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【5号】学生時代の想い出/池田洋一

電気工学科の同窓会報に何か随想を書くようにといわれましたので、どうして私のような若輩が書かされるのかと聞きました所、今迄の例では毎年定年になられる先生方に御執筆願って来たが、今年は生憎(?)定年になられる先生が居られないので、趣向を変えて若手が書くことになったのだそうで、若手といっても多勢いる中で、私が書く羽目になったのは、専ら運が悪かったと思って諦らめろということであるので、仕方なく引受けすることにしました。

私は新制大学の第2回の卒業なので、卒業して既に満7年にもなることを考えると、月日の経つのは徒らに早いことに驚いておりますが、それでも諸先生方の30年、40年という御経験から見れば、まだまだ微々たるもの、大した随想の書けよう筈はないので、電気工学科時代の想い出を書くことで責を果せれば幸いと思います。

前にも述べましたように、私は新制度になってから大学に入りましたので、初めの2年は駒場で過し、本郷の方に来ましたのが昭和27年4月でしたが、丁度その頃はダンスの盛んな頃でして、私も悪友に誘われるままに多少踊れるようになっておりました。一緒に電気工学科に入ったK氏等も同じようにダンスの習い始めで面白くなった頃だったのでしよう。その中に、誰いうとなしに、二食(第2食堂)を借りてパーティーを開こうではないかという話がでましたのが、多分4月の終り頃だったかと思います。それではというので、上級生に相談しました所、賛成を得ましたので、では先生方と宜しく御相談願いたいと申し入れましたが、それは君達でやって欲しいということで、見事に逃げられてしまいましたそこで仕方なく、われわれで何とかしようということになりまして、同級のU氏と私が、電気工学科に入って1月経つか経たずの頃、大山(松次郎)先生の所ヘダンスパーティーの相談に行くという仕儀になってしまいました。

4月の終り頃か5月の初めだと思いますが、2人で恐る恐る大山教授室に入って行きまして、「実はパーティーを開かせて欲しいと思いますが」とお願いしました所、「そのような相談は電気工学科始まって数十年初めてである」ということで、一喝入れられましたので、どうなることかと内心心配しましたが、心よく(?)相談にのって戴けることになりました。最初は電気工学科を中心にして、一般にも公開するように思っておりましたが、大山先生の御意見で、先生方にも出来るだけ御出席願って電気工学科関係者だけにして、科の親睦パーティーにすることになり、費用の方は教授会で何とかしようとまでいわれましたので、U氏も私も一安心して帰って参りました。

このようにして、電気工学科第1回ダンスパーティーが開かれることになりましたので、屋上、教室の片隅等で涙ぐましい練習が開始されました。U氏が電車の窓よりダンスの看板を見て、わざわざ出かけて見た所、タンス屋の看板だったというエピソードを作ったのも、この頃のことです。

所で心配事が一つありました。というのはダンスというものは、古来より相手のいるものですが、果して相手になってくれる御婦人方に御集り願えるかどうかということでした。そこでK氏等と相談し、パートナー2人以上何人同伴しても、1人分の会費にしたら御参加願える御婦人の数も、少しは増えるであろうという珍案を考え出しまして、実行しました。

当日は諸先生方が、奥様あるいはお嬢様御同伴で御出席願い、中々の盛況でした。珍案の方も見事に予想通りなったのはよかったのでしたが、”過ぎたるは、及ばざるが如し”の譬の通り、御婦人の数が男性の2倍位にもなってしまい、聊か困ってしまいました。しかし何とか第1回の電気工学科のパーティーを無事に終ることが出来たのは幸いでした。

パーティーの翌日8時よりの第1時間目の授業は山田先生の電磁気学の講義でした。前日の気分が抜け切れなかったのか、それともまだ電磁気学という講義が始まって1~ 2ヵ月で試験も当分ないという気易さからか、皆がのんびりと講義を聞いていたのではなかったかと思います。9時頃になりましたら、これから15分間程休憩するから、章の終りに出ている練習問題を解くようにと先生にいわれ、やれやれ大変なことになったわいと思った所まではよかったのですが、その解答を黒板に出て書くようにといわれたのが何と昨日のパーティーの主謀者と目されるU氏等数人であったのには驚かされました。勿論私もその中に入っておりましたので、その時の驚きは御想像願えると思います。

その後1年経ちまして、私達も4年となり、再びバーティーを開くことになりましたが、その時は昨年のように御婦人の数が多くなり過ぎないようにとの御注意がありましたのを覚えております。

このようにして始まった電気工学科のダンスパーティーが私達の卒業後も開かれたという話を聞いたことがありましたが、今ではどうなったことでしようか。

(昭和29年卒 東京電力勤務)

<5号 昭36(1961)>

【6号】「捕雷役電」/渋沢元治

私は昭和15年であったか、大戦前の自宅書斉に掲げてあった「捕雷役電」の額を東京大学電気工学教室へ寄贈した。それが同教室会議室に掲げられているのでその謂れを述べる。

