【5号】学生時代の想い出/池田洋一
電気工学科の同窓会報に何か随想を書くようにといわれましたので、どうして私のような若輩が書かされるのかと聞きました所、今迄の例では毎年定年になられる先生方に御執筆願って来たが、今年は生憎(?)定年になられる先生が居られないので、趣向を変えて若手が書くことになったのだそうで、若手といっても多勢いる中で、私が書く羽目になったのは、専ら運が悪かったと思って諦らめろということであるので、仕方なく引受けすることにしました。
私は新制大学の第2回の卒業なので、卒業して既に満7年にもなることを考えると、月日の経つのは徒らに早いことに驚いておりますが、それでも諸先生方の30年、40年という御経験から見れば、まだまだ微々たるもの、大した随想の書けよう筈はないので、電気工学科時代の想い出を書くことで責を果せれば幸いと思います。
前にも述べましたように、私は新制度になってから大学に入りましたので、初めの2年は駒場で過し、本郷の方に来ましたのが昭和27年4月でしたが、丁度その頃はダンスの盛んな頃でして、私も悪友に誘われるままに多少踊れるようになっておりました。一緒に電気工学科に入ったK氏等も同じようにダンスの習い始めで面白くなった頃だったのでしよう。その中に、誰いうとなしに、二食(第2食堂)を借りてパーティーを開こうではないかという話がでましたのが、多分4月の終り頃だったかと思います。それではというので、上級生に相談しました所、賛成を得ましたので、では先生方と宜しく御相談願いたいと申し入れましたが、それは君達でやって欲しいということで、見事に逃げられてしまいましたそこで仕方なく、われわれで何とかしようということになりまして、同級のU氏と私が、電気工学科に入って1月経つか経たずの頃、大山(松次郎)先生の所ヘダンスパーティーの相談に行くという仕儀になってしまいました。
4月の終り頃か5月の初めだと思いますが、2人で恐る恐る大山教授室に入って行きまして、「実はパーティーを開かせて欲しいと思いますが」とお願いしました所、「そのような相談は電気工学科始まって数十年初めてである」ということで、一喝入れられましたので、どうなることかと内心心配しましたが、心よく(?)相談にのって戴けることになりました。最初は電気工学科を中心にして、一般にも公開するように思っておりましたが、大山先生の御意見で、先生方にも出来るだけ御出席願って電気工学科関係者だけにして、科の親睦パーティーにすることになり、費用の方は教授会で何とかしようとまでいわれましたので、U氏も私も一安心して帰って参りました。
このようにして、電気工学科第1回ダンスパーティーが開かれることになりましたので、屋上、教室の片隅等で涙ぐましい練習が開始されました。U氏が電車の窓よりダンスの看板を見て、わざわざ出かけて見た所、タンス屋の看板だったというエピソードを作ったのも、この頃のことです。
所で心配事が一つありました。というのはダンスというものは、古来より相手のいるものですが、果して相手になってくれる御婦人方に御集り願えるかどうかということでした。そこでK氏等と相談し、パートナー2人以上何人同伴しても、1人分の会費にしたら御参加願える御婦人の数も、少しは増えるであろうという珍案を考え出しまして、実行しました。
当日は諸先生方が、奥様あるいはお嬢様御同伴で御出席願い、中々の盛況でした。珍案の方も見事に予想通りなったのはよかったのでしたが、”過ぎたるは、及ばざるが如し”の譬の通り、御婦人の数が男性の2倍位にもなってしまい、聊か困ってしまいました。しかし何とか第1回の電気工学科のパーティーを無事に終ることが出来たのは幸いでした。
パーティーの翌日8時よりの第1時間目の授業は山田先生の電磁気学の講義でした。前日の気分が抜け切れなかったのか、それともまだ電磁気学という講義が始まって1~ 2ヵ月で試験も当分ないという気易さからか、皆がのんびりと講義を聞いていたのではなかったかと思います。9時頃になりましたら、これから15分間程休憩するから、章の終りに出ている練習問題を解くようにと先生にいわれ、やれやれ大変なことになったわいと思った所まではよかったのですが、その解答を黒板に出て書くようにといわれたのが何と昨日のパーティーの主謀者と目されるU氏等数人であったのには驚かされました。勿論私もその中に入っておりましたので、その時の驚きは御想像願えると思います。
その後1年経ちまして、私達も4年となり、再びバーティーを開くことになりましたが、その時は昨年のように御婦人の数が多くなり過ぎないようにとの御注意がありましたのを覚えております。
このようにして始まった電気工学科のダンスパーティーが私達の卒業後も開かれたという話を聞いたことがありましたが、今ではどうなったことでしようか。
(昭和29年卒 東京電力勤務)
<5号 昭36(1961)>