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【10号】電信電話事業の現状と問題点/米沢滋

日本電信電話公社は、昭和27年8月1日にそれまでの国営形態から公共企業体として発足したが、その翌年の28年度から電信電話設備拡充第1次5ヵ年言計画に着手した。最近公共施設ないし社会資本の長期計画にどこでも力を入れるようになってきたが、戦後最も早く本格的な長期計画を立て、またこれを着実に実行し成果を現わしてきたのは、電信電話事業であった。

昭和28年度から32年度に至る第1次5ヵ年計画において、 2,935億円を投資して109万の加入電話増設をおこなった。つづいて昭和33年度から37年度まで第2次5ヵ年計画を実施し、7,373億円を投資して214万の加入電話増設をおこなった。さらに昭和38年度から第3次5カ年計画に入り、40年度はその3年目にあたっている。第3次5ヵ年計画では1兆7,875億円を投資し、500万の加入電話増設をおこなうことにしていたが、最近における需要の予想以上の増大に対処するため、計画を修正する必要にせまられている。

第1次5ヵ年計画に着手する直前の加入電話数は全国で155万であったが、昭和40年度末には734万に達する見込である。これを電話機数に換算すると1,100万となる。

世界各国と比較してみると、電話機数では、わが国は米国に次いで世界第2位となっている。しかし、人口100人当たりの普及率では、世界第19位で、いまだしである。

市外電話回線の粁程をとってみると、電電公社発足直前129万粁だったものが、40年度末には2,280万粁となる見込である。

財務会計画の数字でみると、公社発足当時の固定資産額は3,896億円であったが、40年度末には約1兆9,000億円となる。毎年の建設投資額は、昭和28年度が606億円、第2次5ヵ年計画に入って1,100億円台から2,000億円台に累増し、先般きまった41年度予算の政府案では4,120億円となっている。また、事業収支の規模では、昭和28年度979億円だったものが、41年度予算案では5,530億円となっている。

700万の加入電話が相互に通話できるためには24兆5,000億の回線の組合せが必要である。こうした相互通話の組合せの急速な増大、あるいは市外通話即時化の進展等の結果、電話回線は著しくにくなってきた。第1次5ヵ年計画当時は、加入電話1名当りの市外回線は平均1回線粁未満であった。しかし、現在では1加入当り3回線粁以上必要となっている。

したがって、本来ならば市外関係で投資金額は3倍になるわけであるが、今日までこれをほとんど横ばいにとどめてきた。すなわち3×1/3=1という関係になる。これは、電信電話事業が高度の技術革新を推進した成果である。

とくに顕著なのは、わが国の伝送関係の技術であり、たとえば,、360チャンネルのマイクロを1,200チャンネルにし、あるいは1,800チャンネルに多重化する。また、同軸ケーブルの960チャンネルを2,700チャンネルに多重化するといった技術革新がこれである。

いまわが国の電気通信技術の水準は、欧州諸国のそれよりも上位にあり、マイクロ波多重通信技術は米国と完全に対等となっている。これは、過去30年間にわたり、電電公社内外の技術者が、わが国独自の技術を生みだそうとして努力してきた結果である。もしも、13年前の第1次5ヵ年計画当時の技術のままで、第2次および第3次5ヵ年計画を遂行したと仮定すれば、約4,000億円の投資額が余計にかかる計算となる。このように技術革新によって投資のコストを抑え、昭和28年以来今日まで、他の公共事業が2回ないし3回料金値上げをしている間、一度も値上げをせずにきたのである。

わが国の電気通信技術が世界的水準をぬくことの証明として、たとえば、英国が目下英連邦をつなぐ同軸海底ケーブルで、世界を一周する電気通信網をつくっているが、オーストラリアの東海岸で、その英連邦通信網の一部をなすものとして、1,500粁にわたって陸上にマイクロ施設をつくりつつある。ここに日本のトランジスタ化したマイクロ中継方式、同機器が輸出されているのである。

電信電話事業の長期計画の目標として、昭和47年度末すなわち第4次5ヵ年計画修了時に「申込めばすぐつく電話」「全国どこへでもすぐかかる電話」を実現することとして、5ヵ年計画を遂行してきたのであるが、開放経済体制を迎えた今日、企業の合理化・能率化の手段として電話の重要性が一層増大したこと、地域開発計画の進展等にともない電話の必要度が高まってきたこと、国民生活形態の変化・生活水準の向上等により電話に対する需要が増してきたこと等のため、電話架設の申込が予想以上にふえ、現在電話局の窓口に積滞している未設の数が167万にも達し、しかも毎月10万以上の申込がつづいている状況である。この結果、長期計画を今後にむかい改訂する必要が生じてきた。

また、電話が地方都市・農山村あるいは住宅等に普及するにともなって、1加入当りの収入が低減してくる。現在月額平均収入5,000円程度で事業が成り立っているのが、月額収入2,000円以下の加入者が今後次第にふえてくる。こうした収入の構造変化等にともなう事業収支の悪化という問題が生じている。

さらに、加入電話架設時に加入者に引き受けてもらっている最高15万円から以下の電話債券の償還額が、昭和45年度から一挙に1,500億円になり、さらに1,800億円、2,300億円、というふうにふえていくことになる。

こうして、昭和41年度から47年度までの7ヵ年間に、建設投資額として5兆260億円、事業収支の赤字として7,260億円、債務償還額として7,120億円の膨大な資金需要が生じてくる。

電信電話事業は、今日まで技術革新の成果をとり入れることにより、経営の合理化をはかり、加入電話の増設・自動化、市外通話の即時化・ダイヤル化等顕著なサービスの向上をはかってきたのであるが、公社発足13年にして、経営上の重要な曲り角に当面しており、料金値上げを含めた根本的な対策の実施が必要となっているのである。

(昭和8年卒 日本電信電話公社総裁)

<10号 昭41(1966)>

【11号】うちあけ話/古賀逸策

先日、編集担当者から本誌に寄稿するように との注文があったので、なぜ筆者にそのような 相談を持込むのかを質問したら、 日本人が国際 電波科学連合(*)の会長を務めたなどは、 比較的 珍しい例であるから、それに因んだ、何か面白 い話題を持合せているだろうからだという答で あった。そういわれて見ると、確かに紹介に値 する点はいろいろある。たとえば、理事会とで もいうべきMeeting of the Boardや、参加 国の国内委員会委員長の会合(Executive Committee Meeting)、 総会のプログラム編成 等を協議するCoordinating Committee等を司 会して見て、先ず第一に感じたことは、会議を 運ぶ上では、 日本でふだん我々仲間がやってい る会合に比較すると、むしろやり易かったこと である。それは出席者のすべてが筆者の予想以 上に秩序を保つ上の注意を払ってくれたためで ある。日本ではとかく起り勝ちな、脱線の心配 が殆んどないことや、発言は議長の承認を得た 上でしかしない点などは、大いに学ばなければ ならない点だと思った。しかし、その様なこと をくだくだしくならべるよりは、 ここでは、筆 者がこの国際電波科学連合の会長になったいき さつの、うちあけ話をした方がよいかと思う。