私は昭和12年であったか、ある雑誌から「書斉漫談」と題して乞はるるままに随筆を書いたからそれをここに再録する。

私は電気工学を学んだ者であるが、書斉に籠って万巻の書を繘くとか、数千頁もある大著述をするよりは実際方面への応用を主として来たから書斎にあっては先人の研究した基礎現象に関する著書や論文を味いまたは新刊学術雑誌で最近の世界に起った実例を。調べて自分が解決せんとしつつある問題に対し何んらかの暗示を得んとするのである。だから書斎は市中の雑音と家庭の面倒から離れた静かな所で中へ入れば自然と気も心も落着きさえすればよいと考えて設計して貰ったので極めて平凡なものである。

ただ私の書斎に一つ変った額がある。それは約30年ほど前(今よりは50年)この書斎を作ったとき、丁度その前年であったか私が工学博士の学位を得たので岳父の穂積陳重博士(重遠博士の父君)が自ら「捕雷役電」という語を選んで当時の彫刻界の大家蘭台氏に頼んで桜樹の木材に彫刻して貰って祝いに贈られた額である。

当時無線電話が数百メートルの間に試験的に通じたといって世人一般は勿論、学界でも驚異の限を以て視、電力の応用も漸く贅沢の域を脱しかけた位であったが、現時は無線電話の発達で全世界人類を一堂に会せしめたるかの感を起さしめ、また電気はなくてならぬ生活必需品となり電力事業は重要なる国策事業の一に数えらるるに至ったのは実に今昔の感に堪えない。

かようにわが日本国の興隆と歩を揃えて躍進的に発達した電気界の状況をこの室から眺めて来たのは聖代の余沢とはいいながら実に愉快至極であった。しかしまだ「捕雷役電」を自由勝手にすることは前途遼遠の感があるのは残念でもあるがまたわれわれをして大に発奮せしむるものがある。

(付記)この語の出所については生前穂積老博士に尋ねることを失念した。恐らくは博士自身の作ならん。

<6号 昭37(1962)>

【6号】電子工学科新設に伴う工学部3号館増築/阪本捷房

昨年の同窓会報にも述べてあるように、電子工学科は電気工学科と非常に密接な関係があるために、電気工学科と地理的に離れることは教育上にも研究上にも不便が多いことと、電子工学科新設に伴う建物の割当が約440坪で極めて狭隘であり、新築部分だけでは電子工学科の運営ができないために、従来電気工学科と船舶工学科が使用していた工学部3号館の屋上並びに中庭に増築を行い、且つ従来電気工学科の使用していた部分にも一部改修を加え、これと増築部分を一纒めにして、両学科の協力のもとに効果的に使用することにした。

屋上増築および改修部分は図1に示すように電子工学科および電気工学科の通信、一般電気の講座の研究室が各教官当り一室ずつ割当てられている。研究室の一部は恒温恒湿室になっている。その他に暗室などの共用設備がある。中庭の増築部分は図2に示すように、地上3階建で、1階(通称地階)は研究室と列品室、2階は製図室、3階は助教授室と製図室になっている。

以上のような増築に伴い、3号館の2階は、旧製図室と高周波学生実験室を電子工学科と電気工学科の合併講義用の講義室および書庫に改造した。旧書庫は細分して2教授室、 1助教授室、小会議室として、電子工学科と電気工学科の教官室は区別なしに、2階に集中している。


[(写真)工学部3号館増築]

3号館2階西側の研究室が4階に移転した跡は電子、通信学生実験室に改造した。3号館1階は大きな改修はなく、教室は電子工学科と電気工学科で共用している。3号館地階の学生実験設備の設置してある場所は従来どおりであるが、それに面する研究室は仮間仕切りであったのを、今回、本間仕切りにし、従来地下にあった研究室の一部4階移転に伴い、研究室の再配分を行った。上記のような改修と同時に旧3号館内部の塗装および照明設備の強化をはかり、体裁を一新した。

図1(クリックで拡大)

 図2(クリックで拡大)

工事の概要

建築面積:
A棟 中庭増築、 316.008m2(95.592坪)
B棟 屋上一階増築、 1,056.717m2(319.656坪)
合 計 1,372.725m2(415.248坪)
構造:
A棟 鉄筋コンクリート造、地階付2階建
B棟 鉄骨造(サーモコン造)屋上1階増築
外装:
A棟 モルタル塗り吹きつけリシン仕上
B棟 同 上
主要室内装:
A棟 床ロンタイル、壁プラスター、天丼石膏ボード、ビニールベンキ塗り
B棟 床マルケイ、壁モルタル、ビニールベンキ塗り、天丼石膏ボード、ビニールペンキ塗り

<6号 昭37(1962)>

【7号】伝送系としての東海道新幹線電気設備/国松賢四郎

鉄道が、人と物の輸送の面で、人間の社会活動に大きな貢献をしていることは申すまでもありませんが、丁度それと同様に、鉄道の中の電気部門は、電力と情報の伝送系として無くてはならないものとなっております。勿論、伝送だけが電気部門の機能のすべてではありませんし、発生、変換、保存等の重要な機能を度外視する積りはありませんが、今回は、東海道新幹線の電気設備について、特に電力と情報の伝送系としての一面に注目して、それらのシステムの基本的なことがらについて、お話したいと思います。

