【30号】阪本捷房先生を偲ぶ/宇都宮敏男

阪本捷房先生は昭和42年に東京大学を定年ご退官になり、引続き東京電機大学教授、同学長、同名誉学長として、また株式会社東芝顧問として、まことにお元気でご活躍になっておられました。その阪本先生が昭和61年4月2日東京電機大学入学式にご出席のあと、大学でご休憩中に突然お倒れになったとの報せがあり、続いて救急入院先の駿河台日本大学病院でご逝去との連絡を受け、呆然としてしまいました。

霊安室でご遺体を拝するまでは信じられませんでした。まことに悲しいことですが、同窓会報にこのことを記載し、皆様と共に先生のご冥福をお祈りし、明子夫人はじめご遺族の方々に哀悼の意を捧げたく存します。

先生は明治39年(1906年)7月16日のお生まれなので満79才でした。私の入学した昭和16年頃既に喘息発作で時々休講になることがあり、確か昭和40年には入院なさったこともあったのですが、その後は非常に調子よくご持疾を克服されておられました。その理由は丹念に服薬と健康状態の関係の記録と分析をなさっておられることでした。本年正月にお宅に伺ったとき前歯が摩耗していることを気になさっておられましたが、大部分義歯の私などは思いも及ばぬ程ご丈夫な歯をお持ちで、渋沢先生のようにご長命であろうと期待しておりました。ただ最近は糖尿の気があり、慎重に健康管理をなさっておられることは伺っておりましたが、突然の脳出血が原因で急逝なさるとは全く思い及ばぬことで誠に残念でございます。

阪本先生は昭和4年に東京帝国大学電気工学科を卒業され、同年5月工学部講師、同7年3月助教授、同17年7月には教授となり、ご定年まで38年間東京大学に貢献なさいました。

先生の講義は電磁気測定、高周波工学、電子管回路、通信工学ほか電子通信工学分野を広く担当され、簡潔・明快な講義として定評がありました。ご研究はまさに現代エレクトロニクスの日本における草分けのお一人として、学位を得られた信号変調法、天覧に供せられた光通信、音声、電子回路、超高周波、超低周波、そして後年最もご尽力になった医用電子工学へと展開されました。学科内で昭和19年以来先生が組織し、主宰された高周波談話会は、電力周波数以外のすべての周波数領域に亙るエレクトロニクス研究交流の場であり、多数の若手教員、大学院学生、研究生の研究を励まされました。阪本先生のご研究の成果は私の知る範囲でも23篇の著書、約290篇の論文として、また43件の特許・実用新案の登録となってご公表になりました。

また先生の工学部の発展に対する貢献は絶大であります。第二次大戦頃の通信工学2講座の新設、戦後の新制大学への移行、電子工学科の新設、それに続く工学部大拡充の実現、などの変革期に学科長老として、評議員、工学部長として大層ご尽力になりました。

学会に対するご貢献も枚挙に暇がありません。電気通信学会・テレビジョン学会・電気学会の会長、日本ME学会初代会長に推挙され、また国際医用上体工学連合の会長、IEEE東京支部長もお務めになり、すべて名誉会員に推戴されている事実にとどめます。この他、文部・通産・郵政・厚生の各省の電子工学関連の審議会の委員として、またNHK・NTT・国鉄ほかの顧間として、社会の進展に寄与されました。以上のご功績により勲二等旭日重光章を始め官界・学界の数々の賞をお受けになりました。

大学の教授室に伺うと、先生の書棚は常に整頓され、諸記録の整理には驚嘆するばかりでした。先生は日本将棋連盟6段(追贈)・日本棋院3段で、すばらしい記憶力・思考力をもってあらゆることに当られたことは敬服の一語に尽きます。喜寿を迎えられて「厚みと含み」(昭和58年)、「続厚みと含み」(昭和59年、いずれもコロナ社印刷)をご上梓になりました。拝読すると先生が後進に伝えようとされたことで一杯です。戦後の貧しい世相の中でいち早く東大電気懇話会を組織され、学科内にグンスパーティを持込まれ、学生とブリッジ競技会をなさったなど思い出は尽きません。電気・電子工学科に本年2月にお見えになり、先生の学生時代の講義ノートと先生ご自身の講義録を寄贈されたとのこと、感銘致しました。情報時代を迎えて、人工知能に先生の頭脳のほんの僅かでも移植できればとひそかに思っておりましたが、いまはご本を頼りにするほかありません。

(昭和18年卒 東京大学名誉教授、東京理科大学教授)

<30号 昭61(1986)>

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