話は大分古くなるが、今から約10年前、わ が国でも、世界地球観測年(1957-58)に備えて、 関係学会の活動が盛んになった頃、米国から数 名の有力な学者が来日し、その情況を実地に見 聞した結果、近い将来に日本で国際電波科学連 合の総会を催し、 日本の実情を知らない諸外国 の学者達に、正しい認識を与える必要があると 考えた様子である。

このことがあって間もない1957年、 米国 Colorado州のBoulderで、URSIの第12回 の総会が催されるについて、米国ではこの総会 を盛大にする一つの方法として、参加各国に、 もし総会の前後に、米国内の大学や研究所で、 講義や講演をするとか、あるいは、ある期間、 研究に参加するとかいう意向の人があったら、 その旨連絡してもらえば、米国側から渡米の便 宜を与えたいと考えているから、希望者を知ら せて欲しいという連絡があった

日本側の事情では、いつものことながら、 1 人位は国費で派遣してもらえるだろうが、 2人 迄認めてもらえるかどうかは、危いという、誠 に心細い状態であったので、上述のような棚か らボタ餅の様な話には、希望者が相当多数現れ たことはいう迄もない。しかし、一体何人位ま では、その様な便宜を与えてもらえるのか、皆 目見当がつかなかった。結局種々協議の結果、 日本国内委員会としては、候補者十数人を選定 し、これに順位をつけて、その順に先方が考え ている人数だけ便宜を与えてもらいたいと申し 出た。ところが驚いたことには、申し出た全 員を招待するという返事であった。而もこれら の人々は、渡航の際、米国の軍用旅客機で将校 として待遇され、発着の際は係員が見送り出迎 えをするという、中々丁寧な扱いをされ、総会 現地でも、宿泊する部屋には個室が割当てられ るという有様、これに引きかえ、国費や私費で 行った者は、数名があい部屋という始末であっ た。当時、 日本国内委員会の委員長を引受けて いた筆者は、いわば大勢の居候達の世話人の様 なもので、この米国側の好意には、感謝しつつ も、心ひそかに肩身のせまい思いをしていた。 ところが執行委員会などの席で、米国の地元側 からは、 日本は遠く離れているにも拘らず、非 常に協力的で、大勢の人を派遣してくれたと感 謝され、全くとまどう始末であった。

やがて次の総会の開催地を決定する相談が始 まったとき、3年後の1960年にはロンドンで 開催することが正式に決定されたが、序にその 次の1963年の総会を日本で引受けてもらえな いだろうかという話が有力になった。筆者は、 この問題は、未だ国内で全然検討していないこ とであるから、帰国後その実現に努力はする が、今、確定的な招請をすることはできない 旨を卒直に答えた。このことがあってから数日 後、会長(任期は総会の終りから次の総会の終 りまで)と、副会長(4名で、任期は、次の又 その次の総会の終り迄)の半数の任期満了に伴 なう改選が行なわれたとき、筆者は副会長に最 高点で当選した。これはいう迄もなく、参加各国 が1963年に日本での開催を熱心に希望している 旨の意志表示と見るべきものであった。

爾来、6年後の東京総会まで、 日本では電波 科学の関係者は勿論、事業界、産業界の絶大な 支援を得た甲斐あって、準備は万端ととのい、 1963年9月、第14回総会は中々の好評裡に終 了したこれは欧米各国からの参加者の多くが、 日本へ始めて来たもの珍しきもあったと思う が、その上に、彼等の予想を遥かに上まわる日本 の進歩、活動の実態に接して、大いに認識を新 たにしたばかりでなく、会期中あらゆる面で、 心からの世話になったことに対する感激にもよ るものと思う。

このようなことが、東京総会での次期会長選 挙に相当反映したのではないかと思う。という のは、筆者以外の者を候補者として推薦した参 加国は一つもなく、従って決戦投票も省略して 簡単に決定してしまった。

こんな訳で筆者は、とんだ風の吹きまわしで 50余年の歴史を持ち、国際的にも重きをなし ている国際電波科学連合の会長をつとめること になった次第である。任期中、いろいろ面倒な ことも、あるにはあったが、幸い昨年秋ミュン ヘンで第15回総会が終ると同時に、筆者の任 期も終って、今は前会長として、Boardに残り、 現会長の補佐役のような立場になったので、気 持も非常に楽になったことを喜んでいる。

最後につけ加えたいことは、筆者を会長候補 として推薦したのは、日本以外の国ばかりであ ったことである。これは筆者のごとき者が会長に 推される可能性があろうなどとは、日本国内で は誰も予期していなかったからでもある。従っ てまた、選挙運動がましい動きも全然なかった ことは、誠に有難いことであった。総会直前 に、外国の数人の有力者から、「実は自分たち は、それとなく日本の数人の人に、次の会長の問 題をどう考えて居るかと聞いて見たが、全然あ なたの名前を挙げる人がなかった。ついてはあ なたが会長になった場合、何か国内的事情で、 立場上困るようなことはないでしょうね」と駄 目を押された位であった。以上の様な次第で、 筆者の会長就任は、 どうヒイキ目に見ても、筆 者の力量によるものではなかったことを白状し ておく。

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(*)URSIと略称。仏文名I’Union Radio-Sdentinque Internationale、英文名International Scientinc Radio Union

<11号 昭42(1967)>

【11号】定年に当り/阪本捷房

ラヂオの初まったのが大正14年、その翌15年が私が学生として大学の門をくぐった年でした。それから3年間諸先生の御教導によって昭和4年に卒業することが出来、引つづいて講師を拝命しましてから今日まで38年間同じ教室にいて先輩後輩の皆々様から並々ならぬ御配慮を頂き今回無事定年を迎えることの出来ますのは私にとりまして感慨無量であると同時に深く感謝の念を禁じ得ません。

私が卒業致しました頃は関東大震災で建物がかなりいたんだ後でしたので電気工学科は2号館に間借りをしていて、3階の西南にある2室に9人の先生方が雑居しておられました。鳳、渋沢、鯨井、西、瀬藤、大山、星合、山下、福田の諸先生がおられたわけですが私の卒業と同時に渋沢先生が工学部長になられましたので暫時私は渋沢先生の机をお借りして過しておりました。昭和15年に3号館が出来るまで多少の推移はありましたが大体はこれに近い状態の教官室であったことが今でも目の前に浮びます。

満州事変、2・26事変、日支事変、第2次世界大戦等、私が卒業しましてからの20年間は変動の甚だしい時期でありました。このような世情の変化は一一ここに記すよりもテレビ小説の「おはなはん」というのがそれをよく物語ってくれています。と申しますのはこれの原作者林謙一君は私の中学の同級ですので彼の生涯に起った世相の変化は全く私の場合と同一だからです。

