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【25号】藤岡市助博士の銅像/佐波正一

現在の東芝は、軽電関係をその主要製品としていた東京電気株式会社と、重電を主体としていた芝浦製作所が、昭和14年に合併してできたものであるが、国電川崎駅西にある堀川町工場は東京電気の本拠として、マツダ照明学校やマツダ研究所などと共にその中心的存在であった。この堀川町工場の構内には銅像があって、かつては東海道線の車窓からもフロックコート姿の立像が望見されたそうであるが、惜しいことには戦時中に供出され、その代用品としてコンクリート製の胸像が、僅かに面影を止めていた。これは東京電気株式会社の創始者、藤岡市助博士の像であったのである。

最近、これを銅像として復原することとし、昭和55年10月には完成を見るに至ったが、その工事中の5月のある日、銅象の台座を壊したところ、その中から古びた銅板製の箱が一つでてきた。蓋は厳重にハンダ附けで密封されており、寸法は大体、320X230X80位のものであったが、それを開けてみると、中には更に桐の箱が納められてあり、その中には160ページほどの和紙を綴じた、一冊の文書が入っていた。表紙には「工学博士藤岡市助君寿像建設之由来」と題字が記され、桐箱の中には樟脳が入れてあり、封が完全であったので一部はそのまま残っていたが、桐箱の内側に昇華したものの結晶が附着していたほどである。従って文書の状態は完全に近く、変色もしていなければ虫食いなどは勿論ないもので、これを作成した人々の苦心のあとが偲ばれるものであった。

この建設由来書によると、藤岡博士の銅像は大正3年11月に当時の日本電気協会書記長・河西璞、東京電球製作所・根岸鉄太郎、電気世界社主・三浦覚玄の3氏の発起により、東京電気業組合副頭取・沖馬吉、同理事・青山禄郎の2氏、更には東京帝国大学教授・山川義太郎、浅野応輔の両先生、及び東京電灯株式会社社長・佐竹作太郎、同取締役・中原岩三郎、東京市電気局技師長・児玉隼槌の諸氏が相寄り建設委員会を組織し、当時の学界、電気事業、電機製造業、一般産業界に呼び掛けて各界の錚々たる発起人361名の参加を得、建設趣意書を発表して大正4年4月に寄附金の募集を開始、大正5年10月に竣工したということである。

この趣意書を見ると次の如く記されており、今日の電気事業あるいは製造業の盛況と照らして合昔の感に堪えない。即ち『工学博士藤岡市助君、本邦電気界二於ケル功績ハ縷々絮説ノ要ナカルヘシ、君夙ニ大勢ヲ達観シ電気事業ニ従事シテヨリ正ニ三十年ヲ経タリ、顧フニ現下本邦電気鉄道延長一千哩ノ盛観ハ君力創意二淵源シ、無慮六百万ヲ算スル本邦電灯事業ノ発達ハ君力設計二基因ス、加之君ハ更二自ラ電気機械及白熱電球製造ノ締ヲ開キ電気事務所ヲ設ケテ電設事業ノ範ヲ示シ、斯業界ノ機関トシテ日本電気協会ヲ設立スル等本邦斯業ノ発達ヲ世界的進歩二駢行セツムヘキ一切要素ノ完備ニ犠牲的努カを借シマサリキ……(後略)』とある。発起人の名簿を見ると、電気・電子工学科同窓会名簿の明治13年から、同37年に至る間の卒業生の大部分が網羅されており、その他、当時の実業界の名士多数が名を連ねている。寄附金は個人の場合は原則として5円以下と定められているのも面白い。合計1433口、16,113円41銭が集まったと記されている。

余談であるが、寄稿者の中に明治41年卒業の小生の叔父川戸洲|三の名を金3円也という金額と共に見出したことも興味深かった。この叔父は芝浦製作所に入り、開発担当の発達係という仕事に携わって、米国GE社などにも勉強に行ったことがあるが、大正9年に若くして惜しまれながら世を去ったので、大正8年生れの小生とは言わばすれ違いで、面識がなかっただけに感銘深いものがあった。

藤岡市助という名前を最初に聞いたのは、多分大山松次郎先生からで、入学後間もない頃ではなかったかと思う。電気工学科の曙の時代の話をされた中で、明治11年にエアトン先生指導の下に藤岡市助、中野初子、浅野応輔の3氏が、わが国で初めてアーク灯を点灯したという、今日の電気記念日の起源にまつわる話に関連してであった。

その後、藤岡博士はわが国最初の5kW分巻発電機を設計、三吉電機工場において製作し、明治18年11月には東京銀行集会所の落成式典の際、40個の白熱電球を点灯したりしたが、明治19年には、工部大学助教授の職を抛って、東京電灯の技師長に就任した。電気事業の経営に尽力する傍ら、国産白熱電球製造への情熱やみ難く、明治22年末にはその試作にとりかかった。その時の電球製造機械は、先に藤岡が欧米視察に外遊した際、英国においてペリー氏(元工部大学校教授)の斡旋で購入したもので、倉庫の中に眠っていたものを利用したという。試作を進めている中に、藤岡はこのような重要な仕事は東京電灯の付帯事業とせず独立した経営でなければ発長の見込はない、と考えるに至り、三吉電機工場の経営者である三吉正一に協力を求め明治23年4月、白熱電球の製造を目的とする白熱舎が創立されるに至った。これは我が国最初の白熱電球製造事業で、後の東京電気株式会社の前身である。白熱舎には東京電灯社長の矢嶋作郎らも出資し、資本金2,000円であったという。創立の年の8月には初めて12個の電球製造に成功している。

昨昭和55年10月末の秋晴れの吉日、 復原のなった藤岡市助博士の銅像の除幕が博土の三女に当たる戸川千代子さんの手により行われた。さんさんたる秋の日射しを浴びて参列した小生は、この100年足らずの間における電気工学の進歩発達に思いを馳せ感慨一入るのものがあった。

(昭和16年12月卒 東京芝浦電気(株)取締役社長)

<25号 昭56(1981)>

【26号】第二工学部の卒業生として/丹 羽登

東大の電気工学科に入学したのが1942年4月、第二工学部の第1回生としてでありました。丁度40年昔のことであります。そして昨年還歴を迎え、本年東大を定年退官するにあたり恒例によってこの会誌に誌面を与えられましたので、学生の側から見た二工発足当時のことを書かせていただきます(教官の側から見た記録は生産技研編「東大第二工学部史」、瀬藤先生記念会刊「瀬藤象二先生の業績と追憶」などに詳しい)。

“パパは東大の夜間部?”