まず電力伝送系として見た新幹線電気運転設備の主要な課題は次の3つでしょう。

  1. 商用周波単相交流電化方式
  2. 50~60サイクル帯の貫通運転
  3. 高速度集電方式

新幹線を交流電化するか、直流電化するかについては慎重に調査した結果、第1に編成入力が10MVA位の電車を沢山同時に走らすためには電車モータ電圧を上げないで、変電所からバンタグラフまでの電圧だけを上げる必要があるので、パンタグラフと電車モータの間に変圧器が使用できること、第2に電化設備の建設費を経済的に設計できること、第3に現在線とは線路の軌間が違うので、その間の相互乗入れをしなくともよいこと等の理由から、商用周波単相交流電化方式を採用することに決定いたしました。

そうなってまいりますと、関東と中部関西地区の商用周波数の違いを処理せねばなりませんが、50~60両周波用電車が単用の電車と比較して重量が大きく、運転や車両修繕が複雑であること等を考慮して、架線電圧を60サイクルに統一することにしました。従って横浜と小田原には50~60サイクルの周波数変換変電所を建設中で、関東地区を走る電車にはここから60サイクルの電力を供給することにしています。

新幹線の設計で苦心した問題の一つとしてパンタグラフの高速集電方式があげられます。これは電気鉄道技術部門の重要課題として常に研究が続けられておりますが、電車の速度が今度の様に200粁/時以上になりますと、 従来の方式では安定な集電性能を得ることが困難で特に車上装置と地上設備の間の力学的な協調が大切となってまいりますが、私達は新しい電子測定装置の援けをかりて、高速性能の非常によい集電系を作りあげることに成功しました。

次に今一つのシステムである新幹線の情報伝送系について申上げましょう。まず鉄道固有の情報処理として、同一線路に先行している列車に関する情報の伝送と処理機構、いわゆる信号保安装置として、先行列車位置の検知には最も信頼度の高い軌道回路を使用することにしました。

そして、前列車との距離、進路の状態等から210,160,110,70,30及び停止の6段階の速度信号を運転手の前のパネルに現示して、自動的に制動をかける方式、いわゆるATC方式を採用いたしました。この方式を採用したことによって、運転の安全性が著しく高められ、同時に運転手は、地上信号機を、注視して制動をかけるという神経的に重い負担からも解放されました。

一方新幹線では駅間隔が平均50粁ですから常時的に運転手と中央運転指令員との情報交換のためには列車無線電話が必要になります。それもトンネルの中や山陰の路線でも安定な通信ができるという条件がつきますので、幾つかの方式について、試験を行った結果UHF帯の無線方式を採用いたしました。

そこで中央指令所に集って来る情報を整理すると、遠方監視装置を介して、各列車の位置、各駅の信号機とポイントの動作状態、各変電所と送電系統のき電状態、無線・有線機器の動作状態等が幾つかのパネルに表示され、電話を介して車上の各運転手各車掌や、現地の各作業員からの現況報告が入って来る訳です。理想的な形体を考えると、これ等の情報処理も、電子化された自動装置によって行うべきですが、目下の所はこれ等を数名の指令員によって処理することにしております。

このように、新幹線の機構の内で往復する情報の内容は非常に重要なものが多く、又高速度で送らなければならないので、高速符号通信を活用しております。一方路線にそって色々な設備、機関の連絡用に短距離通信路も必要となってまいりますので、しゃへい率の高い細心同軸複合ケーブルを採用しました。

以上で、伝送という面から見た東海道新幹線の電気設備の系統について述べましたが、残された紙面で新幹線の電車の電気部分の特徴についてふれましょう 先ず電気装置を全部床下配置にして、しかも軸重を軽量均一化するために非常な苦心がはらわれました モータは電車の全軸に配置されておって、駆動と制動の両面の働きをする脈流電動機です。従ってバンタグラフから受けた単相交流は床下に導かれてから変圧器、シリコン整流器によって脈流率数十%の直流に変換される訳です。又電動機と車軸間の動力伝達には、たわみ継手を用いていますから、台車の電気バネの使用と相まって非常に軽快な運転を実現しています。車内は完全な空調が行なわれ、どこからでも公衆電話が通じます。

現在、この様な電車を6両試作しまして、小田原付近のモデル線で毎日訓練運転をやっておりますが、その成績は私達が当初考えておりましたことを殆んど達成することができました。このように新幹線の地上車上の電気設備は、土木工事と平行して幸にして当初の計画通りにできあがりつつあり、更に私達は明年の営業開始をひかえて万全の準備を進めておりますが、ただ私達として非常に残念に存じておりますことは私達の計画が最近目覚しく進歩した電気技術を百%利用する時間がなかったことです。その様な諸点については開業後の改良工事として早急に実現して行きたいと考えておりますので、皆さんの今までにおとらぬ御援助と御指導をお願い申上げます。