私の卒業しました昭和4年は不景気の風がそれ程強くはありませんでしたが電力方面だけでは不充分であり,そろそろ通信方面にも広く眼を向けなければならない萠が見えかけておりました。大学ではそれ以前から鯨井先生が高周波工学としてこの方面を担当しておられましたが私にその方面の仕事をするようにとのことで同先生の御指導の下に通信方面の仕事を手がけ初めたのが私の一生を結果に於て支配することになりました。今から振返ってみますと今日隆盛になっている電子・通信というような分野を38年も前から手がけさせて頂いた幸福をしみじみ味っております。

私が最初に受けた大きな痛手は鯨井先生が私の卒業後2年程で御病気になられ医学の進んでいなかった当時とうとう昭和10年に御亡くなりになって了ったことでした。これから大いに進展しなければならない通信方面で先生の御逝去は私にとって晴天の霧震でありまして一時はどうして宜しいか途方に暮れたものでありました。併しその後も渋沢先生を始めとし西先生等から種々御教導を頂き特に星合先生及び講師に来て居られた古賀先生には常々若かった私を御指導下さいましたことは今猶記憶に新たなものがあります。

第2次大戦が漸く酷となり。卒業生は殆んど軍部に徴用されるようになりました昭和18年、理工系の仕事を強化する意味に於て大学院に特別研究生の制度が出来、宇都官敏男、中原裕一、小口文一の3君が第1回特別研究生としてそろって通信方面の仕事をしてくれることになりましたのは通信に関する研究に一段階を劃するものでありました。これを契機として昭和19年には田中春夫君というように毎年有力な新進の大学院の諸君が集合して新しい分野の開拓に情進しておりますうちに終戦となりました。軍部に籍をおいていた本学の教官にも通信方面のものがかなりおりましたため帰学後も引つづきその方面の仕事をすることになり遅ればせながら本学も通信方面がかなり充実出来ました次第です。

戦後は電子工学が盛んになり、昭和33年には電子工学科が誕生しましたがその建設を最初から計画しこれを約10年間育てあげることに精進出来ましたことは後年に於ける私の喜びと楽しみでありました。その結果現在は電気が8講座学生定員45名,電子が6講座、学生定員40名ということになっておりますがこのスケールは他の旧帝大に比べますと大体3分の2位に過ぎません。東大だけがそんな状態でいてよい筈はありませんので努力は重ねておりましたが末だ満足する形態になりませんでしたのが心残りに思えます。それには種々の理由もありましようが今後の方々に宜しく御願いする次第です。

もう一つ私の忘れ得ない思い出は同窓会のことです。従来卒業生の名簿だけが発行されておりましたのを卒業生も多くなってきたことなので同窓会を組織化した方が宜しからうという話の出ましたのが昭和30年頃でした。それにはどのようにしたらよいだろうかと教室会議で話し合っております間にたまたま私が同窓会を作った経験があることを申しましたところそれなら具体的に考えるようにということになりました。私の経験と申しましてもそれは中学校のことで私が府立五中(現在の都立小石川高伎)の第一回生でありそのため福島慎太郎君(ジャパンタイムス社長)等と若い頃ずいぶん時間を使って同窓会を創設したことがあったからに過ぎません。その時代から約30年経っておりましたが昔の事を思い出しつつ又その後の種々の経験を加味し、教室の方々にも御援助を頂き、同窓の皆様方の御賛同も得られて今日に及んで居りますのは御同慶の至りに存じます。今後ともますます発展しますことを種をまいた一人として御願いします。

もう最終講義も済ましましたしあとは残務整理をするだけになっております。退職後は丹羽先輩の御世話により東京電機大学に籍をおいて教育の一端を担わして頂く傍ら業界に於ても御役に立つような仕事をしたいものと思っております38年の長きに亘りよい環境で無事仕事をさせて頂きましたのは恩師、諸先輩の御指導はもとより、同窓の皆々様に負う所が少くございません。ここに厚く御礼申し上げる次第でございます。

<11号 昭42(1967)>

【12号】電気脱線記/大来佐武郎

電気工学科同窓会から日本経済発展などの問題について何か書くようにとの御依頼を受けた。平ぜいあちこちで日本経済や国際経済を論じているので、ここでは、同窓会幹事先生の許可なしに、テーマを変更し、電気脱線記を書いてみる気になった。悪しからず御海容を御願い したい。

私の電気工学科在学時代は、昭和9年から 12年までである。満州事変が昭和6年に勃発し、世相は次第に軍国色を濃くしつつある時代であった。大学2年の冬には、2.26事件が起り、当時の日記に軍国化の前途をうれうる一筋を記した記憶がある。一高から大学に進むときには、物理に行こうか、電気に行こうか迷った末、電気にきめたのであるが、在学中にだんだん興味の範囲が拡がり、とくに経済問題にひか れるようになった。2年生の当時、電気の実習のあとの4時-6時という時間に、馬場敬治先生の経済学と、諸井貫一先生の工業経済の講議があった。ともかくこの二つの講議に出席し、試験も受けた。ことに馬場先生は、電気科を卒業後経済学部で経営学を修めたという経歴の持主でもあったので、講議だけではなく、しばしば自宅に押しかけて、いろいろ御教示を仰ぐようになった。先生の「技術と経済」、あるいは、あとに出た「技術と社会」というような著書を 興味深く読んだ 先生はわれわれ電気科の学生をつかまえて。価値論について質問するなど、いささか面くらうことも多かったが大学を卒業し、さらに戦後になっても、いろいろ御会いす る機会があり、先生が組織された工業経済学会 や組織学会の御手伝いもした。とにかく、万巻の書を読破し、諸学の総合をはかろうとする志しを懐かれたまま、数年前に他界されたのは残念なことであった。わが国でまったく紹介され ていない海外の諸学者の所説を紹介され、とくに新しい社会の動きに着日しておられた戦後、昭和35年頃、ギンズバーグの「マンパワー・ ポリシー」を読めと勧められたのも、先生であり、当時私は経済企画庁について、人的能力問題をとりあげるようになったのも、この本が直接の動機となった。

電気科では、大山松次郎先生が電力応用の講議のなかで、「諸君は電気を勉強したからとい って、必ず電気屋にならなければならないというものではない。自分の級友には、電気をやって、帽子屋になっているのがいる」という漫談をされたのが、印象に残っている。これもそろそろ脱線の気配が芽を出しはじめていたためかも知れない。

大学の卒業論文は、定年で引退される最後の 年を迎えられた渋沢元治先生のもとで、「揚水発電の経済的効果」というテーマをえらんだ。 就職も、当時の逓信省電気局を志望した。これも電気科から行くところとしては、いちばん経済に関係がありそうに思えたためだ。当時、林銑十郎内閣の突然の議会解教があり、電力国家管理のために予定されていた定員がお流れにな り、大学卒業後半年近く待たされたうえ、逓信省工務局の定員で9月からようやく電気局に出られるようになった。ここでは、当時工務局調 査課長の松前重義さんの影響もあって、役所における技術者の地位向上の運動に加わり、当時の大和田電気局長のところに連判状をもって乗り込むというようなこともあった。