昨年、昭和24年二工電気卒の三田勝茂氏、山本卓真氏が相継いで日立、富士通の社長になられた時、週刊誌が“パパは東大の夜間部だったの?”とかいう表題で二工のことをとりあげていた。

第二×学部というとやはり大学本部と離れた地方にあるとか夜間部という連想がわくのは自然であるし、10年にわたる二工電気工学科の卒業生数(合計323人、分校を含む)は1879年明治12年)以来103年にわたる電気(含電子)工学科の卒業生総数の僅か7.6%にしかあたらない。すなわち全体に較べれば少数勢力でしかないといえる。ただ“二工二工という方がおかしい。渾然一体なのだから今頃になって二工を振り廻すな”という声もある。しかし学科によっては電気科と違って一工、二工の間の縁が比較的遠いところもあるようだし、夜間部と間違えられるのも残念だから、やはり二工の存在は強調しておきたい。

“二工に廻された”

入試発表の日、あこがれの電気工学科に入れたという喜びとともに、二工側に我が名を見出した時はいささか複雑な気持であった。晴れの入学式は午前中に本郷で行われ、午後千葉に着いてみると、いも畠の中に、本部・講堂・食堂が出来ている他に学科の建物は指折り数える程しか建っていない。そんな環境の中で我々第二工学部の一回生の生活が始まったのである。入学したばかりの4月18日の昼休みに野球をやっていると(グランドは無いが野球はどこででもできる)突如として異様な(当時としては)大形の双発機が一機、低空を海岸線に沿って稲毛の方へ飛ぶのを見て驚いた。飛び去りかけた頃、空襲警報が鳴り、あらぬ方で高射砲弾が飛ぶので、やはり敵機であったのかと、未だ初戦の勝利に沸いていた頃なので複雑な想いであった。あとになってから米空母ホーネットからのB‐25と知った。

何しろ上級生も下級生も居ない原っばの中の一クラスなので、遊ぶ方の団結は自然に出来るのだが、やはり東京から遠いことの不便さは避け難く、また電気としての実験も当初は学生食堂の調理室で行われていた。

このようなわけで我々は“二工に廻された”という表現を使っていた。正直なところ小生自身も最初はがっかりしたが、ここで同級生の士気を鼓舞する必要ありと痛感し、先生方、本郷との連絡役、つまリクラス委員を買って出て、顔の広さを大いに活用した。

入学した年の夏には豊島園で一・二工電気科合同の懇親会が開かれているし、東京の食糧事情が既に悪化した頃、二工の学生食堂で合同懇親会を開くことになったところ、豚を一匹つぶすからとの宣伝が効きすぎて、本郷からも大山・阪本先生始め予想外の多数の参加者を得て嬉しい悲鳴をあげたのであった。

待望の西千葉駅

現在は東京地下駅経由で久里浜へつながる快速線や、高田馬場・中野から三鷹まで乗り入れている東西線などが増えて便利になった京葉地区だが、当時の総武線は何本かに1本しか千葉迄行かず、しかも我々1回生が入学してから2回生が入ってくるまでの半年間は西千葉駅が無く、稲毛から線路沿いに汗をかき乍ら20分余も歩いて通ったのであった(その行列のスナップ写真は卒業アルバムに使った後、前記の第二工学部史にも掲載されている)

待望の西千葉駅は開設予定の(1942年)10月1日が近づいても新設工事がさっばり進まないので心配していたところ、僅か2~3日前からのラストスパートで予定通り開設にこぎつけ、国鉄の輸送力の強大さに、改めて感心させられたのであった。

この西千葉駅の新設の後、京成電車も、二工の正門からの垂線の足のあたりに駅を移して“帝大工学部前”駅が出来た。しかしこのような改良にもかかわらず東京からの遠さは如何ともし難く、大部分の学生は学生宿舎(それも出来たのは同年夏で、それまでは臨時の宿舎に分宿していた)に入っていた。いわゆる大学生らしくない旧制高校の寮生活にも似た学生時代ではあったが、連帯というか、学生間の縦横のつながりは熟成されていたといえよう。始めは東京から通っていた小生もやはり能率が悪いので途中から寮に進出し、千葉と東京との二重生活を続けていた。

一工、二工の振り分け

その頃から我々二工学生の間で合格者を一工、二工と、どうやって振り分けたのだろうということが話題となっていた。専らの噂は単なる入試順位の奇数偶数ではなく、「収容人数が不等の場合も含めて双方の学生群の学力が等しくなるように分けた」という説で、我々はその定説に納得していた。その後の公式記録によっても、この説は本当のようである。

すなわち、母集団が等しい二つのグループを違う環境で、すなわち歴史と伝統の本郷キャンパスに新装成ったばかりの3号館と、片や、いも畠の中の木造の教室と学生察とでほぼ同様な教育をしたらどうなるのか?学力はともかく、性格・気質にまで有意差が現れるのか否か?卒業生を統計的に調べてみたら面白いと思われる。

東大を去るに当り

さて前記のような学生生活も束の間、戦局の悪化は大学生の勉学を許さず、入学後1年半程で学徒動員令が公布され、1943年10月、神宮外苑競技場で出陣学校壮行会が催されるに到り、我々電気科の学生も“電波報国隊”としてレーダー作りに励むことになった。

半年繰上げによって1944年9月に卒業した後も小生は大学院特別研究生、講師として大学に残ることを許され、共通教室の講座だったので他学科の学生さんの電気工学実験の世話などをしていた。その後生産技術・理工学研・航空研・宇宙研を経て、この1年程は工学部境界研と、非破壊試験・超音波計測・画像計測を中心とした仕事に励むことが出来ました。

今後も非破壊試験技術者の教育・技量認定の仕事、世界非破壊試験会議への日本代表、国際原子力機構による各国の非破壊試験教育の仕事など、今迄と同じような仕事が当分続きそうです。立派な恩師・先輩の御指導を受け、良い同僚・後輩諸君に囲まれて楽しい研究生活を続け得たことを感謝しながら東大を去ることが出来る次第であります。

(昭和19年9月卒 東京大学工学部境界領域研究施設教授)

<26号 昭57(1982)>

【26号】定年を迎えて/宇都宮敏男

昭和16年4月から学生として2年半、大学院特別研究生として5年、文部教官となって33年余り、通算40年を本郷の、しかも工学部3号館を主たる拠点として通い続け、間もなく定年を迎えることになった。還歴までの3分の2という長さに今更のように感じ入っている。この間、私は故西健先生を最長老とすら電気工学科の家庭的な雰囲気の中でまずスタートし、以来連綿とした恵まれた学生生活と教員生活を送ることができたという感謝の気持が一ぱいである。