<7号 昭38(1963)>

【7号】太平洋横断ケーブルの話/木村光臣

国際電信電話会社ではアメリカ電話電信会社及びハワイ電話会社との共同事業として、今度大平洋横断電話ケーブルを建設することになった。大平洋横断といってもハワイ、サンフランシスコ間には既に1957年に布設さてた海底同軸ケーブルがあるのだから、今度のケーブルは日本からグアム、ウェーキ、ミンドウェーを経てハワイに至る約1万キロメートルのケーブル布設で事足りるわけである。ところで大平洋横断ケーブルは我国にとって初めてのものではない、というと若い方々は意外に思われるかも知れぬが、1906年に開通した鎌倉グアム間の電信ケーブルは最初の大平洋横断ケーブルであった。これは途中小笠原島に立寄リグアム、ミッドウェー、ハワイを経てサンフランシスコと連絡し有線による日米間通信路として活躍していたのであるが、1941年大平洋戦争ぼっ発と同時に運用を停止し、戦後もついに復活されることがなかったのである。勿論半世紀以上も昔のケーブルであるから日進月歩の発展をとげつつある今日の通信技術から見れば当然棄て去らるべき運命にあったことは間違いない。

新らしい大平洋横断ケーブルは新しい技術が盛られた海底同軸ケーブルを使用するのではあるが、SD型と呼ばれるこのケーブルは在来の海底ケーブルとは少しく趣を異にしている。従来はケーブル内部のコアを保護し、布設または修理の際の大きな張力に耐えるよう鉄線による外装が施されていたが、この外装鉄線の撚りは張力を受けるとケーブル廻転力を与え、 これがケーブルや海底中継器を傷めやすい結果となっていた。それでこの抗張力を受持つ鉄線を思切って同軸ケーブル内部導体の中心部に置くというアイデアをとり入れたのである。こうすることによって大きい張力を受けたときのケーブルの廻転力を小さくできるし、ケーブル自体軽量になることによって張力そのものも少くすることができる。更に従来の外装鉄線が海水のために腐蝕を受け易かったのをも防止する結果となる。このケーブルは日本では約3年前に設立された大洋海底電線会社が製造することになっているが、この種のケーブルを製造できるのはイギリスのSTC社とアメリカのWE社だけであって、日本が最近やっと横浜市にこの工場を完成したのはめでたい。SD型ケーブルはその構造が極めて簡単であり、それがまたこの特色でもあるが、その代り材質や寸法等の厳密性は大変なものであって絶縁体切削工程や試験室は常時空気調節を行うほか、工場全体の防塵には極度の注意を払っている。また1区間20浬を1連続工程で作り上げる必要上、従来のケーブル工場と比較してすべての機械が大型となり、またその操作は完全に自動制御化されているし工程中の計測管理も頗る厳重である。

近頃の電子工業関係の工場は病院的清潔さということがよく言われるが、海底中継器の製造も正にこの病院的清潔さの中で行なわれている。何しろ一旦海底に布設してしまえば少くとも20年は全く人手にふれることもなく、その動作は無事故であることが要求される。WE社ではこの製造のために新らしい工場をニュージャージー州のクラークに建設した。現在のところこのSD型ケーブル方式に使用される中継器を製造し得るのはこの工場しかない。SD型海底中継器は硬直型双方向式であり、 1956年最初に大西洋に布設されたTAT-l方式の中継器が可撓型単方向式であったのと異っている。この中継器を同軸ケーブル20浬毎に挿入することによって、上り下り両方向の通話電流が増巾され1条のケーブルによって128個の3KC巾音声回線を得ることができる。伝送周波数帯は約lMCであるからテレビ伝送は無理であるが、将来更に進んだ方式SE、 SF方式といったものが考えられるとすれば、これも可能となる時期がやって来よう。

この中継器は厳密な耐圧、水密性を保証したベリリウム銅の容器の中に電力分離回路、方向濾波器及び長寿命真空管3個からなる増巾回路を信頼性を考えてダブルにした装置などが収められている。5000個の部品からなるこれらの回路が深海底において少くとも20年の寿命を保証する信頼性を与えることはなかなか大変なことなのである。1個の中継器の生産には延べ63週間を要するが、このクラークの工場は年産800個といゎれている。挿入される中継器10個毎にこの間のケーブル損失と中継器利得とをマッチさせるため等化器が挿入される。この200浬分を1海洋区間と称しているが1つの饋電点から内部導体を通って直流饋電できる最大限は18区問、即ち3600浬であり、今度の場合はハフイとグァムにその饋電点が置かれる筈である。日本側のケーブル陸揚点は私どもの調査結果に基いて相模湾の二宮町と決定された。ルートは大島、鳥島の東側、小笠原島の西側、硫黄島の東側を通ってグァムに至るもので、この区間の最深部は4600mにも達する。このルートは奇しくも1906年に布設されたグァム系のルートと殆んど同一となった。テーブル布設のためにはATT社が新たに設計したSDケーブル方式の布設船ロングラインズ号(約11200トン)が使用される。今年の末頃から明年初頭にかけて、5600浬にわたるケーブル布設が行なわれるのである。

二宮町には目下海底線中継所が建設されつつあるが、この夏頃までに局舎建設を終り、海底ケーブル端局装置と国内連絡線用搬送局装置とが設置される運びである。東京関門局も増築が9月頃完成するからここに搬送端局装置や国際電話の半自動交換装置の他に将来は電話回線を倍増できるTASI(時分割通話挿入)装置など置く予定である。いよいよ来春を期して完成を予想されるこの大平洋横断ケーブルに寄せる私ども国際通信関係者の夢と期待は大きい。