また当時、後藤隆之助、平貞蔵、笠信太郎、 その他昭和研究会の関係者が、昭和塾というものを開き、大学の最終年次の学生と卒業したての若年を集めて、日本の政治経済の講議をする という話をきいて、入塾試験を受けた。幸いそれにバスして、昭和14年の4月いらい、夕方6時頃からの会合に毎日出かけて、ここで、日本の政治経済問題や、中国問題などの話をきくことになった。やがてその年の6月、電気局技 術課長の森秀さん(4月から電力管理準備局の 第二部長)からの話で北京の興亜院華北連絡部 に電力担当の技師として赴任し、ここで電気事 業の監督、物資動員計画、電力需要調査などを 扱い、また北京在勤の若手の間で、孫文の「三民主義」や橘樸の「支那社会研究」などをテキ ストとする読書会に参加し、中国問題を勉強した。ことに当時北京に陰棲していた中江丑吉さん(中江兆民の息)に、ただ一人の工科出身の 弟子として可愛がられ、時折り、「戦後にはも っとよい社会が来るぞ」と教えられた。

昭和17年の春、東京の興亜院木院技術部に転勤となり、電力および工業を担当、やがて興亜院が大東亜省に改組され、総務局調査課で、資源、技術、経済など、広い問題の調査を扱うようになった 終戦の年の昭和20年の2月に 「本邦経済の大陸資源依存度に関する一考察」という報告書を作成し、大陸との交通断絶にそ なえて、鉄鉱石や銑鉄のかわりに、塩と大豆を1トンでも多く大陸から内地に輸送すべきだと 主張した 当時から、敗戦後の再建問題をひそかに考えていたので、終戦に先立って、経済学 者を中心とする戦後経済問題研究会の組織を準備していたが、たまたま終戦と同時にこれが発足することとなり、電気科の後輩故後藤誉之助君等と外務省調査局にうつりこの研究会の書記をつとめ「日本経済再建の基本問題」という報告書をまとめた。昭和22年には経済安定本部 (現在の経済企画庁の前身)調査課長に任命され経済白書作成の仕事などと取組むこととなり、ここで、電気屋からの脱線が決定的となっ た。

ふりかえってみると波乱の時代に生きて活動しているうちに、いつの間にか電気から脱線していたということになる。結局、その後も経済が本職となってしまったが、 今でも工学部の教育を受けたことが、その時の仕事に大いに役立ったと感じている。こと実証的なものの考え方は技術者の強来である。まだ回想録を書く年頃ではないが、筆のおもむくままに私事にわたり過去を記すことになったことを読者諸兄ならびに同窓会幹事諸先生に深く御詑びしつつ筆をおく。

(昭和12年卒 日本経済研究センター理事長)

<12号 昭43(1968)>

【12号】アメリカ人との会話から/黒川兼行

同窓会報に寄稿するようにとの御依頼を受け、頂いた随想欄目次を拝見致しました所、第1号から第11号迄、すでに功なり名遂げた大先生、大先輩の御執筆ばかりであることを知り、どうしたらよいのか解りません 多分通算して7年間も遠い外国に住み世界各国からやってくる技術者の間に混ってどうにかこうにか生 きているらしい奴の随想も又一興との思召しかと拝察して筆を取らして頂きます。しかし筆を 取っても適当な話題を持合せているわけではありませんから、アメリカ人と食事を共にした時 の差障りのない話題でも想像しながら書いて参りませう。

作今の日本の目覚しい発展ぶりには多くの外国人が驚異の目を見張っておりますが、食事の時よく何故だろうと質問されます そんな時次のように答えることにしております。百年位前 に施行された義務教育制の成果が少しづつ表われてきた結果でせうと戦前は紡績工業が、戦後はエレクトロニクス、光学機器が日本の花形 産業のように言われていますが、いづれも多くの熟練工、若い女工さん等の力に支えられた産業であると言って差支えないように思われます。そうしてこういう難しい産業を支えられる 優秀な工員さん等を多数作り出した日本の底力というものは義務教育によって培われたと申上 げたら間違っておりませうか。つまり智識人と呼ばれる少数の人々を除いた残りの平均値が他の国の同程度の人々の平均値に比較して圧倒的に高いという所に差異を見出すわけでございま す。読み書きが、小説等を読んで楽しめる程自 由に出来るということは日本人にとって当り前のことですが、他国ではどうもそうではないような気が致します。先進国の代表のように言われるアメリカですら上のような平均値の取り方をすると日本より大分落ちるのではないでせうか。新聞の発行部数を比べたり、町を歩いて本屋さんの数を数えてみるとよく解るような気が 致します。日本の小学生の算数の学力が他国の同年配の子供さんに比べて非常に高かったということが昨年でしたかテストの結果明らかにされましたが、これ等も上の平均値の考え方を支持しているように思われます。こんな風に説明 すると次の質問はそういう工員さん等を低賃金で使っているのだろうという事になります。ドルに換算すれば確かにそうですが、日本の給与体系がアメリカのそれと全く異っていますから 必ずしも低賃金にならないのだということを説明しなければなりません。そうして最後にアメ リカのある会社が日本の安い労働力を使って稼ぎまくらうと、厚生施設の費用、その他を入れて計算した所とても採算に合わないことがはっきりしてあきらめたというタイムに出ていた本当か嘘か解らない話を引用することにしています。そうすると私自身もなんとなく納得するような気持になりますし、相手も鋒先きを収めてくれます。

次に話題は家族のことに移ります。私には女の子が二人あって共に私立の学校にやっている のだというと大抵のアメリカ人はびっくりしてしまいます。というのは公立学校の費用一切が税金でまかなわれ、私立に子弟を送るのは教育費の二重払いに相当して大変な贅沢と考えられ ているからです。そこで又長い説明をしなけれ ばならなくなりますが、簡単に言えば恥ずかしくない礼儀作法を身につけさせようとの考えからです。例えばスープを飲む時音を立てないということは私も小さい時から教わっておりましたが、お茶を飲む時も、水気の多い果物等を食べる際も絶対に音、つまりSucking Noiseを 立ててはいけないのだということは、大学を卒業する頃アメリカ人の子供に指摘されるまで存じませんでした。大人はこういうことを決して 指摘してくれませんし、こんなことはあまりに当然なことで礼儀作法の本を見ても書いてあり ません。そこてこの外知らずに過ごしてしまっていることが沢山ある筈で、小人数のクラスで 教育を受けさせれば先生の監督も行屈いて自然にこういうことも習得出来るだらうと考えられ ます。大きい方の子供の話ですと、言葉使い等 も私立の先生方は直して下さっているようです。こういうことは大きくなって余裕が出来てもその時訓練の仕直しが出来るというものでないことを説明致しますと安月給なのに大変だらうというような顔をしながら納得してくれま す。

