【16号】脱皮/沢井善三郎
昭和10年電気工学科を卒業、航空研究所(いまの宇航研)の研究嘱託として東大に就職して以来ここに37年、生産技術研究所勤務を最後として、このたび定年で退官することになりました。最近各方面で脱何々といわれています。私の場合は定年退官ですから自発的な意味の脱東大というわけではありませんが、やはり一つの脱皮の時期であることを感じます。
ではどんな皮を脱ぐのかというと、まず第一が公務員生活からおさらばということです。公務員といっても大学の研究所勤務だったので、一般の役人や警察官などとちがい、自由で気楽であるともいえますが、それでも国家の機関にいるとなると、やや重苦しい点があり、物事を合理的に処置しにくいと感ずることも多々あります。先輩の先生から「定年後の生活はなかなかよいものだ」とかうかがったこともありますが、やはり公務員教授の皮を脱ぐことの気安さを示しているのではないでしょうか。
しかし一方別の面から見ると、公務員をやめるということは、いい年をして個人として社会の中に放り出されることを意味しており、親方日の丸に頼るわけにいかず、万事自分で考え、自分で責任を負う必要があるわけです。長年国立大学に暮らしていたものとして、このことはもう少し時間がたってみないと、どうも実感として捕えにくい感じです。
さてその次の皮は、学部学生時代から身につけてきた電気工学です 私は卒業後航空研究所にはいり、間もなく抵抗溶接の研究をはじめ、10年間以上もこの研究を続けました。その後、途中第二工学部で電気工学科の教官をつとめましたが、全体としては研究所勤務が多く、戦後は研究方向を主として各種の機械やプロセスの制御から、オートメーションヘと目指してきました。その間それぞれの制御やオートメーションの計画設計を行なう場合、単なる電気屋であってはならないことは当然で、電気にこだわらず、全体のプロセスに対して調和のとれた方策を立てるべきであると、自分にもいいきかせてきました。
ところが、いまになって自分のやってきたことを振返ってみると、一見電気の枠をはずして研究してきたと思っていたことも、実は放電管応用であったり、シーケンス制御の応用であったりして、やはり電気のカテゴリーを脱したものではなかったようであります。これには自分が大学院電気コースの教官を兼ねていたことにも関係があり、それはそれで当然だったと思います。
しかし制御やオートメーションに限らず、各種の企業において技術の発展はめざましく、特に電子計算機の発展などを考えると、今後電気電子の技術者が、電気応用、電子応用といった物の考え方で立向ったのでは、次第にその立場を失っていく心配があります。つまり電気の応用分野のレパートリーが無限に広がっていくのに対して、電気工学、電子工学のカテゴリーがこれに対応しうるかどうかという問題です。私自身も電気工学に属した一員として、電気から脱却できず、研究上なんとなく窮屈に感じたこともありますが、電気工学もいつか一度脱皮するときが来るのではないでしょうか。
定年退官後も私大の電気工学科に籍をおくことになりましたので、どうやら今後も電気工学から離れるわけにはいきませんが、この機会に一度皮を脱いで、その上で電気工学というものを考えなおすこときればよいがと思っています。
私をしばっていた第3の制約は長期にわたる病気です。学部の最終学年の工場実習に行ったときてすから、昭和9年の夏に胸に病気のあることが指摘されました。実習は無事にすませたものの、今日のような化学療法のなかった当時のことで、就職後次第に病気は進行していきました。休養を必要としたこともしばしばあり、人間の生命というものについて考えさせられたことも一度や二度ではありません。特に大喀血のあったときには、もはやこれまでかと思いました。その間家族経済のことが問題だったことも御想像のとおりです。
しかし人間というものは意外にタフなもので、昭和39年思い切って命がけのつもりで敢行した手術が成功し、おかげで命をとりとめることがてきました。その後自動車の免許をとったり、欧米への視察旅行に参加したり、学会長を拝命したりしながら、遂に定年まで到達したわけです。昨年還暦を迎えたとき、先輩の先生から「君、よくここまで来たね」といわれましたが、自分でも本当にそう思っています。
こんな状態で、皆様にはずいぶん御迷惑をかけたり、御心配をかけたりしましたが、それでもこの激動の時代を結構明るく楽しく過ごすことができましたのは、先輩、同僚の方々はもとより、御交際を願ったあらゆる方々の御支援によるもので、心から感謝をささげたいと思います。このようなことを含めて考えますと、はなはだ勝手な言い分ではありますが、日本という国も結構有難い福祉国家であるのかもしれません。
今回定年退官となりますが、人間は停滞することはできません ここで一皮はいだつもりで、さらに新しい人生にふみ出そうと思います。どうぞ相変らぬ御支援御鞭撻をお願い申し上げる次第であります。
(昭和10年卒)
<16号 昭47(1972)>