【28号】毛並みの悪い東大出/山本卓眞

もうかれこれ二十年前になろうか、電車の中吊り広告の雑誌(サンデー毎日)の記事見出しに“毛並みの悪い東大出”とあるのを通勤途上で見つけ、何やら面白そうではないかとつぶやきながら買って読んでみた。昭和二十一年からの二、三年間に入学した学生は、戦中戦後の混乱の中で離合集散の結果転学・復学したり、航空・造兵など廃止された学科から電気へ転科したり、また特に、一割の制限をうけながらも復員してきた旧軍人あるいは陸軍士官学校・海軍兵学校の上級生などから成り立っていた。当然のことながら四修・一高・東大といわれる順当コースの人は少なくとも二十四年卒の私達のクラスには皆無であった。かくてこの世代の東大出は多かれ少なかれ道草を食ったり、多少捻れ加減の道を歩んだり、軍から転換したりの異色集団であり、いわゆる“毛並みの悪い”部類に属するのだそうである。“何だつまり毛並みが悪いとはオレ達の事か”と腹を抱えて笑ったのはいうまでもない。

この記事は、われわれ異色世代を若干シニカルではあるが、まずまず余計な感情批評を入れずに書いてあったと記憶している。さて私にとっては、このクラスメイト達は異色混合集団であるだけで、極めて味のある大切な精神的資産である。友人達はすべて運命に弄ばれて多少なりとも挫折し、また一億総貧乏の中でそれぞれ生活に苦労しながらも明るさを失うことがなかった。卒業時代は就職難の時代でもあった。今日思うと先生方もいささかとまどったり、苦労もされたことであろう。

この記事の後何年か経た頃、小学生だった私の息子がガールフレンドと喧嘩のはて“キミのおとうさんは東大出といっているが終戦のドサクサに紛れこんだに過ぎない。今日受けてみたら入れる筈がない”とやりこめられて困惑の態で帰ってきた。私が再び腹を抱えて笑ったのはもちろんだが、 息子は“親父本当か”と聞く。そこで笑いながら“残念ながらそれは本当だ”と答えると、息子は一層撫然とし、以後親父の権威は一層失墜した。

“残念ながらそれは本当だ”と答えたことについては私なりの実感がある。当時の満州から帰って一旦九州に落着き、大学受験を決意して上京したのが二十一年一月下旬で、受験までは幾許の日数もなかった。加えて食料事情は最悪、本を買う事は古本を探すことであり、暖を採るとは小さな電熱器にしがみつくことであった。外国語が試験科日にあることは判っていたが、私がかつて幼年学校で二年間学んだドイツ語で受験出来るかどうかもはっきりせず聞く人によって答が違っていた。そこで慌てて中学一年程度の学力しかない英語に挑んではみたもののそこには絶望との闘いがあるだけであった。他の学科も五十歩百歩である。こうなってはもう徹底的に山をかけるしかないという訳で勉強の焦点を絞りに絞った。語学はドイツ語が出ればよし、英語でなければ駄目ならすべてを諦めて来年再度挑戦と肚をきめた。山はよく当った。喜んで記入したのも多かったが白紙のままというのも少なくはなかった。一番の傑作は化学の試験前の休憩時間に航空士官学校時代の戦友で電気工学へも一緒に入った岡崎久君が見ていた参考書だったかノートだったかに書いてあったいわゆる亀の子-分子式-をのぞき見していたら、一分後に試験でそれがそっくり出ているではないか。忘れないうちにとイの一番に解答を記入したのは言うまでもない。そしてドイツ語も出た。しかし如何せん勉強の量が足りない。総合的な結果は惨憺たるものであった。合否の発表を見に行くのは時間と費用の無駄であるばかりでなく、来年の再挑戦の意欲を削ぐ効果もあろうから行かなかった。大学から速達が来たのは四・五日後であったであろうか、さすが大学と軍隊とは違う。落ちた者にまで速達で知らせてくれるなどと感心しながら開封し、合格の字を見てもまだ不の字が落ちていないかと再三ためつすかしつして見たのを覚えている。

思えば当時の受験生は総じて学力が低下していたから随分と水準を下げて入学させたのかも知れないし、私の場合は幸運に恵まれたことは間違いない。そして、当時の旧軍人に対する世間一般の冷たい雰囲気や、 GHQの管理下という制限はありながらも大学側は差別感なく旧軍人の学生を受入れ、また級友達も自然にわれわれを受入れてくれた。とにかく一緒に出直すか!といった雰囲気だったのである。

入学してみて大学とはかくも授業に出なくてよいものかというのが第一印象であった。しかし級友達が出て来ないのは、一つには転科生が多いので既に単位を持っている為出る必要がなかったこと、もう一つは生活が大変で皆何かやらねば食っていけなかったからで、私も農繁期にはイモ掘りに忙しくて一週間位連続欠席し級友立沢宏君が手伝いに来てくれたりした。

夏休みの工場実習も傑作であった。藤木勝美君と一緒に行ったその町工場では新製品の設計をたのまれ、試作品のテストをし、売込みにまで同行させられたが、卒業する頃には潰れてしまった。作業台を並べて仕事をした工員さん達は今何をしているだろうか。

こんな風にして私達の世代は学生時代を送った。しかし私は級友達“毛並みの悪い東大出”がその心の中に、困難な時代を生き抜いてきた自信とともに戦後の日本の経済復興に微力を盡してきた誇りを秘めていることを知っている。それはクラス会での思い出話や今日的な世間話の背景に流れる同一世代の共感なのである。

(昭和24年卒 富士通(株)社長)

<28号 昭59(1984)>

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