<7号 昭38(1963)>

【8号】古賀先生のこと/飯島建一

今回同窓会の幹事の方から古賀先生の文化勲章御受賞をお祝いして親しく指導を受けている一人として一文を草するようにとのお話がありましたので、他の諸先輩をさしおいて御引受けするのもどうかと一応考えましたが、誠におめでたいことであり、悪筆をも顧みず喜んで御引受けすることに致しました。

先生の一貫した水晶研究の概要は「水晶40年史、国際通信の研究No.36(1963年4月)」に御自身の筆により非常に要領よくまとめてあり、全くの素人でこれを読んで興味を覚えたという人が二三に上りません。したがって水晶に関してはその方の一読をおすすめすることに致しまして、ここでは何回か直接先生にお聞きした話の中から、いかにも先生らしい話と思われる一つを御紹介したいと思います。

話は戦争のことですが、当時陸軍でいわゆる超短波警戒機と称し遠距離の飛行機を監視するレーダーが、伊豆、白浜、六甲その他の要所々々にそなえつけられており、特に六甲の警戒機についてはかなりその効果を期待されていたにもかかわらず、比較的近距離の飛行機は全くつかまらないという事態が起こっておりました。

先生は関西出張の何かのついでにこの六甲を見学してその時はたいした関心もなく帰られたそうですが、関西から帰る頃になって「古質さんは何のつもりでこんな町にやって来たのか知らないが、いくら古賀さんでもこれには手が出ないだろう」と言った人があるということが耳に入り、この一言が俄然先生の闘志をむらむらとかき立てることになり、つぎのような話に発展することになりました。

東京に帰ってから改めて詳しく関係者の話を聞いてみると、いくらいろいろの人に聞いても解決のつかない問題で、天文関係の人にまで相談をもちこんだというような次第だったそうです。先生の言によると天文の人の智慧を借りるということ自体はともかくとして、当時特に陸軍においては物事を忠実に科学的に分析するという態度が少なく、何事か困難な問題が起きるとすぐにそれを神秘視する傾向が強く、この時も何かしら放っては置けないという感じがしたそうです。

この仕事は当時陸軍では多摩技術研究所の所管であったわけですが先生は独自の研究として仕事を始め、東京から何回も十国峠に出かけて実験したり、いろいろの経過を経て問題を解決されました 後で考えれば簡単なことで近距離からの強い反射のために高利得の受信機がある時間飽和して利得を失っていることが分かったので、自動利得制御回路ともいうべきものをとりつけて自動的に至近距離に対してはある程度利得を下げ、遠距離の反射に対しては受信機の利得を正常に働かせるという方法をとったそうです。

難問を片づけ大いに面目を施した話と、場所が悪いというのでせっかく撤去に決まった六甲の陣地が再び撤去取止めとなって楽しみにしていた兵隊にうらまれたという話も伺いましたが、要するにこのような話はぜひやらなければいけないことである、意義のあることだと思えば人のやらないこと、困難なことでも進んでやってこられた先生の一つの態度であると思います。

水晶の仕事も大勢の人がやるような問題であればあるいは止めたかもしれないし、誰も徹底的にやる人がないのでやったようなものだと述懐しておられますが、研究以外の事に関しても、例えば工業教育協会の仕事なども全くそのような気が致します。

私自身のことを申し上げて恐縮ですが、先生との交渉が始まりましたのは大学卒業後、しかも陸軍にいてレーダー関係の仕事が始まりでしたが、先生について最も愉快に思うことは場合によっては行過ぎと思われるくらいのfightと事の大小にかかわらすお話をしているうちに必ず具体的な話になることです。

幸い先生は御健康で大学に勤めていた頃と変わったのは月給を貰わないだけのことだと冗談をいいながら相変わらずいろいろの用事を引受けて元気に働いておられます。

ドイツの大学教授はEmeriterungという制度で一生給料がつきたとえばMax Planckを始め68才を過ぎてから重要な学術上の貢献をした人々が多数あるということを読んだことがありますが、先生にももう少し研究の便宜を差上げて「水晶50年史、60年史等」をものして頂きたいことが弟子の一人としての念願であります。

<8号 昭39(1964)>

【8号】科学のオリンビック/安川第五郎

オリンピック東京大会は開期まで余すところ僅かに二百余日に迫ってきた。本年に入り何かと話の本筋の如何にかかわらず必らず本年はオリンピックの年だという言葉がはいってくる。さすがにのん気坊の筆者も何だか気ぜわしい気分にいささか煩わされるようになってきた。

さてこの東京大会に対する安川ビジョンを会長就任早々から問われるが、従来日本色豊かな祭典と申し訳にいい続けてきたが、しからば日本色とは何かと反問されると一寸確答に困るわけである。ところが諸準備を進めてゆく間に自ら気がついてみると、東京オリンピック競技に著しい特徴は時間の測定、標示板、速報等に関して電気の応用が従来の大会に見られぬ程度に普及する可能性が感知せらるるのである。