山下英男先生が実習の担当で、私達の年度は2年生での夏季実習を非公式ながら薦められ、私は満州電業株式会社を志望し、現中国東北地方の阜新火力発電所に赴いた。3年先輩の故鹿野義夫氏(昭16・3卒業)に可愛がられ、人生意気に感じて、3年生の正規の実習も再び同所に行った。今度は厳冬の2月からか2か月余り、5万kVA発電機増設の現場で、主制御卓の上にある照光系統表示盤の配線工事を任され、これを完成し面目を施した。帰って間もなく就職先を定めることになり、西先生に満州電業就職の希望を申し上げた。重要企業への就職割当(切符)制度があり、先生から電業もよいが、ここの講師の切符もあるよといわれたことを思い出す。卒業後すぐ兵役が控えておることもあって、私は電業を選んだ。このまま進めば私は電力技術者になったであろう。

海軍の短期現役を志願し、合格した。その後、特別研究生制度が生まれ、級友の小口文一、中原裕一両氏とともに特研生になる決心をしたのだが、心底では軍隊に入るよりは徴兵延期できる方を選んだわけである。戦争はレーダ技術などの遅れがあって大変だというわけで、マイクロ波をやることになり、前記小口、中原氏とともに阪本捷房先生の研究室に入った。これで私の方向は大転回したことになった。マイクロ波受信に関しては結構ものになって、岡村總吾当時海軍技術士官、柳井久義当時陸軍技術士官の2先輩の指導で、陸海軍の現地実験にも参加し、手造りの鉱石変換器を主体とするレーダ受信機は当時の最高性能を発揮したとひそかに思っている。終戦直後から肋膜炎となり、しばらくぶらぶらしたが、特別研究生のまま“特別”に大目に見て下さったことは本当に有難かった。

昭和23年9月特研生が満期となり、やや病弱に見えた私を教室に残して下さったのが、以後の人生を決定的にしたように思う。戦時中技術士官だった岡村、山村、柳井3先輩、逓信省から来られた尾佐竹、ずっと研究室におられた瀧、以上の諸先輩助教授の末席に連なり、3号館2階正面両端のガンルームでの“同居”生活はまことに思い出深く、電気工学科の“家庭的”雰囲気はこんな環境があったからだと考えている。

その後、再び1年間療養する破目になった。幸いといおうか、阪本先生がMEを掲げて医学部の先生と協力研究を推進しておられ、東大病院の樫田良精先生がよく研究室に来られ、私的な健康相談にものって下さった。夏休に田官寿美子さん等と富士登山しようかという気になり、念のため胸のX線写真を撮ったら、肋膜炎のあとがよくないとのことで登山をあきらめた。結局手術ということで、東大病院で“合成樹脂球充塡術”を受けたが、結果は大へん良く、以来30年余り無事過ごすことができている。この手術は一時流行したが、後に事故が起こり、殆どの人は再手術で合成樹脂球を摘出しているという。このままで過せたなら、私の死体は解剖してもらってもよいと思う。医学技術の進歩で結核による死から救われたということが、私もMEに入って阪本先生の開拓された分野に微力を尽くすことになった一因といえる。

大学生活全体を総括すれば、どうも研究成果はお恥かしい限りであるが、できる範囲では一所懸命やったという満足感がある。最後の2年間は学科の就職の世話、図書行政のほか、教授会議長、評議員というような重責を負い、目の回るような毎日であったが、それなりに私自身の為にもなった。電気・電子工学科の多くの教職員のお世話になり、また同窓卒業生からもいろいろと御支援を頂いたお陰と深く感謝している。

幸い4月以降については私立大学からのお招きもあり、当分は東大での経験を生かして教育、研究を続けていけるものと期しており、同窓の皆様から従前通りに御指導御鞭達頂くことを切に願っている次第である。

(昭和18年9月卒 東京大学工学部電子工学科教授)

<26号 昭57(1982)>

【27号】古賀逸策先生を偲ぶ/坂本捷房

古賀先生は東京大学を御退官後、国際電信電話会社で研究生活をしておられましたので同社の難波捷吾氏からは時々先生についての情報が私の許まで伝えられておりました。先生が脳硬塞のため東京逓信病院に入院されているということを聞きましたのは昭和57年の7月でした。同病院の脳外科部長堤裕博士は昔からの知人でしたので早速同部長を御訪ねし、先生の御容態が尋常でないことを詳細に知り鷲嘆すると同時に何とかして再び回復されることを願ったのは云う迄もありません。併し9月3日の新聞は一斉に先生の御逝去を報ずるというようなことになりましたのは私共同窓生として残念この上もないことであり、皆様共々御冥福を御祈り致す次第であります。

古賀先生は大正12年東京帝国大学工学部電気工学科を卒業されると共に大学院に入学され、傍ら東京市電気研究所の嘱託として仕事をしておられましたが、大正14年東京市の技師に任命されると共に大学院を退学し、昭和4年まで電気研究所で無線通信の仕事をしておられました。昭和4年東京工業大学が開設されるに当り東京帝国大学の鯨井教授が電気工学科の設立に尽力されることになりました。それには先づ教官の充実を図る必要があるとの見地からその1人として古賀先生を助教授として迎えることになりました。

その後昭和21年に東京大学に移られるまでは東京工業大学に於て研究と教育に従事しておられました。東京帝国大学には大正14年以来昭和19年まで講師として学生の教育に関与せられ、昭和19年からは兼任教授として、更に昭和21年からは専任教授、昭和31年には評議員、昭和33年には工学部長を勤められ、昭和35年定年御退官後は名誉教授になられました。

先生の研究業績は270編にものぼる論文に示されておりますが、就中分周器(FrequencyDemulti plier)(昭和2年)と、温度変化の少ない水晶振動子(昭和7年)の御研究はあまりにも有名であります。 同先生の研究に対する真摯な態度は誰でもが敬服するところでありまして、例えば水晶振動子にその例をとってみても、まず弾性学の研究から始めて根本的にその論拠を明確にし、その理論を基にして新しい面を開拓して行かれる姿は私どもの鑑とするところであります。

これらの結果として昭和9年には電気学会より浅野博士記念祝金、昭和14年には10大発明家の1人として宮中にて賜餐、昭和19年には毎日通信賞および技術院賞、昭和20年には服部報公会賞、昭和23年には日本学士院賞、昭和25年には電気通信学会功績賞、昭和26年には電気通信大臣表彰、昭和31年には紫授褒章、昭和35年には放送文化賞、昭和37年には郵政大臣表彰等数々の栄誉を受けられましたが昭和38年には文化勲章を受章せられ、その御功績は一段と顕著なものとなりました。

