【25号】藤岡市助博士の銅像/佐波正一

現在の東芝は、軽電関係をその主要製品としていた東京電気株式会社と、重電を主体としていた芝浦製作所が、昭和14年に合併してできたものであるが、国電川崎駅西にある堀川町工場は東京電気の本拠として、マツダ照明学校やマツダ研究所などと共にその中心的存在であった。この堀川町工場の構内には銅像があって、かつては東海道線の車窓からもフロックコート姿の立像が望見されたそうであるが、惜しいことには戦時中に供出され、その代用品としてコンクリート製の胸像が、僅かに面影を止めていた。これは東京電気株式会社の創始者、藤岡市助博士の像であったのである。

最近、これを銅像として復原することとし、昭和55年10月には完成を見るに至ったが、その工事中の5月のある日、銅象の台座を壊したところ、その中から古びた銅板製の箱が一つでてきた。蓋は厳重にハンダ附けで密封されており、寸法は大体、320X230X80位のものであったが、それを開けてみると、中には更に桐の箱が納められてあり、その中には160ページほどの和紙を綴じた、一冊の文書が入っていた。表紙には「工学博士藤岡市助君寿像建設之由来」と題字が記され、桐箱の中には樟脳が入れてあり、封が完全であったので一部はそのまま残っていたが、桐箱の内側に昇華したものの結晶が附着していたほどである。従って文書の状態は完全に近く、変色もしていなければ虫食いなどは勿論ないもので、これを作成した人々の苦心のあとが偲ばれるものであった。

この建設由来書によると、藤岡博士の銅像は大正3年11月に当時の日本電気協会書記長・河西璞、東京電球製作所・根岸鉄太郎、電気世界社主・三浦覚玄の3氏の発起により、東京電気業組合副頭取・沖馬吉、同理事・青山禄郎の2氏、更には東京帝国大学教授・山川義太郎、浅野応輔の両先生、及び東京電灯株式会社社長・佐竹作太郎、同取締役・中原岩三郎、東京市電気局技師長・児玉隼槌の諸氏が相寄り建設委員会を組織し、当時の学界、電気事業、電機製造業、一般産業界に呼び掛けて各界の錚々たる発起人361名の参加を得、建設趣意書を発表して大正4年4月に寄附金の募集を開始、大正5年10月に竣工したということである。

この趣意書を見ると次の如く記されており、今日の電気事業あるいは製造業の盛況と照らして合昔の感に堪えない。即ち『工学博士藤岡市助君、本邦電気界二於ケル功績ハ縷々絮説ノ要ナカルヘシ、君夙ニ大勢ヲ達観シ電気事業ニ従事シテヨリ正ニ三十年ヲ経タリ、顧フニ現下本邦電気鉄道延長一千哩ノ盛観ハ君力創意二淵源シ、無慮六百万ヲ算スル本邦電灯事業ノ発達ハ君力設計二基因ス、加之君ハ更二自ラ電気機械及白熱電球製造ノ締ヲ開キ電気事務所ヲ設ケテ電設事業ノ範ヲ示シ、斯業界ノ機関トシテ日本電気協会ヲ設立スル等本邦斯業ノ発達ヲ世界的進歩二駢行セツムヘキ一切要素ノ完備ニ犠牲的努カを借シマサリキ……(後略)』とある。発起人の名簿を見ると、電気・電子工学科同窓会名簿の明治13年から、同37年に至る間の卒業生の大部分が網羅されており、その他、当時の実業界の名士多数が名を連ねている。寄附金は個人の場合は原則として5円以下と定められているのも面白い。合計1433口、16,113円41銭が集まったと記されている。

余談であるが、寄稿者の中に明治41年卒業の小生の叔父川戸洲|三の名を金3円也という金額と共に見出したことも興味深かった。この叔父は芝浦製作所に入り、開発担当の発達係という仕事に携わって、米国GE社などにも勉強に行ったことがあるが、大正9年に若くして惜しまれながら世を去ったので、大正8年生れの小生とは言わばすれ違いで、面識がなかっただけに感銘深いものがあった。

藤岡市助という名前を最初に聞いたのは、多分大山松次郎先生からで、入学後間もない頃ではなかったかと思う。電気工学科の曙の時代の話をされた中で、明治11年にエアトン先生指導の下に藤岡市助、中野初子、浅野応輔の3氏が、わが国で初めてアーク灯を点灯したという、今日の電気記念日の起源にまつわる話に関連してであった。

その後、藤岡博士はわが国最初の5kW分巻発電機を設計、三吉電機工場において製作し、明治18年11月には東京銀行集会所の落成式典の際、40個の白熱電球を点灯したりしたが、明治19年には、工部大学助教授の職を抛って、東京電灯の技師長に就任した。電気事業の経営に尽力する傍ら、国産白熱電球製造への情熱やみ難く、明治22年末にはその試作にとりかかった。その時の電球製造機械は、先に藤岡が欧米視察に外遊した際、英国においてペリー氏(元工部大学校教授)の斡旋で購入したもので、倉庫の中に眠っていたものを利用したという。試作を進めている中に、藤岡はこのような重要な仕事は東京電灯の付帯事業とせず独立した経営でなければ発長の見込はない、と考えるに至り、三吉電機工場の経営者である三吉正一に協力を求め明治23年4月、白熱電球の製造を目的とする白熱舎が創立されるに至った。これは我が国最初の白熱電球製造事業で、後の東京電気株式会社の前身である。白熱舎には東京電灯社長の矢嶋作郎らも出資し、資本金2,000円であったという。創立の年の8月には初めて12個の電球製造に成功している。

昨昭和55年10月末の秋晴れの吉日、 復原のなった藤岡市助博士の銅像の除幕が博土の三女に当たる戸川千代子さんの手により行われた。さんさんたる秋の日射しを浴びて参列した小生は、この100年足らずの間における電気工学の進歩発達に思いを馳せ感慨一入るのものがあった。

(昭和16年12月卒 東京芝浦電気(株)取締役社長)

<25号 昭56(1981)>

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