【10号】同窓諸君に望む/渋沢元治
「捕雷役電」という額が東大電気工学科の会 議室に掲げられている。これは私の書斎にあったものを過ぐる大戦の 際戦災焼失を恐れて大学に寄贈したものであ る。その謂れについて同窓生諸君にも知って頂 きたいのでここに御話する。
私は昭和12年であったか、ある雑誌社から「書斎漫談」と題して乞わるるままに随筆を書 いたからそれをここに再録する。
『私は電気工学を学んだ者であるが、書斎に 籠って万巻の書を繙くとか、数千頁もある大著 述をするよりは実際方面への応用を主としてき たから書斎にあっては先人の研究した基礎現象 に関する著書や論文を味いまたは新刊学術雑誌 で最近の世界に起こった実例を調べて自分が解 決せんとしつつある問題に対し何等かの暗示を 得んとするのである。だから書斎は市中の雑音 と家庭の面倒から離れた静かな所で中へ入れば 自然と気も心も落着きさえすればよいと考えて 設計して貰ったので極めて平几なものである。
ただ私の書斎に一つ変わった額がある。それ は大正2年(今よりは約50余年前)この書斎 を作った時、丁度その前年であったか私が工 学博士の学位を得たので岳父の穂積陳重博士 (東大法学部教授、重遠博士の父君)が自ら「捕 雷役電」という語を選んで当時の彫刻界の大家 蘭台氏に頼んで桜樹の木材に彫刻して貰って祝 いに贈られた額である。(この語の出所につい ては生前穂積老博士に尋ねることを失念した。 恐らくは博士自身の作ならん。)
当時無線電話が数百メートルの間に試験的に 通じたといって世人一般は勿論、学界でも驚異 の眼を以て視、電力の応用も漸く贅沢の域を脱 しかけた位であったのが、現時は無線電話の発 達で全世界人類を一堂に会せしめたるかの感を 起こさしめ、また電気はなくてならぬ生活必需 品となり電力事業は重要なる国策事業の一に数 えらるるに至ったのは実に今昔の感に堪えな い。
かように吾日本国の興隆と歩を揃えて躍進的 に発達した電気界の状況をこの室から眺めてき たのは聖大の余沢とは言いながら実に愉快至極 であった。然しまだ「捕雷役電」を自由勝手にすることは前途遼遠の感があるのは残念でもあるがまた 吾々をして大いに発奮せしむるものがある。』
さて電気界の現時の状況はどうでしようか。 宇宙飛行や電子計算器は目まぐるしい発展を遂 げつつあってマスコミを賑しているが、電力方 面では、送電線の雷害その他で停電に悩ませられている。これは保安という隠れたる任務が軽 視せられているのではないでしようか?
もっともこの捕雷と役電とは分けて考えるべ きではなく、電気の理論を充分に研究して人生 生活に役立たせよとの戒めと解すべきでしょ う。そしてこれは私個人のみでなく広く同窓諸 君にも御披露して共に服膺すべき名言と思って 寄贈したのであります。
「学而思」東京大学電気工学科図書室にこの ような額が掲げられている。これは先年私が教 室の皆さんに乞わるるままに拙筆を敢てしたの であります。これは論語の為政第二篇にある孔 子の語から選んだのであります。即ち故穂積重 遠博士著新訳論語に次の如く説明せられて居り ます。
『子曰学而不レ思則罔思而不レ学則殆 子曰く学びて思わざればすなわち罔し、思い て学ばざればすなわち殆し。
孔子様がおっしゃるよう、「学ぶだけで思わ ないと道理が明かならず、思うだけで学ばな いと行動が危険だ。」 これは学習と思索との伴わざるべからざるこ とを述べたもので、現代の学問、思想にも適 切な名言と思うが、かつて東大法学部の入試 問題としてこの語を読んでの感想をしるせ、 というのを出したことがある。
左翼は「学ビテ思ワザル」もの、右翼は「思 イテ学バザル」もの、というような答案が多 かったがその中に愉快なのが二通あった。 「自分は中学時代は「学ビテ思ワザル」者で あり高校時代は「思イテ学バザル」者であっ たことを悔いる。幸にして大学に入り得たな らば、学びかつ思い、思いかつ学ぼう」 「自分は高校の水泳選手で、初心者をコーチ したが、どうしても泳げるようにならぬ者に 二種類ある。第一種は教える通りに手足を動 かすが、自身に浮こう泳ごうという気のない 者、これは「学ビテ思ワザル」者である。第 二種は浮こう泳ごうとあせってむやみに手足 をバタバタき七ろが少しも教える通りにしな い者、これは「思イテ学バザル」者である。 いずれも水泳が上手になれぬ。あにそれ水泳 のみならんや」』
これは終戦後青少年諸君が実に能く勉強する 即ち「学ぶ」ことは熱心であるが、それについ て考える即ち「思う」ことが少ないと言われる のでこの語を選んだのであります。青年諸君 よ、学んだら必ず考える僻をつけるように致しましょう。
<10号 昭41(1966)>