先生は教育に対しても非常に御熱心であり、御講義は御自身でよく消化して後、その物理的意味を工学的に明確に御話し下さることは有名であります。大学教官としては研究能力と教育能力とを兼ね備えていなければならないというのが先生の信念であったように感ぜられます。

日本の工業教育をどうすべきであるかという点に関しては終戦後米国との関連を持ちつつ非常な努力をされました。GHQ内にあるCCS(Civil Communications Section)の Mr.Polkinghornの提案により大学と企業との関連を深め、工業教育の意義をそこに見出そうということで日本側の中心になって大いに活躍されました。私もその御手伝をしてGHQに行ったり、大学教授と企業の社長との会合を持ったり致しましたが、同先生は常にその中心となって全体をリーしておられました。その結果昭和25年1月GHQの勤奨により米国の大学を視察するため外遊されました。その後何人かの日本の教授が同じ目的で外遊されましたが、 これが今日の電気教官協議会および日本工業教育協会の根源になっております。すなわち同先生は戦後における日本の教育はどうあるべきであるかという原点に立たれた訳であります。今日に於ける大学教育を省みます時、終戦直後における同先生の教育に対する御指導が立派に結実していることは否めません。

研究面に、又、教育面に幅広く御活躍になっておられました先生は、一方、学術界あるいは社会に向って顕著な活動をしておられましたとも見逃すことはできません。学会においては若い頃は編集幹事等で活躍しておられましたが、昭和22年電気通信学会会長、昭和32年電気学会会長となり、昭和39年電気通信学会名誉員、昭和40年電気学会名誉員になられました。又米国の学会であるIEEEの会員が日本国内でも増加するよう終戦後大いに尽力され昭和32年にはそのFellowになられました。国際的の会合としてはURSIに非常に力を入れられ、昭和38年東京でその大会が開催された時にはその中心となって世界各国から集まる会員と共に電波科学の発展に大いに貢献されました。そしてその後2年間その会長を勤められました。

社会的の関連としては昭和32年から電波技術審議会、昭和38年から電波監理審議会の委員を勤められ、特に昭和45年から2年間は電波監理審議会の会長として電波行政に尽力されました。そのほか昭和26年には放送技術審議会委員、昭和36年には国語審議会委員、同部会長、同副会長、昭和42年には中央教育審議会委員等数多くの委員会に関係して文部省、郵政省、日本放送協会等に尽された功績は数限りありません。

先生に関してのことは余りにも多く、その全部を記すことはとてもできませんので、ここにはその一端を記したに遅ぎませんが、この偉大なる先生を失いましたことは同窓会としても哀惜の極みに堪えません。謹んで哀悼の誠を捧げる次第であります。

(昭和4年卒 東京大学名誉教授 東京電機大学名誉学長)

<27号 昭58(1983)>

【27号】大山松次郎先生を偲ぶ/高木 昇

昨年8月2日、東京大学の工学部電気・電子工学教官及び名誉教授が相集い、学士会館で大山松次郎先生の米寿のお祝を挙行しました。先生は、極めてお元気で、若い時代の思い出話、例えば、浅草の浅草寺の依頼で本堂内の照明を改良した話など、初めて聞く事柄を面白く我々に話してくれました。そして、米寿のお祝いとしてカシミヤのセーターをお贈りしましたが、とても喜んでおられました。

ところが、10日経った8月11日、世田谷のご自宅で眠るがごとく逝去されました。我々は、事の意外に驚きましたが、せめて米寿のお祝いができた事を喜んでおります。

さて、大山先生は、大正8年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業、直ちに講師に就任、同9年助教授、昭和3年に工学博士の学位を受けられました。同4年から2年間ドイツのブラウンシェワイヒエ科大学に留学、ドイツの工学博士を受けられた。同6年帰国後、教授に昇任、昭和24年東京大学第1工学部長、同31年定年となり、名誉教授となられた。

先生の業績は東大のみならず、広く内外に及ぶが、主なものを挙げると、昭和16年日本学術振興会第10常置委員長、同22年電気学会会長、同24年日本学術会議会員(35年迄4期)、同27年日本学術振興会理事(39年迄)、同28年照明学会会長などの要職を果たされました。

東大在任中に、電力中央研究所の理事となり(36年迄、後に顧問)、同33年超高圧電力研究所専務理事(同42年から47年迄副理事長、後に顧問)、同42年日本原子力学会会長、同41年には、勲2等旭日重光章を授けられました。

私は、先生が助教授の時代に講義を受けた者であります。電気磁気交流理論という電気工学の基礎学科を教わったが、先生の講義は極めて名講義で、手まね足まねで面白く講義を進められる。ユーモアを混えたたとえ話に引きずり込まれ、ノートする手が止まってしまっていたと言う方が本当でしょう。電気の現象を数式で教えるより真の意味を捉える事を巌しく教えられました。先生が教授となられてからは、電気磁気交流理論は助教授にまかせ、電熱工学・電灯照明工学・電鉄工学など新しく発展して来た工学を持たれ、その講義ぶりは非常に興味あるものでした。

東大では10年、20年ごとに同窓会が開かれ、 先生方を招待する習わしでした。その際に、同窓会で出る話題は先生の講義ぶりが常でした。

先生は、東大を定年でおやめになってから、電力中央研究所と超高圧研究所にあって、送電技術の研究を指導され、今日の50万ボルト送電時代の基礎作りに、多大の貢献をなさいました。電力中央研究所は、九つの電力会社が拠金して作ったもので、送電に関する唯―の研究所であり、大山先生の指導力が充分に発揮されたものである。

日本大学の工学部が創設された折、全面的に東京大学が援助しようという事になった。大山先生は、工学部と専門部の両方の電気科長をしておられました。私が日本大学に就職した時にも、先生は毎週1回講義にこられ、その後で、電気工学科の教官を集め、研究と講義の進め方について長い時間を費やして指導して下さった。 時々は神田附近の料亭で会食することもあった。

先生は,また実際面に役立つ研究開発、学際的領域の開拓に熱意を示されました。そこで、20年前に電気科学技術奨励会が設立され、当初から会長となり運営に尽力されました。そして、オーム技術賞の審査委員長として、先生が昨年までに功労者として発掘、表彰された人は、700件1,444名に達しています。

7年前に、大山松次郎賞を設定するにあたっては、当初はご自分の名を出されるのをためらっておられましたが、電気界の研究者の励みになるならばと、承知して下さったものです。私は、今まで電気科学技術奨励会の副会長と、大山松次郎賞委員会、委員長をおおせつかってきた次第です。

