【19号】不惑すぎれば/大越孝敬
ジュネーブ在住の同級の新井彰君(郵政省よりITUに出向中)が、デビ夫人とブリッジをした話を書いてくれるはずと聞いていたのですが、公務多忙の為、急に小生が埋草を書く破目になりました 世代間の共通の話題として、ひとつ年齢(とし)の話でも書いてみようかと思います。先輩諸賢は「そんな時期もあったっけ」と言うくらいの気持ちで、後輩諸君は「ヘえ、そんなものデスカ」といくらか同情の気持ちで読んで下されば幸いです。
≪世間とは、俺のことかと・・・≫
我々の年度(昭和30年卒)にとって、今年は20年会の年です。と言うことは、我々の仲間が満年齢で42歳、数え年で44歳あるいはそれ以上になったと言うことです。もはや「40にして惑わず」と言われる年をすぎて4年、男の厄年をすぎて2年。学生のころ、40すぎの中年などおよそ想像を絶する存在であったことを思いますと、誠に今昔の感に耐えません。
さて、「不惑すぎれば」何が起こるか。何かが変るだろうか。これはもう、ずい分変るような気がする。ちょっびり気負って言えば、世の中を見る全く新しい眼が拓けて来るような気がします。
それは、たとえばこう言うことです。私は、職業柄、若い学生・大学院生諸君に意見をする機会が、度々ではないがときどきある。人に説教するとき、 日本語には自分の責任を回避するうまい言い方があって、それは「君、そんなことは世間で通用しないぜ」と言うものです。この言葉の裏には、「何ら自分は許してやっても良いのだが」、「もちろんぼくは君の味方なのだが」と言うずるい含みがある。
「不惑」をすぎてどれ位経ってからであろうか、このような言い方をする自分がいかにも卑怯で許しがたく思えて来ました。本当に悪いことなら、「それはダメだ」となぜ言えないか。世間、世間と世間のせいにしているが。世間とは所詮ひとの集まりであり、さらに言ってみれば、中年すぎの考え方の頑迷固陋人間の「物の考え方の体系」のことではないか。一体自分はいつまでも若い気でいるが、その実、もうその世間の「こちら側」に移ってしまっているのではないか。
不惑すぎた人間は、遅かれ早かれ、ある日突然このことに気付き、愕然とする。それは半分「ああ、もうタメだ」と言う気持ちであり、そして半分は、また不思議に明るい、落ちついた気持ちであるのてす。「不惑」を言い伝え来た意味のなかには、こう言う一面もあったのでしょうか。
≪体を鍛えよう≫
体の調子もずい分変って来ます。「男の厄年」にどれ位医学的裏付けがあるか、確かには知りませんが、友人諸公にも数え年42歳前後で体の不調を訴えた人は確かに多い。それが、厄年をすぎるとの当節の物価の「高値安定」のように(ただしこちらは安値安定)。体の調子が低いなりに落ちついて来て、無茶さえしなければかえって調子が出て来る。
もっとも、これには「努力の結果」と言う一面もあるようです。30台までは、少々の無理なら大丈夫、と言う自信があった。しかし、厄年前後になると、大抵の人が、急にお酒に弱くなるとか、健康診断で何か言われるとかを経験する。そして、みずから健康に気を付けるようになる。かく申す私も、3年前医者にふとりすぎと血圧を注意され、このところほとんど毎日曜日、10~24 kmの山歩きをしているのです。小学校低学年生の遠足で有名な高尾山から登りはじめ、城山、影信山、陣馬山と縦走して、暗くなったころ陣馬裏からバスで八王子へ帰って来る。
こう言う、あまり高級でない山歩きをしていると、いろいろな年齢の人に会います。中でも40台ないし60台の人達が非常に多い。30台以下の人達は、もっと凄いアルプスかなんかに出かけるか、あるいは「健康のための山歩き」など想像の外であるか、どちらかなのでしょう。それにしても、 まだまだ体に余力のあった30台から、心がけて体を鍛えておいたらもっと良かったのに、 と思う今日このごろです。
≪次代に託そう≫
最後に、ちょっぴり真面目そうな話をひとつ。
不惑すぎての変化のひとつは、「次代に託そう」との気持ちが出て来ることです。言ってみれば、「もうダメだ」の論理的帰結でもあります。自分の能力の限界が見えて来る。自分ひとりでできることなどたかが知れている、ことを痛感するようになる。更には、自分の世代が成し遂げられることもたかが知れている、 と考えはじめる。このような弱気に裏打ちされて、今度は次の世代を育て、自分を育ててくれた世間にお返しをする番だ、と考えるようになって来る。その意味で、たまたま教職にある自分は、次代の教育と言う形でお返しができる訳で、大変幸せだと思っています。
それから、これからの世の中では、社会活動・社会奉仕の形でも、お返しをすることに努めるべきなのではないか。先頃、長女がお世話になっている小学校のPTAから連絡があり、50年度のPTA会長のなり手がなくて困っている、是非引受けて下さい、と頼まれました。
実はこの小学校は私自身の母校でもあり、また10年ほどまえには本電気工学科21年卒の大山彰先生(現在、動力炉開発事業団理事)もPTA会長を務められたとのこと。進退谷まって大山先生に御相談申上げたところ、「君、それはやりなさいよ」と一言で片づけられてしまいました。以来、初等中等教育に関する本を何冊か買い込んで、にわか勉強をしています。勉強してみればみるほど、今日の日本の教育は重大な岐路にある、 と思わざるを得ない。これまでは父親参観日にもろくに出掛けたことのない不熱心な父親でしたが、これからは自分の子供の為と言う訳でなく、次代に対する責任として、初等中等教育にせめて人並程度の関心を持つようにならなければ、と思いはじめています。
ひどく殊勝な話になりました こんなことを憶面もなく書けるようになることも、「不惑をすぎた」人間の特権と言えましょうか。
(昭和30年卒 東京大学助教授)
<19号 昭50(1975)>