【29号】西千葉に学んだ頃/三田勝茂

昨59年11月、東大第二工学部電気工学科を24年に卒業した私達の35年会が高輪の八芳園で開催された(ちなみに30年会は一工、二工の電気合同で開かれた)。

私の学部生活は終戦の直前から直後のことで、特に戦後は電力不足のため毎晩停電がつづき、缶詰の空缶を使ったロウソクの灯の下で勉強した頃である。当時は水力発電が主であったが、現在は発電電力量の約20%が原子力でまかなわれ、電気をふんだんに使える時代になっている。この日丁度、中国電力島根原子力発電所の2号機の起工式に出席したあと会場にかけつけた私には35年前を振り返り感慨の無量なるものがあった。

このような日本の復興と発展には出席された星合、後藤、高木、森脇、澤井、斉藤、安達の諸先生方は勿論、私達クラスメート全員も大きく貢献されたものと思う。

私が大学に入学したのは昭和20年4月、戦争末期の頃であった。高等学校も非常事態と言うことで3年が2年に短縮されて卒業のあと校舎が西千葉にあった第二工学部航空機体学科に入学した。4月早々本郷での入学式に出席すべく家を出たが、途中で空襲警報が発令され国電上野駅で降り、上野公園の防空壕に避難させられた。警報が解除されたのは昼近くであり、おかげで晴れての入学式には出席出来なかった。

西千葉の学部には品川区にあった自宅から通学したが、片道2時間ほどかかり又空襲が夜、昼頻繁で大変であった。入学早々の5月には県内、横芝の農村に1ヶ月ほど田植の勤労動員に出かけたが、この間に千葉市が空襲をうけ、航空機体学科他の校舎も焼失してしまった。こうしてその年の8月には終戦となり、航空機体学科は内容を物理中心のものに変え、物理工学科となったが、この間殆んど勉強らしい事が出来なかった私は21年電気工学科に転科、やり直すことにした訳である。

戦争中は強力な統制で物資も細々と出回っていたが、戦後はそれが効かなくなり、社会全般が混乱した極端に物不足の状況であった。特に食糧事情が悪かったが、この点西千葉は生産地に近く東京よりは少し楽であったように思う。校庭内の空地を利用してさつま芋畑等を作る学生篤農家も多く出現したものである。私自身も下校の途中、しばしば稲毛の海岸に立寄り、潮千狩りをして食料不足への一助にした事が思い出される。校舎はゆったりとした郊外の地に散在し、又緑にかこまれ、本郷とは異った味いのあるものであったように思うが、習志野に近いせいか特に春は土ほこりがひどくこれには閉口させられた。然し春青時代(それはひどい状況下であったが)を過した西千葉の地には今もって愛着を感じている。

学生生活も終りに近づきいざ就職となると、戦争直後のこととて工業全般がまだ立上っておらず、大変な就職難であった。就職のお世話をして下さったのが当時主任教授の星合先生であった。当時私は海外に雄飛してみたいと考え、商事会社への志望を先生に申し上げたところ、折角お国の費用で電気工学を勉強した身であり、又商社と言っても財閥解体で小さい会社に分裂している状況で余りすすめられないとのお話であった。第二志望としては一見矛盾しているようだがスケールの大きい仕事であると言う共通性から当時の商工省電力局をえらんだが、結局こちらの試験日が先で、それに合格したので商社の方は受験しなかった。

ところが、この昭和24年は官庁の採用制度が大きく変更された年で、新しく人事院がもうけられ、人事院試験に合格、各省に推薦を受けることが義務づけられた。この年は初年度なので人事院試験が各省試験のあとになった訳である。電力行政の仕事をやるのだからと簡単に考え、専門職でなく行政職を受験したが2次試験の面接時、専門職を受験すべきと指摘されびっくりした。その後合格通知が来たものの、商工省への推薦が得られず、結局失敗に終ったが、結果が判明したのは4月になってからであった。この年、同じような失敗をした人が少なくなかったようである。

このあと星合先生のお骨折りで日立製作所に入社することになった。聞けばこの4月入社して工場に配属された人が都合で退職してしまったので、その代りに採用しても良いとの事で、早速入社試験を受けたが、このような事で就職がきまったのは5月下旬になってからで、結局6月1日付の入社となった。

赴任した先は茨城県日立市にある多賀工場で、お隣りの日立の本拠とも言うべき日立工場はまだ空襲で破壊されたままの状況であった。あとで開いた話であるが、当初志望した商事会社はその後数年して倒産してしまったとの事である。

当初の考えとことなり、地方の工場で設計の仕事をやる事になったが、物を創るよるこびを知る事が出来た。電力機器の制御、保護をする配電盤の仕事を長くやったが、その後種々のエレクトロニクスの仕事を担当した。この間、アメリカに留学したり、仕事で海外に出かけたりで、結構当初の希望ま満されたようである。こうして茨城と神奈川の工場に計27年間過したが、工場での仕事は経営の勉強も出来、それが今日大いに役立っている。

就職に際しては兎角、目先つ華かさや待遇に目がうばわれ勝ちであるが、星合先生から長期的視野にたっての御指導を頂き、今日に至っている事に対し、今もって感謝の念で一杯である。

星合先生は東大を退官後、奇しくも日立製作所の理事、中央研究所長になられ、その後、名誉所長として現在もお元気て所究者の御指導を頂いているのはよろこばしい限りである。

今迄の人生を振り返ってみると、どれ一つ、巡り合わせが狂っても全く異った道を歩んだ事であろうし、人生とは何か自らの意志以上のものに大きく左右されているように感じてならない。

(昭和24年二工卒、(株)日立製作所社長)

<29号 昭60(1985)>

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