従来競技の時間測定はもっぱらストップウォッチに依存していたので往々して等級決定に問題が発生したこともあったかに聞きおよんでいるが、最近熱心な電気メーカーの考案により自動的にゴールタッチとともに千分の―秒程度の正確度において結果が記録される装置が提供されるに至り全く従来の方法に根本的な改革が加えられんとしている。なお各国から来朝している新聞、ラジオ等の報道陣の中心たる(青山会館)プレスセンターに各競技場からの速報にIBMが協力することになっているなど画期的な電気応用が来たるオリンピックに取り入れられんとしていることはわれわれ電気技術者のほこりとして快哉を叫ばざるを得ぬところである。

もちろんオリンピックの起源はきわめて古く、紀元数百年前から伝わった大祭典で、時代とともに型式や設備、運営法等漸々と近代化されてきたことはもちろんであるが、この度の第十八回東京大会におけるほど近代技術で(もっばら電子工学技術)の導入されたのは顕著な大進歩と申してさしつかえない。しかもこれらの設備については国内メーカーの一方ならぬ熱意が傾倒されていて、殆んど営業意識をすてて全く犠牲的精神の結晶ともいうべきオリンピックに対する協力態度にはわれわれ当事者として頭が下がる思いがするのである。

かくて東京大会は科学のオリンピックと宣伝してもさらに恥づかしからぬ内容を具備するであろう。

<8号 昭39(1964)>

【9号】東京大学宇宙航空研究所創設について/高木昇

昭和30年来、東京大学生産技術研究所では観 測ロケット研究班を結成し、これが中心となっ て観測ロケットによる宇宙科学の研究にかなり の成果を収めてきた。しかし宇宙科学の進歩は きわめて急速であり、これに対処するための将 来計画を勘案すると、現状のままでは不十分で、 なお一層の発展が期待できる組織が研究者の間 で要望されてきた。

昭和37年5月、日本学術会議第36回総会で は、宇宙科学の推進計画の実施と宇宙科学研究 所の設置についての勧告が行なわれた。その具 体的方策の要点は (イ)一般地上観測を主体とする研究、並びに 宇宙工学の基礎的研究の拡充強化 、(ロ)ロケットその他を利用する研究を組織化 するための宇宙科学研究所の設置、 の2点に集約されている。

同じく昭和37年5月、宇宙開発審議会で諮問 第1号「宇宙開発推進の基本方策」に対する答 申の中で、宇宙開発の体制として研究所の新設 とそれが広く関係各分野の科学技術者の利用に 供しうるものであることを勧めている。

以上の情勢から文部省は東京大学に宇宙科学 研究所の新設を要望してきた。東京大学ではこ れを慎重に考慮検討し、従来の航空研究所を発 展的に改組し、これに生産技術研究所の観測ロ ケット班を移し、更に宇宙科学部門を新設する 宇宙航空研究所を昭和39年度より新設するこ とになった。

すなわち本研究所の目的は宇宙科学、宇宙工 学及び航空に関する学理及びその応用の研究を 行なう共同利用の研究所であって、更に観測部 を設けてロケットの発射実験を行ない、基礎開発 研究の成果が直ちに得られるようにしてある。

研究所完成時には39の研究部門となり、その うち、宇宙科学7部門、宇宙工学8部門が増強 される予定である。39年度には旧航研と生研か ら部門の振替えのみ認められたが、40年度には 新設3部門、振替え1部門が実現した。完成に はあと新設7部門、振替1部門を必要とし、今 後更に完成に努力する予定である。

実験場は東大生産技術研究所が着手したもの を宇宙研に移管し、その整備を進めている。鹿 児島県内之浦町にある鹿児島宇宙空間観測所で は観測ロケットの打ち上げを行ない、秋田県能 代にあるロケット実験場ではロケットエンジン の地上試験を実施している。

39、40年は太陽活動静穏年にあたり、国際的 規模での観測が要請されているために、予算も 大型になり、39年度は観測ロケットに12億円、 実験場整備に5億円、計約17億円、40年度は ロケット費用が20億円、実験場整備費5億円、 計25億円が得られ、それにこたえる成果をあげ たいと考えている。

<9号 昭40(1965)>

【9号】卒業後40年を回顧して/吉田確太

私が東京大学工学部電気工学科を卒業したの は大正の最後の年である大正15年の3月でし た。大正12年の春、六高を卒業して電気工学科 に入学してみると昔ながらの練瓦建てのちょう ど英国のイートン中学の中廊下のある平家建て そっくりの建物でした。春の4月に外は桜の花 がいっばい咲いているのに建物の中の教室は狭 い薄暗い感じのする室で重厚な感じはするが、 明るさにはおおよそ縁遠いものでした。教えて 下さる教授は有名な先生方ばかりで教えるほう と教わるほうとの間には大きなギャップがある ような気がしてならなかった。そうこうするう ちに早い夏休みになって郷里岡山に早速引き揚 げてしまった。

一般の学校の暑中休暇になって家族と一緒に 但馬の城の崎温泉に1か月の長逗留でのんびリ していてそろそろ岡山へ帰って上京のしたくを しようと考えている矢先、関東大震災の報が大 阪の毎日新聞号外で城の崎町にも知らされた。 東京高輪の宅がどうなったか知る由もなく不安 のうちに1日を過ごしたが、幸いにして大阪毎 日新聞のお知らせでどうやら焼けずに済んだこ とだけは判明したが、大学のほうはどうなって いるのか皆目判明せぬままに家族大急ぎで城の 崎を引揚げて郷里に帰ってきて東京の被害の情 報のはいるのを一日千秋の思いで待ちながら何 も手につかぬありさまであった。それからだい ぶ経て学校からの通知で11月から開講の知ら せがあったのでそれに間に合うようゆっくり上 京したのであった。

