【17号】放電屋放談/鳳 誠三郎

本年の3月末日で、東大を定年退職させて戴くことになりました。専任講師を拝命したのが昭和11年4月でしたから、37年間東大に御厄介になったことになります。学生時代の3年間を加えると、丁度40年になります。亡父秀太郎も東大に奉職して居りましたから、かりにそれを加えると、何年になるでしょうか。とにかく親子二代に渉り、通計100年に近い長期間、世俗の荒波から隔絶された温室になぞらえられる東大で、気儘な生活をすることが許された訳ですから、誠に感謝すべきことで、皆々様の暖かい御支援があったからこそと存じております。他面父子二代、東大以外の世間を知らずに生きて来たのですから、相当な唐変木になって居ることも確かで、不知不識の間に色々と御迷惑をおかけした面も多いことと存じ、茲に一括して御詫び申し上げます。

研究テーマについても、上司から命令されるようなことも無く、文字通り勝手気儘に自分の興味の赴くままに選択させて戴きました。まことにお恥しいことですが「これを研究して、人類社会に大いに貢献しよう」と言うような大それた意識が先行するのではなく、単に“interesting”と言う気持にさそわれるままに、研究を続けて居たと思います。このように社会意識の低い者に、飢えをしのげるだけのペイを貴重な税金の内から割いて下さった「納税者」に対しても、大いに感謝しなければならないと思っております。

今になって自分の研究テーマを振り返って見ますと、わずかの例外はありますが、殆どが「放電現象」の土俵の中にあることに気付きます。少々キザになりますが「放電一途に歩んで来た」と申せましょう。しかし、それを後悔するような気持ちはサラサラありません。「得体の知れない放電現象の何処がそんなに面白いのだ?」と聞く仲間も居りましたが、これに答えるには、小生は甘党なのでよくは判りませんが、若山牧水の「それほどに、うまきと人の問いたらば、何と答えんこの酒の味」を引用し、「うまき」を「面白き」に「酒」を「放電」に置き換えればよろしいかと存じます。

中学1年生の頃だったと思いますが、自宅で100ワットの電球を直列にし、火鉢の木炭を電極として放電を起こさせると、美しい光が出ました。今にして思えば、単なるカーボンアークにすぎませんが、当時の自分にとっては、一種の発明でもあり、発見でもありました。同じ木炭でも「土がま」はよろしいが「堅ずみ」ではこの現象が起こらないことも発見(?)しました。ところが、夜中に目がさめて、驚いたことに、両眼がはれあがって、開くことが出来ません。眼鏡も何も用いずに、このイタズラをして居たので、紫外線にやられたのでした。びっくりした母親が、朝まで手拭をしばって両眼を冷してくれましたが、幸いに一過性のもので、恢復することが出来ました。この小事件が自分と放電とを潜在意識として結びつけたのではないかと思います。

さて、電位差10億ボルトと推定される雷雲による電光も「放電」なら、48ボルトの電池を電源としている自働交換機の接点に発する小さい火花も同じく「放電」です。しかも、これらの現象は、共に現在でも難解な技術課題とみなされております。このように、「電圧」と言う角度から見ても、放電研究のレパートリーが如何に広いかが窺える訳で、これも大きな魅力となります。これは研究ではありませんが、放電に「グロー放電」と言う形式があり、これを学生に講義する際に、代表例として「ネオンサイン」をあげるのが便利なので、 よくその手を使いました。ところが、大平洋戦争が激しくなるにつれ、「ネオンサイン」を見たことのある学生が遂に1人も居なくなったのには弱りました。「ネオンサイン」は国民の精神をたるませるものとして、禁止されたからですが、星合先生が「… ネオンサインと人間との戦いは人間の負けか。」と結ばれた寸鉄の苦言を、某大新聞紙上に投稿されたのも、その頃のことだったと思います。

放電の応用のうち、一寸毛色の変ったものに「放電加工」があります。これは液体の中でパルス放電を繰返すと、一方の電極が著しく消耗し、他方の電極は殆ど消耗しない条件を作り出すことが出来ることを、加工に利用したものです。消耗する方の電極を被加工体とし、他方の電極を工具とすればよい訳です この方法によれば、硬度に関係なく、また工具は回転する必要がないので、円以外の複雑な形状の穿孔、型彫りなどを、高精度で行うことが出来、新時代の特殊加工技術として脚光を浴びています。偶然も手伝って、私がこの方面の「草分け」になってしまい、(故)倉藤教授と協力して、6年前に(社)電気加工学会を創立致しました このような方面にも足を踏み入れた結果、純粋な電気工学の分野から少し離れた所から、電気工学界を、眺める機会にもめぐまれ、これは自分をいくらか精神的に成長させてくれたように思われます。

東大を去ったあとも、自分の母校に当る成蹊大学で、(故)福田節雄先生の残された研究室を引経がせて戴き、研究生活を続けることが許されたことを感謝しております。相変らず「放電」とのくされ縁は切れない、いや切りたくないと存じておりますが、今後共相変らずの御支援を御願い中し上げます。

(昭和11年卒 東大電気工学科教授)

<17号 昭48(1973)>

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