最後に、学士会との関係について述べましょう。少壮気鋭の東大助教授であられた大正15年、東京大学創立50周年記念学士会館(旧館)建築に際し、学士会の依頼により、電気関係の設計に協力せられ、さらに昭和10年、学士会創立50周年祝賀記念会館増築に際しては、増築技術委員に選任きれ、現在の学士会館建設に、多大なる貢献をされました。

また、戦後米国駐留軍による会館の接収を機として行われた、本郷分館の建設にも終始関与せられ、昭和31年本館の接収が解除されるや、その復旧工事の推進並びに会館使用料等の問題解決のための特別委員にご就任、困難な情勢下にもかかわらず、全力を挙げられました。

その後、施設委員にご就任、会館施設関係の改善と近代化を促進され、会館維持向上に多大なるご功績を遺されました。

最長老の学士会理事として、前後56年の長きにわたって、学士会館と共に歩んでこられた大山先生は、毎月の午餐会にも必ず出席して温顔を見せられ、ことに8月20日、米寿のお祝いの杖をお受けになる事を楽しみにしておられました。

以上大山松次郎先生の人となり、御業績を述べました。私は、謹んで哀悼の意をささげると共に、御霊とこしえに安らかならんことをお祈り申し上げます。

(昭和6年卒 東京大学名誉教授)

<27号 昭58(1983)>

【28号】商事会社と私/高原 靖

1.研究所と商社

○研究所は情報を作るところである。作られた情報が世の中に有用であればある程、また独創的であればある程研究者は評価される。商社は情報を売るところである。その情報がお客様にとって有用であればある程よく売れて利益も大きい。情報の中味や売り方は必らずしも独創的である必要はないが、利益の大きいのは独創的な場合の方が多い。

○研究者は専門ならびにその周辺に関する知識が豊富で、常に問題意識をもっていなければならない。それがないと折角研究室で、専門家との討論で、良いヒントが与えられても“猫に小判”に終ってしまう。

商社マンは知識が豊富で意欲旺盛でなければならない。ビジネスチャンスというものはお客先からのニーズだけから発生するのではなく、もろもろの世の中の動きの中に散在しており、それを的確につかまえるのは本人の知識と問題意識のみである。“真面目にこつこつ”だけの仕事の中からは大きなビジネスは殆んど出て来ない。

○研究を進めるに当っては対象とするテーマについて“モデルを設定”するのが効率的である。モデルが正しいか否かは実験によって確認する。当然誤っていればモデルを修正する。対象とするテーマについて新らしいモデルが設定されると、必らずと言ってよい程そこに“発明”が生れる。

社会現象は自然現象より複雑かつ分散が大きいが、ビジネスの分野にも“モデル”は存在する。これも実験によって確認(必要があれば修正)し、対象とするビジネスの分野に的確なモデルを設定することができると、利益の大きいビジネスにつながる。

○科学・技術の分野では新らしいアイディアには特許権が付与される。従って特許出願後はそのアイディアを周知させるために、然るべき専門誌等に公表するのが普通である。

ビジネスの分野には新らしいアイディアに対する特許権の保護がない。従って新らしいアイディアを公表すると、そのアイディアが世の中に有用であればある程競争相手にコピーされて自社のビジネスのブレーキになる。このためか、ビジネスの分野にはアイディアの発表のための専門誌というものはない。

36年弱にわたる研究所(電電公社、通研)の生活を終え、昨年2月に三菱商事へ入社して丁度1年経過したところで私の受けとめている研究所と商社の共通点と相違点である。

2.情報・通信分野の激動期

時あたかもアメリカでは今年の1月からATTが幹線会社と地域会社に分割され、また情報処理の分野への参人が許された。一方lBMをはじめとして幹線への新規参入が相次いでおり、アメリカの情報・通信産業界は今、激動期にあって、5~10年先にはその“陣取り合戦”も終って新らしい定常状態に落付くであろうと言われている。

一方我国では新聞によれば来年(1985年)4月を目途に電電公社が民営化され、国内、国際共に通信回線には新規参入が奨励されるとのことである。また超LSI、光ファイバ通信、コンピュータ技術、衛星通信等の技術革新が物凄い勢で進行しており、これに伴って情報、通信分野での新らしいビジネスが次から次へと生れつつある。

このようにしてアメリカにおくれること2~3年で我国の情報・通信分野にも“激動期”が訪れて来るであろう。むしろこの“激動期”がやって来なかったら、我国の情報・通信に関するインフラストラクチャの形成は再びアメリカにおくれをとることになるであろうとも言われている。

以上の情勢をふまえると、商事会社において私のするべきことは明白になってくる。それは我国の情報・通信分野の活性化にいささかなりとも貢献することである。

3.技術集団の形成

考え方は以上の通りであるがそれを実行するには我々のグループは余りにもひよわであるところが或る日、母校(東大・電気)の或る先生から“コンピュータ・ネットワークの専門の卒業生をお前の方で採らぬかと言ってこられた。勿論大変有難いお話であるので、直ちに採用は決めたのであるが、この電話から私は別なヒントを頂戴した。それは“そうだ、新らしい卒業生の採用だ。”である私は研究所生活が長かったため、日本中の主な大学の情報・通信関係の先生方は大部分存じ上げている。そこで早速、その先生方を廻り、これから私のやろうとしていることを御説明申し上げて、優秀な学生の推薦をお願いした。これも大へん有難いことに十分な数の御推薦をうることができた。そうなると今度は新入社員のための指導者が必要であるが、これは通研の絶大な御協力により、十分に揃えることができた。

このようなわけで、この小文が発行される59年4月には一先づ私の理想とする技術集団が私のところに出来上っておることになる。もう仕事の進まないための言訳は一つもないのである。それにしてもヒントを与えて下さった母校の先生、御推薦下きった日本中の先生には感謝の言葉もない。

4.テーマの選定

情報・通信産業の激動期を前にして、今やっておかなければならないテーマは気が遠くなる程沢山ある。従ってテーマには順位づけを行ない、順位の高いものから実行してゆくことになる。今、私の考えているテーマの選定の考え方は、(1)高度情報社会の形成にできるだけ有効なものであること、(2)顧客が対価を払ってもそのサービスを歓迎するものであること、(3)リスクの大きい過大な投資にならぬことの3條件による評価である。商事会社における情報・通信産業の育成は、当面、通研における研究生活と同様に楽しいものである。

(昭和22年9月Ⅱ工卒、三菱商事顧問)