上京してからの学校の授業は粗末なバラック 校舎であっちへ行ったり、こっちへきたりして 授業を受けたので、しんみりとした授業とは思 えなかった。時にはこんな粗末な落着きのない 学校ではしまったと、何度考えたか知れないほ どのものであった。

1年経って学校も落着きを取り戻したが、な にぶんにも大震災の後ではあるし、時々大講堂 で共通講義のある時には早いもの勝ちで席をと るので、遅れて行けば後のほうの席になって先 生の黒板の字がやっとわかる程度で、ここにも 生存競争の激しさ、人間同志の協調の精神の欠 けている面が露骨に現われていたことを思い出す。

工学部の授業は盛りだくさんで、そのうえ製 図を年間に10枚くらい書かねばならず、実験は 1週間のうちに相当あるので、心の安定を求め る時はない。法学部の閑と言っては悪いかもし れないが、友人同志で話して見ても大きな相違 があったことは事実であるし今でもそうかもし れない。

学科目を数多くしてみても意味はない。基本 的なものが系統だって教えられ、その間に学生 の頭が今のいわゆる人間能力の開発の誘導にな ればいいのではないかと思う。

卒業の前の年の9月ごろ私の就職先は決まっ たのだが、その当時は不景気になりかけていて 申込みも少なかった。そこで自分の考えでは同 級生に迷惑するような競争心理で就職に応ずる のはいかん、おのれの能力にふさわしい所に行 くのが最も適しておるのだと思って、だれも行 かない富士紡績の電気部からの申込みに応じた のである。全く同級の皆に迷惑はかけないので 安心して申込みのあるままに早く就職先が決定 したわけである。  就職後10年間、友人の派手な仕事をやって いることも海外留学の話にも全く耳をふさいで、 自分に与えられた会社の仕事をこつこつと、そ れが電気工学を修めたものに適していないと思 っても不平を言わず、それが電気でなくて土木、 機械、建築の仕事であっても、時には法律に関 する仕事であっても、時には法律に関していて も、こつこつ毎日を楽しく、昼は会社の仕事を、 夜はその準備的基礎固めに10年以上を知らぬ 間に過ごしてしまった。

昭和16年統制色が濃くなって電気事業の統 合、日本発送電への水力出資等に忙殺され、部 下の職員の転出等の世話をしているうちに、行 き先は自然の成行きで関東配電に行くことにな ってしまった。それが昭和26年には日本発送電と関東配電 とが一緒になって今の東京電力になって、また そこへ帰ることになったのである。

人間の働き場所を自分で求めれば人生の歩み に無理が出るが、流れるままに流されれば比 較的スムーズに歩ける。東京電力で水主火従の 方向を松永翁の先見に従って火主水従にじりじ りと変えていったし、一方超高圧送電線を大東 京の周辺に張りめぐらすにあたっても反対派の 長い間の強い抵抗に屈せずじりじり推し進め得 たのも、無理をせずに確固たる信念の基に急激 でなく徐行列車のつもりであせらずに進めたお 蔭だと思っている。

最後に信頼し得る者はだれだろうか、それは おのれ自身であるという結論が出てくるが、で き得る限りおだやかに他を説得して気永く仕事 を進める以外には方策はないと思っておる。

最近人間能力の開発推進というが、ことばでは やさしいが実行はむずかしい。各自が知識を ふやして物知りになることではなくて、必要な 知識に止め、それから先は考え出すことである。 経験を豊富にし実社会の現実をよく見て行くこ とも必要であろう。そうした中にあってその場 に適したものを考え出す力を養うというか、少 しでも考えるほうに力を入れて今の段階よりも 改善するか改革することこそ現代の要求してい るものである。

そこで学校教育にしても40年前に習った学 校と今のそれとは大変な違いであろうが、物を 知り過ぎることのないよう、しることをあせら ず判断する力を総合的に養うようにしたほうが いいのじゃないかと思っている。勉強は学校にいる時だけのものではなくて終 生必要であり、毎日毎日の蓄積が判断する力を 造り、創造する力を出すようになると思われて しかたがない。

詰込み教育、時間を無理やりに多くして科目 を多く教えてみても、2、3年も経てば忘れてし まう。要は1日1日と蓄積しなくてはせっかくの学 校のりっばな先生の講義も2、3年後にはもとの もくあみ同然となろう。無理のないたんたんたる人生の行路こそ望ま しいが、世の中は必ずしもそうはゆかない。難 行苦行の路にさしかかって気力が崩れず、それ を乗り越えてこそ人生の行路は楽しいものであ りまたそれが人生であろうと思う。

病気に打ち勝つのも同じで、いずれにしても 苦しみを通しての喜びこそ人生の生きがいでは なかろうか。  学校ばかりが人生ではない、卒業後の勉強こ そ真の学校であることだけはいって差支えない と思う。40年の経験からして後に続くものえの いささかの道しるべになればこれに越した喜び はないと思って、私の過去のその時々の感想な り今の考え方を拙い筆でしるしたまでである。

