【13号】古都ウィーンにて/戸谷深造

早いもので、ウィーン着任以来もうすぐ一年 になります。昨年の今頃、着任の夜に早速ウィーンの名所の一つである「グリンチング」なる所に出かけ、新緑の木蔭で、数名の音楽士の演ずるラィーンの歌などをききながら「ホイリ ゲ」(ブドー酒の新酒)をジョッキで傾けたときには「こいつは、こたえられない」と思ったものでした。然しだんだんと忙しくなり、最近は「宝の山に入りながら」の感があります。ウィーンといえば、日本にいたころはオーストリアという国名が浮ばず、モーツアルトとか ヨハン・シュトラウスの名が頭に浮んだものですが、仕事で駐在となりますと、オーストリアという国が問題となりますし、またウィーンという土地柄上、ジェトロのセンターとして東欧諸国のマーケットをカバーしてゆかねばなりませんので、これらの国々の知識も必要となり、ホイリデばかり楽しんでおれないのは、やむをえません。

3年半にわたる通産省電子工業課長の任期中、情報処理だ、ICだと、さんざん各方面からつきあげられ、ウィーン赴任の辞令をもらったときには、真実ホッとすると同時に、一時にタガがゆるんだ気がしましたが、この静かなウィーンで、大分元気を回復してきました。まだ一年程度で欧州のことなど書けませんので今迄は、お話しを皆固辞してきましたところ、今回突然に幹事先生から、有無をいわせぬ、且つごてい重なる依頼をうけ、また同時に同級の尾上教授からも手紙が届くという見事なアレンジに敬服し筆をとることになりました。

ウィーンはまさに古都という感じで各所に歴史的な建物が保存されております。ヨーロッパ に名をとどろかせたハプスブルク王朝の居城のある都市であり、第一次大戦迄、オーストリー、ハンガリー帝国の首都としての規模をもつ重厚な感じがあります。ハプスブルク王朝の美術品などを陳列してある、歴史美術博物館にはルーベンス、ブリューゲルなどの多くの名画が並び、宝物としては黄金で出来た、マリアテレジアの朝食用食器類一式とか、同じく黄金製朝の洗顔用器一式などが並んでおり、先日強気をもってなる、成蹊大の和田教授が来られたとき、さすがの先生がグウのねもでなかったことで、ご想像がつこうというものです。

この国が二回にわたる世界大戦で敗戦国となり、極度に領土が狭まり、また特に第二次大戦の敗戦の結果、4カ国軍事管理という重圧から、東西の中立国としての性格を打出すことにより、漸く独立国として再出発することは出来たにせよ、既に昔日のおもかげはなく、古都という感じを受けるのは、やむを得ないことでしょう。経済的な意味からは、「静かに西に沈みゆく、夕日のごとき」感じがないわけではありませんが、一方東西両陣営の中立地点という意義は大きく、東西問題に関係の深い原子力については、ウィーンに国際機構があり、また同様に宇宙開発などの問題も、ウィーンで国際会議がもたれます。これらの会議のたびに、先輩などがお訪ね頂けるのも当地の喜びの一つで、先 日は高木昇先生が日本代表として来られ、久し振りの歓談の機会を得ました。

この国の一つの努力目標としては更に国際機関を誘置することといわれていますが、これは古都ウィーンに活を入れることと同時に、万が一の場合両陣営からの攻撃が避けられるという意味もあるようです。昨年のチェコ侵入のときは、ウィーンの人々は人ごとでなく心配しました。これはチェコ 国境から数十分でウィーンに到着出来るという点だけでなく、きっすいのウィーン人とは、ボヘミア(今のチェコ)人と、ゲルマン人の両親 のもとに生まれて、ウィーンに住みついてから3代たった家系の人であるといわれる程、密接な関係にあるからです。チェコと同様に、ハン ガリー、ユーゴースラビアなどとも国境を接しており、各国首都には、ここから飛行機で、一時間で行けます。東西の中立点で且つ交通上から東欧に行くのに便利ということで、各国の東欧マーケットを指向する企業がウィーンに来ています。日本でも商社は7社現在おりますが、皆ウィーンは拠点として使われているようです し、米国の大企業も当地に静かに拠点をきずいています。

わが国では東欧という言葉で一括され、鉄のカーテンのむこう側という風に考えられていますが、二度の大戦の発火点になるだけの複雑な歴史的背景があり、また各国ごとの異った性格 があります。特にチェコ事件を頂点とする新経済システムの導入の動きは、着々と進行しており、東西の経済上の交流は増加の傾向にあります。特に最近は、品質の向上、技術開発の必要が叫ばれ、積極的な技術導入が計られています。従って大規模プラント物とか、電子計算機類とか、他の地域では、なかなか輸出しにくいものが、 この地域には輸出されており、西欧各 国は東西貿易に非常に積極的です。ある人は、 米国が政治的に輸出しづらい地域であるし、欧州に進出した米国企業の活動から受けた痛手を、東欧で挽回すべく努力しているともいわれ ます。わが国も、あまりにも遠く、あまりにも歴史的に疎遠であったので、従来迄の取引は大きくなかったわけですが、残された、有望なる工業製品のマーケットとして今後開拓に努力しようというわけで、当地に派遣されてきたわけですが、あと二年ばかり、じっくり勉強し、何らかのお役にたちたいと考えているわけです。

(昭和22年Ⅱ卒 ウィーン日本貿易振興会事務所長)

<13号 昭44(1969)>

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