<28号 昭59(1984)>

【28号】毛並みの悪い東大出/山本卓眞

もうかれこれ二十年前になろうか、電車の中吊り広告の雑誌(サンデー毎日)の記事見出しに“毛並みの悪い東大出”とあるのを通勤途上で見つけ、何やら面白そうではないかとつぶやきながら買って読んでみた。昭和二十一年からの二、三年間に入学した学生は、戦中戦後の混乱の中で離合集散の結果転学・復学したり、航空・造兵など廃止された学科から電気へ転科したり、また特に、一割の制限をうけながらも復員してきた旧軍人あるいは陸軍士官学校・海軍兵学校の上級生などから成り立っていた。当然のことながら四修・一高・東大といわれる順当コースの人は少なくとも二十四年卒の私達のクラスには皆無であった。かくてこの世代の東大出は多かれ少なかれ道草を食ったり、多少捻れ加減の道を歩んだり、軍から転換したりの異色集団であり、いわゆる“毛並みの悪い”部類に属するのだそうである。“何だつまり毛並みが悪いとはオレ達の事か”と腹を抱えて笑ったのはいうまでもない。

この記事は、われわれ異色世代を若干シニカルではあるが、まずまず余計な感情批評を入れずに書いてあったと記憶している。さて私にとっては、このクラスメイト達は異色混合集団であるだけで、極めて味のある大切な精神的資産である。友人達はすべて運命に弄ばれて多少なりとも挫折し、また一億総貧乏の中でそれぞれ生活に苦労しながらも明るさを失うことがなかった。卒業時代は就職難の時代でもあった。今日思うと先生方もいささかとまどったり、苦労もされたことであろう。

この記事の後何年か経た頃、小学生だった私の息子がガールフレンドと喧嘩のはて“キミのおとうさんは東大出といっているが終戦のドサクサに紛れこんだに過ぎない。今日受けてみたら入れる筈がない”とやりこめられて困惑の態で帰ってきた。私が再び腹を抱えて笑ったのはもちろんだが、 息子は“親父本当か”と聞く。そこで笑いながら“残念ながらそれは本当だ”と答えると、息子は一層撫然とし、以後親父の権威は一層失墜した。

“残念ながらそれは本当だ”と答えたことについては私なりの実感がある。当時の満州から帰って一旦九州に落着き、大学受験を決意して上京したのが二十一年一月下旬で、受験までは幾許の日数もなかった。加えて食料事情は最悪、本を買う事は古本を探すことであり、暖を採るとは小さな電熱器にしがみつくことであった。外国語が試験科日にあることは判っていたが、私がかつて幼年学校で二年間学んだドイツ語で受験出来るかどうかもはっきりせず聞く人によって答が違っていた。そこで慌てて中学一年程度の学力しかない英語に挑んではみたもののそこには絶望との闘いがあるだけであった。他の学科も五十歩百歩である。こうなってはもう徹底的に山をかけるしかないという訳で勉強の焦点を絞りに絞った。語学はドイツ語が出ればよし、英語でなければ駄目ならすべてを諦めて来年再度挑戦と肚をきめた。山はよく当った。喜んで記入したのも多かったが白紙のままというのも少なくはなかった。一番の傑作は化学の試験前の休憩時間に航空士官学校時代の戦友で電気工学へも一緒に入った岡崎久君が見ていた参考書だったかノートだったかに書いてあったいわゆる亀の子-分子式-をのぞき見していたら、一分後に試験でそれがそっくり出ているではないか。忘れないうちにとイの一番に解答を記入したのは言うまでもない。そしてドイツ語も出た。しかし如何せん勉強の量が足りない。総合的な結果は惨憺たるものであった。合否の発表を見に行くのは時間と費用の無駄であるばかりでなく、来年の再挑戦の意欲を削ぐ効果もあろうから行かなかった。大学から速達が来たのは四・五日後であったであろうか、さすが大学と軍隊とは違う。落ちた者にまで速達で知らせてくれるなどと感心しながら開封し、合格の字を見てもまだ不の字が落ちていないかと再三ためつすかしつして見たのを覚えている。

思えば当時の受験生は総じて学力が低下していたから随分と水準を下げて入学させたのかも知れないし、私の場合は幸運に恵まれたことは間違いない。そして、当時の旧軍人に対する世間一般の冷たい雰囲気や、 GHQの管理下という制限はありながらも大学側は差別感なく旧軍人の学生を受入れ、また級友達も自然にわれわれを受入れてくれた。とにかく一緒に出直すか!といった雰囲気だったのである。

入学してみて大学とはかくも授業に出なくてよいものかというのが第一印象であった。しかし級友達が出て来ないのは、一つには転科生が多いので既に単位を持っている為出る必要がなかったこと、もう一つは生活が大変で皆何かやらねば食っていけなかったからで、私も農繁期にはイモ掘りに忙しくて一週間位連続欠席し級友立沢宏君が手伝いに来てくれたりした。

夏休みの工場実習も傑作であった。藤木勝美君と一緒に行ったその町工場では新製品の設計をたのまれ、試作品のテストをし、売込みにまで同行させられたが、卒業する頃には潰れてしまった。作業台を並べて仕事をした工員さん達は今何をしているだろうか。

こんな風にして私達の世代は学生時代を送った。しかし私は級友達“毛並みの悪い東大出”がその心の中に、困難な時代を生き抜いてきた自信とともに戦後の日本の経済復興に微力を盡してきた誇りを秘めていることを知っている。それはクラス会での思い出話や今日的な世間話の背景に流れる同一世代の共感なのである。

(昭和24年卒 富士通(株)社長)

<28号 昭59(1984)>

【29号】西千葉に学んだ頃/三田勝茂

昨59年11月、東大第二工学部電気工学科を24年に卒業した私達の35年会が高輪の八芳園で開催された(ちなみに30年会は一工、二工の電気合同で開かれた)。

私の学部生活は終戦の直前から直後のことで、特に戦後は電力不足のため毎晩停電がつづき、缶詰の空缶を使ったロウソクの灯の下で勉強した頃である。当時は水力発電が主であったが、現在は発電電力量の約20%が原子力でまかなわれ、電気をふんだんに使える時代になっている。この日丁度、中国電力島根原子力発電所の2号機の起工式に出席したあと会場にかけつけた私には35年前を振り返り感慨の無量なるものがあった。

このような日本の復興と発展には出席された星合、後藤、高木、森脇、澤井、斉藤、安達の諸先生方は勿論、私達クラスメート全員も大きく貢献されたものと思う。

私が大学に入学したのは昭和20年4月、戦争末期の頃であった。高等学校も非常事態と言うことで3年が2年に短縮されて卒業のあと校舎が西千葉にあった第二工学部航空機体学科に入学した。4月早々本郷での入学式に出席すべく家を出たが、途中で空襲警報が発令され国電上野駅で降り、上野公園の防空壕に避難させられた。警報が解除されたのは昼近くであり、おかげで晴れての入学式には出席出来なかった。