(大正15年卒 電源開発株式会社 総裁)

<9号 昭40(1965)>

【10号】同窓諸君に望む/渋沢元治

「捕雷役電」という額が東大電気工学科の会 議室に掲げられている。これは私の書斎にあったものを過ぐる大戦の 際戦災焼失を恐れて大学に寄贈したものであ る。その謂れについて同窓生諸君にも知って頂 きたいのでここに御話する。

私は昭和12年であったか、ある雑誌社から「書斎漫談」と題して乞わるるままに随筆を書 いたからそれをここに再録する。

『私は電気工学を学んだ者であるが、書斎に 籠って万巻の書を繙くとか、数千頁もある大著 述をするよりは実際方面への応用を主としてき たから書斎にあっては先人の研究した基礎現象 に関する著書や論文を味いまたは新刊学術雑誌 で最近の世界に起こった実例を調べて自分が解 決せんとしつつある問題に対し何等かの暗示を 得んとするのである。だから書斎は市中の雑音 と家庭の面倒から離れた静かな所で中へ入れば 自然と気も心も落着きさえすればよいと考えて 設計して貰ったので極めて平几なものである。

ただ私の書斎に一つ変わった額がある。それ は大正2年(今よりは約50余年前)この書斎 を作った時、丁度その前年であったか私が工 学博士の学位を得たので岳父の穂積陳重博士 (東大法学部教授、重遠博士の父君)が自ら「捕 雷役電」という語を選んで当時の彫刻界の大家 蘭台氏に頼んで桜樹の木材に彫刻して貰って祝 いに贈られた額である。(この語の出所につい ては生前穂積老博士に尋ねることを失念した。 恐らくは博士自身の作ならん。)

当時無線電話が数百メートルの間に試験的に 通じたといって世人一般は勿論、学界でも驚異 の眼を以て視、電力の応用も漸く贅沢の域を脱 しかけた位であったのが、現時は無線電話の発 達で全世界人類を一堂に会せしめたるかの感を 起こさしめ、また電気はなくてならぬ生活必需 品となり電力事業は重要なる国策事業の一に数 えらるるに至ったのは実に今昔の感に堪えな い。

かように吾日本国の興隆と歩を揃えて躍進的 に発達した電気界の状況をこの室から眺めてき たのは聖大の余沢とは言いながら実に愉快至極 であった。然しまだ「捕雷役電」を自由勝手にすることは前途遼遠の感があるのは残念でもあるがまた 吾々をして大いに発奮せしむるものがある。』

さて電気界の現時の状況はどうでしようか。 宇宙飛行や電子計算器は目まぐるしい発展を遂 げつつあってマスコミを賑しているが、電力方 面では、送電線の雷害その他で停電に悩ませられている。これは保安という隠れたる任務が軽 視せられているのではないでしようか?

もっともこの捕雷と役電とは分けて考えるべ きではなく、電気の理論を充分に研究して人生 生活に役立たせよとの戒めと解すべきでしょ う。そしてこれは私個人のみでなく広く同窓諸 君にも御披露して共に服膺すべき名言と思って 寄贈したのであります。

「学而思」東京大学電気工学科図書室にこの ような額が掲げられている。これは先年私が教 室の皆さんに乞わるるままに拙筆を敢てしたの であります。これは論語の為政第二篇にある孔 子の語から選んだのであります。即ち故穂積重 遠博士著新訳論語に次の如く説明せられて居り ます。

『子曰学而不レ思則罔思而不レ学則殆 子曰く学びて思わざればすなわち罔し、思い て学ばざればすなわち殆し。

孔子様がおっしゃるよう、「学ぶだけで思わ ないと道理が明かならず、思うだけで学ばな いと行動が危険だ。」 これは学習と思索との伴わざるべからざるこ とを述べたもので、現代の学問、思想にも適 切な名言と思うが、かつて東大法学部の入試 問題としてこの語を読んでの感想をしるせ、 というのを出したことがある。

左翼は「学ビテ思ワザル」もの、右翼は「思 イテ学バザル」もの、というような答案が多 かったがその中に愉快なのが二通あった。 「自分は中学時代は「学ビテ思ワザル」者で あり高校時代は「思イテ学バザル」者であっ たことを悔いる。幸にして大学に入り得たな らば、学びかつ思い、思いかつ学ぼう」 「自分は高校の水泳選手で、初心者をコーチ したが、どうしても泳げるようにならぬ者に 二種類ある。第一種は教える通りに手足を動 かすが、自身に浮こう泳ごうという気のない 者、これは「学ビテ思ワザル」者である。第 二種は浮こう泳ごうとあせってむやみに手足 をバタバタき七ろが少しも教える通りにしな い者、これは「思イテ学バザル」者である。 いずれも水泳が上手になれぬ。あにそれ水泳 のみならんや」』

これは終戦後青少年諸君が実に能く勉強する 即ち「学ぶ」ことは熱心であるが、それについ て考える即ち「思う」ことが少ないと言われる のでこの語を選んだのであります。青年諸君 よ、学んだら必ず考える僻をつけるように致しましょう。

<10号 昭41(1966)>