家では何語を使っているのかということもよく質問されることです。日本に帰った時のことを考えて家では専ら日本語を使うようにしておりますし、子供等には夕食後テレビを見る前に必ずノートー頁分日本語を書かせるようにしております。そんなに努力していても私達の日本語に対する答はよく英語で返ってきてしまいます。あんまり私の英語が下手なせいか、その次の質問で、お前は日本語で考えるのか、英語を使っているのか等と言われます。私自身、研究所にいる時はどうも英語で物を考えているらし く日本語のお電話を頂くととまどってしまいます。更にこちらでお電話を頂いたり、お目にかかる日本の方々は凡て偉い方々ばかりですので 敬語を使わなければならないことに大変な苦労を致します。そうしてそういう難しい日本語を使った後はしばらく英語が出なくなってしまう のにも全く困ってしまいます。自宅に帰りますとその逆で英語の電話を受けると普通以上にしどろもどろになってしまいます。こんなに困まる語学ではありますが、稀には面白いこともないわけではありません。私の属する部門で数日前、他部門からスベイン語の公文を受取り、止むを得ずスベイン語の解る人に訳してもらったらしいのですが、返事を日本語で書こうということになり、短い英文でしたが日本語に訳して、もう一度英語にして日本訳の正しいことを 確認、その日本語の手紙に送り返しました。今頃、相手方はねじり八巻きでその日本語を英語に訳していることでせう。

(昭和26年Ⅱ卒 ベル電話研究所勤務)

<12号 昭43(1968)>

【13号】我が国の製鉄の発展と電気・電子技術/野坂康雄

同窓会名簿を見ると当然のことながら、卒業 生の就職先は機器製造と電気事業関係が圧倒的 に多く、電気応用分野の製造工業にはごく少いことがわかります。特に戦前は重化学に見られるだけで、製鉄には極めて稀でした。ところが戦後は、進んで製鉄を志望される卒業生が増加し、様子は一変しました。これは製鉄にとって 電気の重要性が従来より大幅に増大したことを物語っています。今日の製鉄における電気技術の発展の端緒は戦時中政府の要請により西、大山両先生のご発案にかかる製鉄電気協力班の活動にはじまったもので、当時を顧みると全く今昔の感があります。今回この紙面を与えられましたので、あまり知られていない製鉄における電気応用の現状をご紹介致します。

鉄を作る(正確には鋼材を作る)技術は溶解、精錬、圧延などの冶金技術が基調で、技術そのものは電気とは縁遠いのですが、電気技術をうまく利用することによって生産効率、品質を上げ、労働関係の改善をするなど大きな効果がもたらされます。もちろん以前から電動力応用や自家発電で電気技術は重要でありましたが、どちらかといえば鉄鋼製造技術とはある境界を作っていました。それに比較すると現在では種々な面で電気は製鉄の中に深く浸透し、独立した専門技術ではなくなりました。

製鉄における電気・電子技術の応用は大別して電気機械、電力、制御、計算機などです。電気機械の代表は圧延用電動機で、種々の必要から直流機が多く、一部では同期機が使われています。容量も圧延機が大型になるに伴いつぎつぎに記録品が現われ、分塊や厚板圧延では1万 kW級が普通になりました。またごく最近では 従来のイルグナ方式の電源に代ってサイリスタの採用が目立ち、半導体電子機器が強電機器の仲間入りをしました。実例ではホットストリッ プミルの仕上圧延で総出力6万kW級のサイリスタ駆動の電動機群があります。また高炉送 風機用37,000 KVAの同期電動機も作られました。

製鉄業は別名運搬業ともいわれ、コンベア、起重機等多数の荷役機械が稼動しており、駆動 用各種電動機の数はおびただしいものです。その他ブロワ、コンプレッサ、ポンプ、圧延用補 機等をあわせると、製鉄はまさに電動力応用のデパートです。しかもこれらは24時間連続運転ですから、電気技術者の責任は極めて重要です。

精錬用の電気炉も大容量の負荷です。電気炉は特殊鋼製造の面で小廻りがきくことから、年々増加しており、また一方最近開発されたUHP操業は能率が高く、将来は転炉を凌駕して普通鋼の分野にも進出するとさえいわれています。その時は10万KVAクラスが必要となりましょう。

このような負荷の使用電力は莫大で、最新の 一貫工場(粗鋼年産500万トン)では平均20 万kWが必要です。量ばかりでなく、負荷の性質上短時間ビークがはげしく、電力使用上多くの問題があります。特に系統に与える影響については十分対策を考える必要があり、さらに 電カコストを下げ、合理的な運営と地域電力会社との密接な協力を行うことは電気技術者の大切な任務です。これまでは港と水が製鉄工場のおもな立地条件でしたが、今後は電力も重要な要素として加わります。電力は買電のほか高炉の副産ガスによる自家発生も多量で、この電力と他のエネルギ潮流(ガス、蒸汽、酸素、水) は操業と一体になっています。従って常にこの 需給バランスを最適状態にするため、エネルギセンタによる監視や計算機による予測制御が行われます。また最近は高炉ガス利用の共同火力も建設され、料金と公害防止の両面で効果を上げました。また将来は料金が下れば電気製銑も可能とされ、原子力の利用も夢ではなさそうで 製鉄設備のように大型なものの運転は自動化なしには出来なくなりました。製鉄における制御は最初は電気制御とプロセス制御(炉の燃焼 制御など)とが別個に導入されました。しかしその後応用範囲の拡大と技術者の能力活用の両面から次第に境界がなくなって、今では制御技術という重要な部門になりました。最近では自動化の効果もはっきり認識され、ほとんど大部分の設備に自動制御は不可欠となり、それに従って制御システムの発達はめざましく、同時にシステムは高性能で複雑になりました。サイリスタ制御の圧廷機などでも1万kWの電動機 が小さな電子部品のために停止することも起り、ここでは強電と弱電は混然一体となって全 機能を遂行せねばなりません。従ってこの場合 制御技術者は電気・電子両面に精通した幅の広い人であることが必要です。

制御の目的は従来はある条件(電圧、速度、 温度など)をおさえることにありました。しかしこれだけでは成品の品質を直接制御することができず、このために考えられたのが計算制御です、例えば転炉の適中制御、ホットストリップミルの自動圧延がそれで、新設備では例外なく取り付けられています 計算制御システムを作ることはかなり高級な技術と長期間を要し、しかも前提として対象プロセスの解明が必要です。これには電気のみならず鉄鋼製造技術者との密接なチームワークで智恵を出し合うことが 必要です。私達は諸先生から回路網理論で苦い汁を飲まされたおかげか物事をシステマティックにとらえることは大変上手で、この仕事にはうってつけだと重宝がられています。将来は計算制御による全工場の自動運転も考えられ、今後とも制御システムの発展は大きな期待がもた れています。我々は制御技術を通じて電気技術の価値を改めて認識し、将来のあるべき姿に対しても確信がもてるようになりました。

計算制御は自動運転の手段として高く評価さ れて操業上不可欠になった反面、システムの信頼性が生産性を左右することになり、その責任も当然我々の上にかかって来ました。ここに計算制御ないしは、計算機関連の諸問題があります。計算制御はオンラインリアルタイムであるため、一般の計算機利用に比較してはるかに面倒で、多くの場合システム作りはユーザー側の仕事になっているのが実情で、ここに電気・電子技術の存在が大きくクローズアップされています。 計算機にはソフウェアのいう厄介なものがあり、ハードウェアとは不離のもので、これも我々の責任分野です。