西千葉の学部には品川区にあった自宅から通学したが、片道2時間ほどかかり又空襲が夜、昼頻繁で大変であった。入学早々の5月には県内、横芝の農村に1ヶ月ほど田植の勤労動員に出かけたが、この間に千葉市が空襲をうけ、航空機体学科他の校舎も焼失してしまった。こうしてその年の8月には終戦となり、航空機体学科は内容を物理中心のものに変え、物理工学科となったが、この間殆んど勉強らしい事が出来なかった私は21年電気工学科に転科、やり直すことにした訳である。

戦争中は強力な統制で物資も細々と出回っていたが、戦後はそれが効かなくなり、社会全般が混乱した極端に物不足の状況であった。特に食糧事情が悪かったが、この点西千葉は生産地に近く東京よりは少し楽であったように思う。校庭内の空地を利用してさつま芋畑等を作る学生篤農家も多く出現したものである。私自身も下校の途中、しばしば稲毛の海岸に立寄り、潮千狩りをして食料不足への一助にした事が思い出される。校舎はゆったりとした郊外の地に散在し、又緑にかこまれ、本郷とは異った味いのあるものであったように思うが、習志野に近いせいか特に春は土ほこりがひどくこれには閉口させられた。然し春青時代(それはひどい状況下であったが)を過した西千葉の地には今もって愛着を感じている。

学生生活も終りに近づきいざ就職となると、戦争直後のこととて工業全般がまだ立上っておらず、大変な就職難であった。就職のお世話をして下さったのが当時主任教授の星合先生であった。当時私は海外に雄飛してみたいと考え、商事会社への志望を先生に申し上げたところ、折角お国の費用で電気工学を勉強した身であり、又商社と言っても財閥解体で小さい会社に分裂している状況で余りすすめられないとのお話であった。第二志望としては一見矛盾しているようだがスケールの大きい仕事であると言う共通性から当時の商工省電力局をえらんだが、結局こちらの試験日が先で、それに合格したので商社の方は受験しなかった。

ところが、この昭和24年は官庁の採用制度が大きく変更された年で、新しく人事院がもうけられ、人事院試験に合格、各省に推薦を受けることが義務づけられた。この年は初年度なので人事院試験が各省試験のあとになった訳である。電力行政の仕事をやるのだからと簡単に考え、専門職でなく行政職を受験したが2次試験の面接時、専門職を受験すべきと指摘されびっくりした。その後合格通知が来たものの、商工省への推薦が得られず、結局失敗に終ったが、結果が判明したのは4月になってからであった。この年、同じような失敗をした人が少なくなかったようである。

このあと星合先生のお骨折りで日立製作所に入社することになった。聞けばこの4月入社して工場に配属された人が都合で退職してしまったので、その代りに採用しても良いとの事で、早速入社試験を受けたが、このような事で就職がきまったのは5月下旬になってからで、結局6月1日付の入社となった。

赴任した先は茨城県日立市にある多賀工場で、お隣りの日立の本拠とも言うべき日立工場はまだ空襲で破壊されたままの状況であった。あとで開いた話であるが、当初志望した商事会社はその後数年して倒産してしまったとの事である。

当初の考えとことなり、地方の工場で設計の仕事をやる事になったが、物を創るよるこびを知る事が出来た。電力機器の制御、保護をする配電盤の仕事を長くやったが、その後種々のエレクトロニクスの仕事を担当した。この間、アメリカに留学したり、仕事で海外に出かけたりで、結構当初の希望ま満されたようである。こうして茨城と神奈川の工場に計27年間過したが、工場での仕事は経営の勉強も出来、それが今日大いに役立っている。

就職に際しては兎角、目先つ華かさや待遇に目がうばわれ勝ちであるが、星合先生から長期的視野にたっての御指導を頂き、今日に至っている事に対し、今もって感謝の念で一杯である。

星合先生は東大を退官後、奇しくも日立製作所の理事、中央研究所長になられ、その後、名誉所長として現在もお元気て所究者の御指導を頂いているのはよろこばしい限りである。

今迄の人生を振り返ってみると、どれ一つ、巡り合わせが狂っても全く異った道を歩んだ事であろうし、人生とは何か自らの意志以上のものに大きく左右されているように感じてならない。

(昭和24年二工卒、(株)日立製作所社長)

<29号 昭60(1985)>

【29号】定年を迎えて/飯口眞一

私は、昭和60年3月を以て、東京大学を定年退官致しますが、恒例により、この会報に紙面をいただきましたので、諸先輩と同じ様な調子で書かせていただきます。

私は、昭和23年3月、一工の電気工学科を卒業しましたあと、通信省から電々公社まで15年(内通研13年)、東大の航研から現施設迄22年間勤務致しました。東大に参りましてからは、本郷の電気・電子工学科及び麻布の生産技術研究所第3部の教官の方々とは、大学院教育を通して、公的私的に、おつき合いをいただきました。

さて、学生時代より教えて、この3月で、丁度40年になりますが、夫々の時代に分けて記すことと致します。

1. 学生時代:本郷の電気工学科に入学しましたのが、昭和20年4月でありますが、まだ東京空襲の盛んな頃でありました。私は、大崎と本郷とで2回、下宿先を焼出されました。その後、8月15日には、安田講堂内で終戦の詔勅をラジオで伺い、敗戦で終結したことを知りました。間もなく授業は再開され、普通に学生生活を送り、23年3月に卒業しました。卒業研究は、空胴共振器のQを測定して、導波管の減衰定数を求めることでありました。

2. 逓信省・電気通信省時代:卒業後すぐに逓信省に入りました。分野としては無線を選び、VHFの端局に配属になりました。搬送電話の長距離回線として我国で、無線が用いられたのは、昭和19年の東京・八丈間のVHF回線を始めとするのですが、昭和21年に、東京・大阪間のVHF回線が出来ました。それらは、電話6チャンネルだけのものでした。私は、建設中の東京・新潟間のVHF回線の東京の端局に入った訳であります。その後、僅か6年後、昭和29年に、東京・大阪間のマイクロ波回線(電話360チャンネル)が完成し、VHF回線|ま,昭和30年二人ってから次第に撤去されて行きました。

