【6号】「捕雷役電」/渋沢元治

私は昭和15年であったか、大戦前の自宅書斉に掲げてあった「捕雷役電」の額を東京大学電気工学教室へ寄贈した。それが同教室会議室に掲げられているのでその謂れを述べる。

私は昭和12年であったか、ある雑誌から「書斉漫談」と題して乞はるるままに随筆を書いたからそれをここに再録する。

私は電気工学を学んだ者であるが、書斉に籠って万巻の書を繘くとか、数千頁もある大著述をするよりは実際方面への応用を主として来たから書斎にあっては先人の研究した基礎現象に関する著書や論文を味いまたは新刊学術雑誌で最近の世界に起った実例を。調べて自分が解決せんとしつつある問題に対し何んらかの暗示を得んとするのである。だから書斎は市中の雑音と家庭の面倒から離れた静かな所で中へ入れば自然と気も心も落着きさえすればよいと考えて設計して貰ったので極めて平凡なものである。

ただ私の書斎に一つ変った額がある。それは約30年ほど前(今よりは50年)この書斎を作ったとき、丁度その前年であったか私が工学博士の学位を得たので岳父の穂積陳重博士(重遠博士の父君)が自ら「捕雷役電」という語を選んで当時の彫刻界の大家蘭台氏に頼んで桜樹の木材に彫刻して貰って祝いに贈られた額である。

当時無線電話が数百メートルの間に試験的に通じたといって世人一般は勿論、学界でも驚異の限を以て視、電力の応用も漸く贅沢の域を脱しかけた位であったが、現時は無線電話の発達で全世界人類を一堂に会せしめたるかの感を起さしめ、また電気はなくてならぬ生活必需品となり電力事業は重要なる国策事業の一に数えらるるに至ったのは実に今昔の感に堪えない。

かようにわが日本国の興隆と歩を揃えて躍進的に発達した電気界の状況をこの室から眺めて来たのは聖代の余沢とはいいながら実に愉快至極であった。しかしまだ「捕雷役電」を自由勝手にすることは前途遼遠の感があるのは残念でもあるがまたわれわれをして大に発奮せしむるものがある。

(付記)この語の出所については生前穂積老博士に尋ねることを失念した。恐らくは博士自身の作ならん。

<6号 昭37(1962)>

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