制御システム構成要素として各種のマイナループ系、工業計測、非破壊検査がありますが、これらの信頼度と正確さについては問題が多く、しばしばシステム性能上のネックになっています。これらの開発のためにも電気、電子技術者の活躍が望まれます。

日本の製鉄は量、質ともに世界第一流となりましたが、今後の競走は愈々はげしく、内容も一層キメこまかいものになることは必定で、それに伴って電気、電子技術の重要性はますます 増大すると思います。さいわい八幡製鉄をはじ め大手鉄鋼各社には、同窓の卒業だけでも約 40名が活躍して居ります。今後とも皆様のご支援とご協力をお願い致します。

(昭和18年卒 八幡製鉄(株))

<13号 昭44(1969)>

【13号】古都ウィーンにて/戸谷深造

早いもので、ウィーン着任以来もうすぐ一年 になります。昨年の今頃、着任の夜に早速ウィーンの名所の一つである「グリンチング」なる所に出かけ、新緑の木蔭で、数名の音楽士の演ずるラィーンの歌などをききながら「ホイリ ゲ」(ブドー酒の新酒)をジョッキで傾けたときには「こいつは、こたえられない」と思ったものでした。然しだんだんと忙しくなり、最近は「宝の山に入りながら」の感があります。ウィーンといえば、日本にいたころはオーストリアという国名が浮ばず、モーツアルトとか ヨハン・シュトラウスの名が頭に浮んだものですが、仕事で駐在となりますと、オーストリアという国が問題となりますし、またウィーンという土地柄上、ジェトロのセンターとして東欧諸国のマーケットをカバーしてゆかねばなりませんので、これらの国々の知識も必要となり、ホイリデばかり楽しんでおれないのは、やむをえません。

3年半にわたる通産省電子工業課長の任期中、情報処理だ、ICだと、さんざん各方面からつきあげられ、ウィーン赴任の辞令をもらったときには、真実ホッとすると同時に、一時にタガがゆるんだ気がしましたが、この静かなウィーンで、大分元気を回復してきました。まだ一年程度で欧州のことなど書けませんので今迄は、お話しを皆固辞してきましたところ、今回突然に幹事先生から、有無をいわせぬ、且つごてい重なる依頼をうけ、また同時に同級の尾上教授からも手紙が届くという見事なアレンジに敬服し筆をとることになりました。

ウィーンはまさに古都という感じで各所に歴史的な建物が保存されております。ヨーロッパ に名をとどろかせたハプスブルク王朝の居城のある都市であり、第一次大戦迄、オーストリー、ハンガリー帝国の首都としての規模をもつ重厚な感じがあります。ハプスブルク王朝の美術品などを陳列してある、歴史美術博物館にはルーベンス、ブリューゲルなどの多くの名画が並び、宝物としては黄金で出来た、マリアテレジアの朝食用食器類一式とか、同じく黄金製朝の洗顔用器一式などが並んでおり、先日強気をもってなる、成蹊大の和田教授が来られたとき、さすがの先生がグウのねもでなかったことで、ご想像がつこうというものです。

この国が二回にわたる世界大戦で敗戦国となり、極度に領土が狭まり、また特に第二次大戦の敗戦の結果、4カ国軍事管理という重圧から、東西の中立国としての性格を打出すことにより、漸く独立国として再出発することは出来たにせよ、既に昔日のおもかげはなく、古都という感じを受けるのは、やむを得ないことでしょう。経済的な意味からは、「静かに西に沈みゆく、夕日のごとき」感じがないわけではありませんが、一方東西両陣営の中立地点という意義は大きく、東西問題に関係の深い原子力については、ウィーンに国際機構があり、また同様に宇宙開発などの問題も、ウィーンで国際会議がもたれます。これらの会議のたびに、先輩などがお訪ね頂けるのも当地の喜びの一つで、先 日は高木昇先生が日本代表として来られ、久し振りの歓談の機会を得ました。

この国の一つの努力目標としては更に国際機関を誘置することといわれていますが、これは古都ウィーンに活を入れることと同時に、万が一の場合両陣営からの攻撃が避けられるという意味もあるようです。昨年のチェコ侵入のときは、ウィーンの人々は人ごとでなく心配しました。これはチェコ 国境から数十分でウィーンに到着出来るという点だけでなく、きっすいのウィーン人とは、ボヘミア(今のチェコ)人と、ゲルマン人の両親 のもとに生まれて、ウィーンに住みついてから3代たった家系の人であるといわれる程、密接な関係にあるからです。チェコと同様に、ハン ガリー、ユーゴースラビアなどとも国境を接しており、各国首都には、ここから飛行機で、一時間で行けます。東西の中立点で且つ交通上から東欧に行くのに便利ということで、各国の東欧マーケットを指向する企業がウィーンに来ています。日本でも商社は7社現在おりますが、皆ウィーンは拠点として使われているようです し、米国の大企業も当地に静かに拠点をきずいています。

わが国では東欧という言葉で一括され、鉄のカーテンのむこう側という風に考えられていますが、二度の大戦の発火点になるだけの複雑な歴史的背景があり、また各国ごとの異った性格 があります。特にチェコ事件を頂点とする新経済システムの導入の動きは、着々と進行しており、東西の経済上の交流は増加の傾向にあります。特に最近は、品質の向上、技術開発の必要が叫ばれ、積極的な技術導入が計られています。従って大規模プラント物とか、電子計算機類とか、他の地域では、なかなか輸出しにくいものが、 この地域には輸出されており、西欧各 国は東西貿易に非常に積極的です。ある人は、 米国が政治的に輸出しづらい地域であるし、欧州に進出した米国企業の活動から受けた痛手を、東欧で挽回すべく努力しているともいわれ ます。わが国も、あまりにも遠く、あまりにも歴史的に疎遠であったので、従来迄の取引は大きくなかったわけですが、残された、有望なる工業製品のマーケットとして今後開拓に努力しようというわけで、当地に派遣されてきたわけですが、あと二年ばかり、じっくり勉強し、何らかのお役にたちたいと考えているわけです。

(昭和22年Ⅱ卒 ウィーン日本貿易振興会事務所長)

<13号 昭44(1969)>

【14号】日本経済の成長力/鹿野義堆

日本経済は、昭和40年の不況によって、いよいよその成長路線にも屈折が生じ、成長のテンポもややにぶるのではないかと思われたが、多くの人々の予想を裏切って、不況からの回復後は年平均の実質成長率が13%をこえ、しかも今までになく長期にわたって持続しているのである。

「山高ければ谷深し」のたとえがある通り、山を下りだすと40年のような深刻な不況に再び襲われるのではないかとの一抹の不安がないでもないが、 このところのあまりにも、順調な経済発展には、正直にいって私共もいささか不思議な気持がする。