3. 通研時代:電気試験所が分割し、電気通信省・通研が発足して拡張するに際して、昭和25年に通研に移りました。通研では、マイクロ波の開発が一段落し、新たに、ミリ波の導波管伝送の研究を小規模で始めましたが、私は、そのプロジェクトに入り、理論的解析、導波管コンポネントの開発及び回線設計などに従事しました。ミリ波の研究は、アメリカのベル研究所の仕事をお手本に始めた訳でありますが、10年後には、追いついて、昭和40年頃には、通研の講堂で、ベル研と合同シンボジウムを開く所まで進みました 青図は、ほぼ完成しましたが、アメリカで実用しなかった事もあって、当時、周波数帯域が、それ程必要なかった事と、経済的理由などの為に、実用化しなかったのは残念であります。アメリカで、行わなくとも、我国で、強引に、一つの地域ででも、実用化していたならばと悔まれる所であります。

通研のミリ波の研究グループは、自由で、活気にみちて居りました。又、通研の図書館の蔵書はよく揃っており、素晴しいものでした。

4. 航研、宇航研及び境界研時代:東大航研では、航法と航行援助などを開発する計測部と言う部があったのですが、そこで、無線関係の人が必要であると言う事で、私が参加する事となりました。昭和38年の事であります。

そこでは、私の専門の仕事の他に、三次元レーダやドップラ航法どの開発のお手伝をしました。又、後には、マイクロ波を用いた航空機の着陸装置の基礎研究を行いました。

大学院の講義として、「アンテナ工学」を担当して参りました。大学3年生以来、38年に亘って、「電磁波工学」に関する研究を行って来た訳でありますが、その間、多くの新しい発明・発見に刺激されて来ました。それ等は、トランジスタ、表面波伝達線、フェライト応用、パラメトリック増幅器、メーザ、エサキダイオード、レーザ、ガン発振器、インバット、光ファイバ等であります。

又、宇宙研に在籍していた事と、電気学会の電磁界理論研究専門委員会に属していた事もあって、この数年間、一般相対論の学習をして参りました。何か出るかも知れないと一撲の望みをもって始めた訳でありますが、退官となっては、続けられるかどうか不明であります。宇航研も自由の気にみちており、その教授会の議論は活気があり、興味深いものでありました。

終わりになりましたが、之まで、同窓会の皆様から、大変良くしていただきましたが、今後とも宜しくお願申し上げて、筆を擱くことと致します。

(昭和23年3月卒 東京大学工学部境界領域研究施設教授)

<29号 昭60(1985)>

【30号】阪本捷房先生を偲ぶ/宇都宮敏男

阪本捷房先生は昭和42年に東京大学を定年ご退官になり、引続き東京電機大学教授、同学長、同名誉学長として、また株式会社東芝顧問として、まことにお元気でご活躍になっておられました。その阪本先生が昭和61年4月2日東京電機大学入学式にご出席のあと、大学でご休憩中に突然お倒れになったとの報せがあり、続いて救急入院先の駿河台日本大学病院でご逝去との連絡を受け、呆然としてしまいました。

霊安室でご遺体を拝するまでは信じられませんでした。まことに悲しいことですが、同窓会報にこのことを記載し、皆様と共に先生のご冥福をお祈りし、明子夫人はじめご遺族の方々に哀悼の意を捧げたく存します。

先生は明治39年(1906年)7月16日のお生まれなので満79才でした。私の入学した昭和16年頃既に喘息発作で時々休講になることがあり、確か昭和40年には入院なさったこともあったのですが、その後は非常に調子よくご持疾を克服されておられました。その理由は丹念に服薬と健康状態の関係の記録と分析をなさっておられることでした。本年正月にお宅に伺ったとき前歯が摩耗していることを気になさっておられましたが、大部分義歯の私などは思いも及ばぬ程ご丈夫な歯をお持ちで、渋沢先生のようにご長命であろうと期待しておりました。ただ最近は糖尿の気があり、慎重に健康管理をなさっておられることは伺っておりましたが、突然の脳出血が原因で急逝なさるとは全く思い及ばぬことで誠に残念でございます。

阪本先生は昭和4年に東京帝国大学電気工学科を卒業され、同年5月工学部講師、同7年3月助教授、同17年7月には教授となり、ご定年まで38年間東京大学に貢献なさいました。

先生の講義は電磁気測定、高周波工学、電子管回路、通信工学ほか電子通信工学分野を広く担当され、簡潔・明快な講義として定評がありました。ご研究はまさに現代エレクトロニクスの日本における草分けのお一人として、学位を得られた信号変調法、天覧に供せられた光通信、音声、電子回路、超高周波、超低周波、そして後年最もご尽力になった医用電子工学へと展開されました。学科内で昭和19年以来先生が組織し、主宰された高周波談話会は、電力周波数以外のすべての周波数領域に亙るエレクトロニクス研究交流の場であり、多数の若手教員、大学院学生、研究生の研究を励まされました。阪本先生のご研究の成果は私の知る範囲でも23篇の著書、約290篇の論文として、また43件の特許・実用新案の登録となってご公表になりました。

また先生の工学部の発展に対する貢献は絶大であります。第二次大戦頃の通信工学2講座の新設、戦後の新制大学への移行、電子工学科の新設、それに続く工学部大拡充の実現、などの変革期に学科長老として、評議員、工学部長として大層ご尽力になりました。

学会に対するご貢献も枚挙に暇がありません。電気通信学会・テレビジョン学会・電気学会の会長、日本ME学会初代会長に推挙され、また国際医用上体工学連合の会長、IEEE東京支部長もお務めになり、すべて名誉会員に推戴されている事実にとどめます。この他、文部・通産・郵政・厚生の各省の電子工学関連の審議会の委員として、またNHK・NTT・国鉄ほかの顧間として、社会の進展に寄与されました。以上のご功績により勲二等旭日重光章を始め官界・学界の数々の賞をお受けになりました。

大学の教授室に伺うと、先生の書棚は常に整頓され、諸記録の整理には驚嘆するばかりでした。先生は日本将棋連盟6段(追贈)・日本棋院3段で、すばらしい記憶力・思考力をもってあらゆることに当られたことは敬服の一語に尽きます。喜寿を迎えられて「厚みと含み」(昭和58年)、「続厚みと含み」(昭和59年、いずれもコロナ社印刷)をご上梓になりました。拝読すると先生が後進に伝えようとされたことで一杯です。戦後の貧しい世相の中でいち早く東大電気懇話会を組織され、学科内にグンスパーティを持込まれ、学生とブリッジ競技会をなさったなど思い出は尽きません。電気・電子工学科に本年2月にお見えになり、先生の学生時代の講義ノートと先生ご自身の講義録を寄贈されたとのこと、感銘致しました。情報時代を迎えて、人工知能に先生の頭脳のほんの僅かでも移植できればとひそかに思っておりましたが、いまはご本を頼りにするほかありません。

(昭和18年卒 東京大学名誉教授、東京理科大学教授)

<30号 昭61(1986)>