抄録しよう(電気学会々誌第1号)。

先ず榎本子が会長に推されたのは当時逓信大臣であったからで、副会長には逓信次官の前島密氏が推されている。学術界の先輩たる志田博士は幹事として学会の実際の事業を指導されたように見受けられる。榎本子の演説中に『又電気工学の如きも以前は土木学の部に包括して居りましたけれども、今日に於ては一大専門学となりましたし、又電気学の如きも嘗て物理学の一部分の如く看做されしも最早1個の独立学科を為さんとするの期に立至りました。其の有様たる恰も一大家に同居して居りし子供達が追々生長して厳然たる一戸主となりて各独立の門戸を立ると同断で御座います。』とあり、又『其他電気工業の進歩に関しまする電信、電話及び電燈の如きも駸々として進みまする今日に当りましては独り工学会のみにて専ら研究し得べきにあらざれば矢張り本会に於て分担すべきことでありますれば……云々』当時、工学会があるのに電気学会を設けて屋上屋を架する必要はないという声が高かったのに対し電気を一分派として学会を独立してその専門を特に磨くことの必要を唱えたものと思われる。

次に志田博士の演説は実に電気工学及び電気工業の進歩の予言といってよいものである。当時電信は相当に実用化していたとはいえ、電澄、電話、電気鉄道などは皆発明されて僅かに数年を出でず、海外に於てもさほど実用に供せられていなかった。殊に交流工学については極めて幼稚の時代であって、その発達を予察するということは実に難かしいことで、有名なケルビン卿の如きも1881年(明治14年)に交流で重力を輸送することは極めて困難であると述べている。

それから間もない時代に、電気界諸般の方面のことを予見して、電信、電話、電燈、電力輸送等に説き及ぼし、なお電車、電気船、電鍍、電気医術などへの応用までを述べ、更に電力輸送に関しては、『例えば大にしては彼の米国ナイヤガラの水力を紐育府に伝送し電燈に変じて以て該市街を不夜城となすこと小にしては我国日光山華厳の滝の勢力を東京に移し、或は東京市街に電燈を点じ或は馬車人力車等を運転せしむるの奇観を呈するも当た遠きにあらざるべし。陸に電気鉄道、海に電気船舶の使用愈々増加し、鉄道列車水路船舶に黒煙白汽を見ざる時節も亦期して待つべし。電気空船の改良に依り航空の術高度に達し空船に乗り空間に逍逢し或は佳山勝水を賞観し或は名所1日跡を投索するの時節もあるべし。』と予言し、その他学術の点に於ても或は電磁誘導に関し我は光と電気との関係、地球磁気、空中電気等、諸般の学術に関して論及してある。

今日から見て強いて当っていないところをさがせば、蓄電池を以て電気空船を、航行するという点がある位のもので、その抱負の大きく然も散密なること実に敬服すべきものがある。電気工学を学び之を応用する事業に従事している者は必ず一読すべく、又感謝すべきものであると思う。

志田教授は逓信省工務局長ともなり行政方面にも活躍せられしが、惜しいかな明治25年不幸38才で早去せられた。丁度、其前明治23年に中野初子先生が米国から帰国せられて教授となって居られた。

<2号 昭33(1958)>

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