この不思議な日本経済の成長力の根源はなんであり、それは今後どのように変化するであろうかについては、既に多くの経済学者や官庁エコノミスト達によって論議され、書物にもなっているのであるが、私なりに日頃考え、且つ感じているところを述べてみたい。

ごく端的にいって、経済の成長は、労働力の増加と労働生産性の向上によって、もたらされるものである。戦終後、街にあふれていた失業者や闇商人の労働力化が復興期の成長の原動力であったが、その後は農家の次・三男が二次三次産業に転出し、更に昭和40年前後は、戦後のベビー・ブームの労働力化する時期に遭遇して、若年労働力にも比較的にめぐまれて、現在に至ったのである。最近の10年間では、労働力の増加が年平均2%程度日本経済の成長を支えてきたものと考えられる。しかし、70年代にはいってからの労働力は一変して本格的な不足状態におちいり、年率1%程度の増加がやっとであると推計される。しかも、そのうちのかなりの部分を女子中高年令層の人々の労働力に期待せざるを得ないのである。外国からの労務者を入れてはどうかとの意見もあり、一部の産業では真剣になって考えているようである だが私は、労働力と資源を求めて、わが国の企業が海外に進出する方が先であると思う。

次に、労働生産性の向上については、これを資本装備率と技術水準の向上に分割して考えられる。最近の10年間の生産性向上は、年平均約9%であるが、試算してみると、大づかみにいって、資本によるものが4%、技術によるものが5%とみなすことができるようである。資本装備率の向上は、専ら企業の設備投資によるものであるが、企業家の投資意欲とその資金的な裏付けをなす国民の貯蓄心によって支えられている。今後も、わが国経済に競争原理が有効に働く限り、企業家の投資意欲が衰えるとは思えないが、貯蓄心の方はいささか心配である。

最近は、カラーテレビだ、マイカーだというように派手な消費生活が展開され、昭和元禄とまで言われるが、国民の貯蓄は現在のところ意外に旺盛で、個人の貯蓄性向は19%をこえ世界の最高であり、一向に下降傾向を示さない。しかし、これは貯蓄心が旺盛であるからというよりも、所得向上の速度に消費の伸びが追いつかないために、所得のかなりの部分が貯蓄に廻つているとみられるので、成長がスローダウンしはじめるとどのようになるか問題である。

さて、技術水準の向上については、これまでは海外からの技術導入によって支えられていたのであるが、今や内外の技術格差も縮少して来ており、それに多くを期待できない。また、自主技術開発のための研究投資も諸外国に比較して少ないので、どれだけ自力で技術水準の向上が可能であろうか疑問であるといった声が高い。しかし、日本人の技術革新意欲は決して衷えていないし、これからも設備投資が活発におこなわれる限り、常に技術向上が付随するものであること。更に中小企業や農業の分野に、高い水準の技術が普及する余地がなお非常に大きいことなどを考えると、まだまだ当分は技術水準の向上による経済成長は続くと思われる。

また成長力の将来を考える場合、より本質的な問題は国民の勤労意欲の問題であると思う。労働力の増加が衰える上に、労働時間が短縮され、週休二日制にともなるとその影響は決して小きなものではあるまい。若者は大いにレジャーを活用するであろうが、次第に残業をも拒否するであろう。そして社会保障制度の充実とともに、老人も働くことをやめるといった傾向が今後強まってこないとはだれも保証できない。「日本人は一体何を目的にこんなに働くのであろう」という英国人の疑問がおのずから解消してしまうかも知れない。

最後に、成長力の最も基本的な問題として教育の問題がある。わが国には、明治の初めに設けられた小学校の数が、現在の小学校の数に近いほどあり、そのまた前の寺子屋の数が小学校の数ほどあったと聞いて、わが国の成長ポテンシャルは、すでにそのころより高められて来たのであろうと思う。そしてまた、戦後の6・3制や、大学教育の普及は、たとえ駅弁大学であるとの批判はあるにしても、高等致育を受けた多数の人的資源を供給したことで、戦後の成長力を一段と高めたものと考える。しかもわが国の教育制度がまことに自由競争であって、常に社会の指導者の血が新しく入れ替わっているというところに、日本経済の成長力の根源である民族のバイタリテイが常に養成されてきたものと考えられるものである。

いずれにしても、日本経済は70年代においても、実質で10%程度の成長を可能にする力は充分に持っているものと考える。ただ問題は、果たして物価が安定するかどうか、また自然の美しさが破壊され、国民が公害にますます苦しめられるというようなことにならないかどうかである。

(昭和16年卒 経済企画庁事務次官)

<14号 昭45(1970)>

【14号】電子交換/山内正弥

昨年10月のPOEE誌上に英国郵政庁のMr.J.S.Whiteの「来たるべき30年間における電気通信」という論文がのっているが、その中で彼は次の世代をコンヒュータ、コントロール、コミュニケーションという3Cを中心とする情報化社会と定義した上、その3Cの頂点に立つもの、つまりコンビュータと制御機械と通信機との三位一体の装置として、 プログラム制御の電子交換機をあげている。

交換機は電話機の発明にきびすを接して、作り出されたもので、その歴史は古いけれど今までは単に通話接続のための道具として、専門家の間でしか関心が持たれなかった。しかし、今それは巨大な変化をとげ、情報革命のにない手として、その姿をあらわそうとしているのである。

電子交換研究の歴史は案外古く、わが国でも第二次大戦前の昭和14年頃、逓信省工務局で行なわれた記録があり、また同じ頃、米国でも電子交換に関する最初の特許が公告されている。しかし当時使用しうる電子部品の主力は熱電子管であり、電力消費量の増加、発熱量の増大、スペースの膨張等、どの点からみても在来のスイッチやリレーを中心とする電磁形交換機のメリットに太刀打ちできなかった。

昭和25年、 トランジスタが発明され、わが国でもパラメトロン等の固体電子部品が次々と発明されるにいたって、これらを用いて電子交換機を作ろうという機運が、ふたたび盛り上って来た(一説によれば、 トランジスタの発明自体、当初は電子交換部品を狙って作られたものたといわれている)。

だがこの時代になっても、研究の方向は単に交換機の機械部品を電子部品に置き替えようということのみにとらわれていたため、交換機の機能という面からみると、ほとんど飛躍のないもので、スベースの減少とか、ほこりによる障害の絶滅とかいう程度のメリットがあげられるだけで、既存交換機の優位性を覆がえす程に魅力のあるものではなかった。

これらはワイヤードロジック方式といわれるもので、当時わが国やヨーロッパ諸国で研究、発表された方式はすべてこの範ちゅうに属する。昭和35年、米国ベル研究所がモリス局で現場試験を行なった方式は、これらと全く異なった原理に立つものであった。すなわち、交換機を厳密に通話路部と制御部に分離し、制御部に蓄積プログラム技術を適用して交換機のコンピュータ化をはかったもので、その上、数万の加入者の接続動作を時分割的に行なう、いわゆるTSS技術や40年間の寿命を保証する信頼性技術等の点では、むしろ当時の最新のコンピュータ技術をも抜いたものであった。

