【26号】定年を迎えて/宇都宮敏男
昭和16年4月から学生として2年半、大学院特別研究生として5年、文部教官となって33年余り、通算40年を本郷の、しかも工学部3号館を主たる拠点として通い続け、間もなく定年を迎えることになった。還歴までの3分の2という長さに今更のように感じ入っている。この間、私は故西健先生を最長老とすら電気工学科の家庭的な雰囲気の中でまずスタートし、以来連綿とした恵まれた学生生活と教員生活を送ることができたという感謝の気持が一ぱいである。
山下英男先生が実習の担当で、私達の年度は2年生での夏季実習を非公式ながら薦められ、私は満州電業株式会社を志望し、現中国東北地方の阜新火力発電所に赴いた。3年先輩の故鹿野義夫氏(昭16・3卒業)に可愛がられ、人生意気に感じて、3年生の正規の実習も再び同所に行った。今度は厳冬の2月からか2か月余り、5万kVA発電機増設の現場で、主制御卓の上にある照光系統表示盤の配線工事を任され、これを完成し面目を施した。帰って間もなく就職先を定めることになり、西先生に満州電業就職の希望を申し上げた。重要企業への就職割当(切符)制度があり、先生から電業もよいが、ここの講師の切符もあるよといわれたことを思い出す。卒業後すぐ兵役が控えておることもあって、私は電業を選んだ。このまま進めば私は電力技術者になったであろう。
海軍の短期現役を志願し、合格した。その後、特別研究生制度が生まれ、級友の小口文一、中原裕一両氏とともに特研生になる決心をしたのだが、心底では軍隊に入るよりは徴兵延期できる方を選んだわけである。戦争はレーダ技術などの遅れがあって大変だというわけで、マイクロ波をやることになり、前記小口、中原氏とともに阪本捷房先生の研究室に入った。これで私の方向は大転回したことになった。マイクロ波受信に関しては結構ものになって、岡村總吾当時海軍技術士官、柳井久義当時陸軍技術士官の2先輩の指導で、陸海軍の現地実験にも参加し、手造りの鉱石変換器を主体とするレーダ受信機は当時の最高性能を発揮したとひそかに思っている。終戦直後から肋膜炎となり、しばらくぶらぶらしたが、特別研究生のまま“特別”に大目に見て下さったことは本当に有難かった。
昭和23年9月特研生が満期となり、やや病弱に見えた私を教室に残して下さったのが、以後の人生を決定的にしたように思う。戦時中技術士官だった岡村、山村、柳井3先輩、逓信省から来られた尾佐竹、ずっと研究室におられた瀧、以上の諸先輩助教授の末席に連なり、3号館2階正面両端のガンルームでの“同居”生活はまことに思い出深く、電気工学科の“家庭的”雰囲気はこんな環境があったからだと考えている。
その後、再び1年間療養する破目になった。幸いといおうか、阪本先生がMEを掲げて医学部の先生と協力研究を推進しておられ、東大病院の樫田良精先生がよく研究室に来られ、私的な健康相談にものって下さった。夏休に田官寿美子さん等と富士登山しようかという気になり、念のため胸のX線写真を撮ったら、肋膜炎のあとがよくないとのことで登山をあきらめた。結局手術ということで、東大病院で“合成樹脂球充塡術”を受けたが、結果は大へん良く、以来30年余り無事過ごすことができている。この手術は一時流行したが、後に事故が起こり、殆どの人は再手術で合成樹脂球を摘出しているという。このままで過せたなら、私の死体は解剖してもらってもよいと思う。医学技術の進歩で結核による死から救われたということが、私もMEに入って阪本先生の開拓された分野に微力を尽くすことになった一因といえる。
大学生活全体を総括すれば、どうも研究成果はお恥かしい限りであるが、できる範囲では一所懸命やったという満足感がある。最後の2年間は学科の就職の世話、図書行政のほか、教授会議長、評議員というような重責を負い、目の回るような毎日であったが、それなりに私自身の為にもなった。電気・電子工学科の多くの教職員のお世話になり、また同窓卒業生からもいろいろと御支援を頂いたお陰と深く感謝している。
幸い4月以降については私立大学からのお招きもあり、当分は東大での経験を生かして教育、研究を続けていけるものと期しており、同窓の皆様から従前通りに御指導御鞭達頂くことを切に願っている次第である。
(昭和18年9月卒 東京大学工学部電子工学科教授)
<26号 昭57(1982)>