【27号】古賀逸策先生を偲ぶ/坂本捷房

古賀先生は東京大学を御退官後、国際電信電話会社で研究生活をしておられましたので同社の難波捷吾氏からは時々先生についての情報が私の許まで伝えられておりました。先生が脳硬塞のため東京逓信病院に入院されているということを聞きましたのは昭和57年の7月でした。同病院の脳外科部長堤裕博士は昔からの知人でしたので早速同部長を御訪ねし、先生の御容態が尋常でないことを詳細に知り鷲嘆すると同時に何とかして再び回復されることを願ったのは云う迄もありません。併し9月3日の新聞は一斉に先生の御逝去を報ずるというようなことになりましたのは私共同窓生として残念この上もないことであり、皆様共々御冥福を御祈り致す次第であります。

古賀先生は大正12年東京帝国大学工学部電気工学科を卒業されると共に大学院に入学され、傍ら東京市電気研究所の嘱託として仕事をしておられましたが、大正14年東京市の技師に任命されると共に大学院を退学し、昭和4年まで電気研究所で無線通信の仕事をしておられました。昭和4年東京工業大学が開設されるに当り東京帝国大学の鯨井教授が電気工学科の設立に尽力されることになりました。それには先づ教官の充実を図る必要があるとの見地からその1人として古賀先生を助教授として迎えることになりました。

その後昭和21年に東京大学に移られるまでは東京工業大学に於て研究と教育に従事しておられました。東京帝国大学には大正14年以来昭和19年まで講師として学生の教育に関与せられ、昭和19年からは兼任教授として、更に昭和21年からは専任教授、昭和31年には評議員、昭和33年には工学部長を勤められ、昭和35年定年御退官後は名誉教授になられました。

先生の研究業績は270編にものぼる論文に示されておりますが、就中分周器(FrequencyDemulti plier)(昭和2年)と、温度変化の少ない水晶振動子(昭和7年)の御研究はあまりにも有名であります。 同先生の研究に対する真摯な態度は誰でもが敬服するところでありまして、例えば水晶振動子にその例をとってみても、まず弾性学の研究から始めて根本的にその論拠を明確にし、その理論を基にして新しい面を開拓して行かれる姿は私どもの鑑とするところであります。

これらの結果として昭和9年には電気学会より浅野博士記念祝金、昭和14年には10大発明家の1人として宮中にて賜餐、昭和19年には毎日通信賞および技術院賞、昭和20年には服部報公会賞、昭和23年には日本学士院賞、昭和25年には電気通信学会功績賞、昭和26年には電気通信大臣表彰、昭和31年には紫授褒章、昭和35年には放送文化賞、昭和37年には郵政大臣表彰等数々の栄誉を受けられましたが昭和38年には文化勲章を受章せられ、その御功績は一段と顕著なものとなりました。

先生は教育に対しても非常に御熱心であり、御講義は御自身でよく消化して後、その物理的意味を工学的に明確に御話し下さることは有名であります。大学教官としては研究能力と教育能力とを兼ね備えていなければならないというのが先生の信念であったように感ぜられます。

日本の工業教育をどうすべきであるかという点に関しては終戦後米国との関連を持ちつつ非常な努力をされました。GHQ内にあるCCS(Civil Communications Section)の Mr.Polkinghornの提案により大学と企業との関連を深め、工業教育の意義をそこに見出そうということで日本側の中心になって大いに活躍されました。私もその御手伝をしてGHQに行ったり、大学教授と企業の社長との会合を持ったり致しましたが、同先生は常にその中心となって全体をリーしておられました。その結果昭和25年1月GHQの勤奨により米国の大学を視察するため外遊されました。その後何人かの日本の教授が同じ目的で外遊されましたが、 これが今日の電気教官協議会および日本工業教育協会の根源になっております。すなわち同先生は戦後における日本の教育はどうあるべきであるかという原点に立たれた訳であります。今日に於ける大学教育を省みます時、終戦直後における同先生の教育に対する御指導が立派に結実していることは否めません。

研究面に、又、教育面に幅広く御活躍になっておられました先生は、一方、学術界あるいは社会に向って顕著な活動をしておられましたとも見逃すことはできません。学会においては若い頃は編集幹事等で活躍しておられましたが、昭和22年電気通信学会会長、昭和32年電気学会会長となり、昭和39年電気通信学会名誉員、昭和40年電気学会名誉員になられました。又米国の学会であるIEEEの会員が日本国内でも増加するよう終戦後大いに尽力され昭和32年にはそのFellowになられました。国際的の会合としてはURSIに非常に力を入れられ、昭和38年東京でその大会が開催された時にはその中心となって世界各国から集まる会員と共に電波科学の発展に大いに貢献されました。そしてその後2年間その会長を勤められました。

社会的の関連としては昭和32年から電波技術審議会、昭和38年から電波監理審議会の委員を勤められ、特に昭和45年から2年間は電波監理審議会の会長として電波行政に尽力されました。そのほか昭和26年には放送技術審議会委員、昭和36年には国語審議会委員、同部会長、同副会長、昭和42年には中央教育審議会委員等数多くの委員会に関係して文部省、郵政省、日本放送協会等に尽された功績は数限りありません。

先生に関してのことは余りにも多く、その全部を記すことはとてもできませんので、ここにはその一端を記したに遅ぎませんが、この偉大なる先生を失いましたことは同窓会としても哀惜の極みに堪えません。謹んで哀悼の誠を捧げる次第であります。

(昭和4年卒 東京大学名誉教授 東京電機大学名誉学長)

<27号 昭58(1983)>

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