ベル研はその後商用局用としてESS1号を実用化したが、その通話路にはフェリードスイッチのように機械的部品を用い、電子化という点では一歩後退したような感じであるが、 プログラム制御という基本線を更に押し進めて来たるべき情報化社会に備えようという意図は充分につらぬかれており、今日の電子交換機の標準となった。では在来形交換機とプログラム制御交換機とは本質的に何かちがうのかというと、今後に予想される新しいサービスの要求に対し、前者はハードウエアの改造、変化によって対処するのに対し、後者はプログラムの変更によって対応しうるという点である。

たとえばなしになって恐縮だが、在来形交換機は一般の動物のようなもので、寒くなると体毛が生え、暑くなるとそれが抜け変るといった方式で環境の変化に対応する。しかしこのような手段による適応には限度があり、外部条件が急激に、あるいは過度に変化すると死滅してしまう。一方人間はこのような環境の変化に対して家を造り、着物を着、火をたくといった方法、つまり自分自身は変化せず頭脳の所産である道具を使いわけることによって対処する。

電子交換機の外部条件に対する適応のしかたは、ちょうどこの人間の適応のしかたと似ており、ハードウエアはそのままで、ソフトウエアの変更のみによって次々と新しいサービスを提供していくのである。

1970年代は激動の時代だといわれているが、電気通信の分野における変動も飛躍的なものとなるであろう。思いつくままにあげてみても、テレビ電話を中心とする画像通信の出現は必至であり、異速度異符号の各種データ端末の相互接続も必要である。

これらをセンタコンピュータに結んで、すべての端末が、中央の巨大な情報網を自由に利用しうるようになるであろうし、さらにはテレコントロールとよばれる通信回線を介しての制御技術も進むであろう。これらの各種の要求に対し、フレキシブルに対応し、もっとも経済的に実現させるものこそが電子交換機なのである。

昨年12月18日、電々公社が中心となり日本電気、沖電気、富士通、 日立製作所の4社と協同研究を続けてきた電子交換機DEX2号が、はじめて東京牛込局で現場試験に入った。本年8月にはこの改良形が霞が関局に搬入される予定であり、引き続き商用試験計画も進められている。新しく誕生するこの新交換機に対する暖かい御理解をお願いしたい。

(昭和20年9月卒 日本電信電話公社通信研究所交換研究部長)

<14号 昭45(1970)>

【15号】大学改革について/尾佐竹徇

会員諸兄御承知の、通称「安田講堂事件」か ら、もう満2年以上が過ぎ、久方ぶりに本郷を訪ねられる方々は、相変らず立並ぶ「タテカン」 を御覧になると「まだやっているのですね」という感想を持たれる方もあり、また、一方では 「案外静かですね」という感想を持たれる方もある。電気・電子工学科の学生はよく勉強もす るし、出席率もよい。しかし、また中には私の 講義の中の雑談だけを、ことこまかく筆記して編集しなおし、大きな「立カン」に書き銀杏並 木に出す学生もいるのが現状である。

同窓諸兄も、大学粉争と大学改革についての御関心を持っておられるかと思われるのでここ でごく簡単に経過を御紹介することにする。

先ず3年前ストライキたけなわの頃の1968 年12月2日に現総長が総長代行に就任後「学生諸君への提案」の中で大学改革委員会の設置 を提案し、今後学生と一緒になってよりよい大 学にしてゆこうではないかと呼びかけをおこなった。その具体的な動きとして明くる1969年 1月に教官のみによる大学改革準備調査会が発 足し10月に莫大な第1次報告書が作られ、大学紛争の原因分析、今後の大学改革として考えるべき点についての報告が出来上った。

その間に1月10日に神宮ラグビー場におけ る、いわゆる「確認書」が取かわされ、 1月18 日に安田講堂事件となり、その後2ヵ月くらいの間に各学部のストライキが解除された。工学 部のストライキの解除に当っては電気・電子工 学科の学生は実によく働き、その推進力となっ ていた。

加藤総長の大学改革に対する構想は、教官側、 学生側、職員側でそれぞれの大学改革委員会を作り、その全体をまとめる大学改革委員会を作ってゆくというものであった。

その後、学生側、職員側の改革委員会は一向に動き出さず、また総長交渉と称していてもな かなか大学改革の話題には乗らなかった 教官側は昨年1月に、大学改革委員会(教官) という名称で、総長の諮問機関として正式に発 足した。この委員会は10の学部と13の研究所から各1名の23名の委員と、総長指名の4 名の委員で発足し、委員長に向坊教授(工)、副委員長に大内教授(経)が選出され、大内教授 外国出張になり、現在植村教授(理)が副委員 長になっている。この委員会は、大学改革を具 体的に実行する案の作成を主たる任務として今 日迄に40回の本委員会とより多くの専門グループ会議を持って案作りを行っている。

そこで販上げた問題は、大学のいくつかの基本理念のうちどれを取上げるべきか、改革の具 体的進め方について、学生および職員の意見を どのように反映させるか、また参加させるか、 さらに具体的に総長選挙はどうやるか、研究教育体制として学部、学科のあり方、カルキュラ ムの組み方、学生の選択の範囲、また、学内の 諸規則、学生ストライキ、学内の政治活動をどう考えるか、また教官の自己規律としての任用、 審査、停年をどうするか、大学の管理・運営体 制、などの諸問題を検討しており、大体4月末に一応の素案を提示する手順で進んでいる。

これらの検討の途中で浮び上って来た点は、 東京大学があまりにもマンモスであることで、 各学部の間、各研究所相互の間にあまりにも量 と内容に差が大きいことであり、たとえば、あ る学部は、教官、学生数ともにわれわれの電気・ 電子工学科に近い学部もあり、また研究所も1 つの学科に付属したものと考えても良いものから、ロケットを打上げる大部隊を持っている所もあり、また共同利用研究所という本学の教官と他大学の教官とが同居しているところもあるといった次第である。

さらに学生と教官との関係についても大差があり、建物の管理、研究室の管理の責任者が名目と実質とがあまりにも違っているなどなど、永年つみ重ねられた問題点があまりにも多いのが現状である。

次に基本的な問題としては、現在の学生の間には、自分達が参加して決めたものでないもの以外は、何事も承服しないという気分があるいわゆる「一方的な押しつけ反対」というのである。その上に、世界観、人生観が多様であって、その間をお互に仲良くやろうという考え方が少く、各種のグループが分立している。

また職員組合にほとんど加入していない部局もあり、また助教授まで加入している部局もある。その上に大学の自治、学問の自由を守ることは大学の基本問題という認識があるので、大 学改革といっても、なかなかまとめにくい。しかし、すこしづつ方向づけが出来つつあるというのが現状であるといえる。

いづれにしても、電気・電子工学科は教官一同一致団結しておりますので、その意味では同窓諸兄に御安心願えるかと思っております。「和を以て貴となす」という額の精神が生きておりますことを一言付記して筆をおくことと致します。(昭和16年3月卒、東京大学教授、大学改革委(教官)工学部委員)

<15号 昭46(1971)>