【18号】ある海外援助―エチオピアを訪ねて―/荒川文生

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昨年7月から9月にかけて、東アフリカは高原の国エチオピアを訪れる機会を得ました。エチオピア帝国政府の依頼で、同帝国の長期電力計画を策定するのが目的です。「長期とは何年か」とは現地でも議論になりましたが、電力需要の想定は、紀元2000年まで行うこととしました。エチオビアでは、1958年を起点とする経済25年計画が策定されており、5年毎にその逐次実施計画が立てられ、現在、第4次5年計画の内容が煮詰っているところです。我々の長期計画は、初期についてこの第4次5年計画を基礎とし得るものの、それをそのまま2000年まで延ばしたものとする訳にはゆかず、かなり思い切った判断と大局的な見方が、計画の策定に当って要求されます。

日本と比較すれば、エチオビアの国土は3倍、現在の人口は1/4、ひとり当り国民総生産は1970年63.6 USドル(1968年価格)で、日本の1/27となっています。電力事情について見れば、設備に関して日本ではMWの単位で使われる大きさの数字にkWの単位が付いており、1971年の発電電力量が日本で3856億kWhであるのに対し5.2億kWh(国連統計)といった具合に、規模に関する日本の常識は全く通用しない状況です。勿論、ひとつひとつの設備は、西欧や日本から入れた近代的なものを、丁寧に使っているのですが……

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この様な状態が、20年30年後にいったいどうなると考えるべきか。発展途上国という点を考慮したにしても、日本の敗戦後30年との相似性は成立たないと思われます。それでは明治維新後の30年ではどうか。その答を出すには、ある国との相似性を見るのではなく、30年後の国際社会において、現在発展途上国と呼ばれる国々が占める位置や、アフリカ諸国のなかでのエチオピアの状況、その他の要因を大雑把にでも想定した上で、その国のあるべき姿を計画として描く必要があると思われます。幸い、我々の先輩に当る青木波磨顕氏(昭26-I工卒)が、 世界117国の統計分析から割り出された国民経済の発展段階に応じた電力需要の想定方式を、最近提案しておられるので、その想定における世界の平均的傾向をやや上回るところを計画値とした理論付けによって、2000年に到る想定を行うこととしました。

いわゆる発展途上国と先進国との区別として、ひとり当り国民総生産500 USドルを境とする見方がありますが、上記方式に従った想定に依れば、紀元2000年のエチオビアはまだ200ドル前後の状態にあると想定するのが妥当と考えられます。その根拠のひとつには、この国が実に着実穏健な発展を目標としていることが挙げられます。確かに国民の8割は、国民経済の貨幣部門に含まれていないのが実情ですが、為政者はそれをよく承知しています。従って、いたずらに外国借款を借り回って破産状態に陥るような、あるアフリカの国の轍を踏むことなく、外交的には非同盟主義を唱えつつも、米英ソ中いずれとも協力関係を保つなど、皇帝ハイレ・セラシェー世の政治は、巧みであると言えましよう。もっとも、 この皇帝が、封建的な地主と革新的な知識層を含む官僚との平衡の上に、独裁的な地位を保っていると聞けば、エチオピアの将来について、多くの複雑な状況も予想されない訳ではありません。

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この皇帝が、まだ皇太子であった頃日本を訪れ、皇室に仕える女官のひとりを見染めたという話は、我々の母親が娘心をときめかせた昔話だと聞きました。また 日本に長く滞在したエチオピア人の書いた日本を紹介する書物が、エチオピアでひところベストセラーになったこともあるそうです。いっぼう、マラソンランナー・アベベ・ビキラの名前は、東京オリンピックに前後して、あの強さの故に、或いはあの哲学的な風貌の故に、日本で広く知られ親しまれました。

この様に、日本とエチオピアとは浅からぬ因縁に結ばれている感があり、実際、首都アディス・アベバには、150人以上の日本人が在住し、日工合弁企業も、繊維・タイヤから銅の鉱山会社まであります。昨年完成した首都と第二の都市アスマラとを結ぶマイクロ回線は、 日本電気(株)が受注した工事でしたから、エチオピアで仕事をされた同窓生の方が、或いは既に居られるのかも知れません。我々のような短期滞在者の印象からしても、人々の多くは親日的であり、また、 日本を知らなくても我々への接し方は、淡白かつ誠実と思われました。滞在したホテルのリセプショニストたちは、我々が部屋番号を慣れぬ現地語(アムハウ語)で告げると、実に愛想よく鍵を渡してくれ、お蔭でその他のサービスでも、随分気を配って貰いました。気持の上で義理固い所があり、握手よりはお辞儀が本来の挨拶であるなど、(古来の)日本に似た面も少なくないようでした。

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地方の視察に出て見ると、雨期のせいもあり、なだらかな起伏をなす高原には豊かな緑に覆われ、眼下の谷あいを流れる雲の風情や、夕日の光が山の端と頭上の雲との間をぬって織りなす天然の絵模様は、実に印象に深いものがありました。願わくばエチオピア人々が、この自然の美しさを汚すことなくその生活を向上させ、我々の協力もその為に実を結んで貰いたいものです。特に、日本の海外援助の実態について、とかくの批判が聞かれるときに、我々が接したエチオビア人の親しみが、いつまでも温かく育くまれてゆくように、真剣かつ誠実な海外協力を、日本は日本なりに創造し実践すべきであり、私自身もそのささやかな一端を担いたいと思う此頃です。(1974年2月4日)

 (昭和40年電気卒 電源開発(株))

<18号 昭49(1974)>

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