【9号】卒業後40年を回顧して/吉田確太
私が東京大学工学部電気工学科を卒業したの は大正の最後の年である大正15年の3月でし た。大正12年の春、六高を卒業して電気工学科 に入学してみると昔ながらの練瓦建てのちょう ど英国のイートン中学の中廊下のある平家建て そっくりの建物でした。春の4月に外は桜の花 がいっばい咲いているのに建物の中の教室は狭 い薄暗い感じのする室で重厚な感じはするが、 明るさにはおおよそ縁遠いものでした。教えて 下さる教授は有名な先生方ばかりで教えるほう と教わるほうとの間には大きなギャップがある ような気がしてならなかった。そうこうするう ちに早い夏休みになって郷里岡山に早速引き揚 げてしまった。
一般の学校の暑中休暇になって家族と一緒に 但馬の城の崎温泉に1か月の長逗留でのんびリ していてそろそろ岡山へ帰って上京のしたくを しようと考えている矢先、関東大震災の報が大 阪の毎日新聞号外で城の崎町にも知らされた。 東京高輪の宅がどうなったか知る由もなく不安 のうちに1日を過ごしたが、幸いにして大阪毎 日新聞のお知らせでどうやら焼けずに済んだこ とだけは判明したが、大学のほうはどうなって いるのか皆目判明せぬままに家族大急ぎで城の 崎を引揚げて郷里に帰ってきて東京の被害の情 報のはいるのを一日千秋の思いで待ちながら何 も手につかぬありさまであった。それからだい ぶ経て学校からの通知で11月から開講の知ら せがあったのでそれに間に合うようゆっくり上 京したのであった。
上京してからの学校の授業は粗末なバラック 校舎であっちへ行ったり、こっちへきたりして 授業を受けたので、しんみりとした授業とは思 えなかった。時にはこんな粗末な落着きのない 学校ではしまったと、何度考えたか知れないほ どのものであった。
1年経って学校も落着きを取り戻したが、な にぶんにも大震災の後ではあるし、時々大講堂 で共通講義のある時には早いもの勝ちで席をと るので、遅れて行けば後のほうの席になって先 生の黒板の字がやっとわかる程度で、ここにも 生存競争の激しさ、人間同志の協調の精神の欠 けている面が露骨に現われていたことを思い出す。
工学部の授業は盛りだくさんで、そのうえ製 図を年間に10枚くらい書かねばならず、実験は 1週間のうちに相当あるので、心の安定を求め る時はない。法学部の閑と言っては悪いかもし れないが、友人同志で話して見ても大きな相違 があったことは事実であるし今でもそうかもし れない。
学科目を数多くしてみても意味はない。基本 的なものが系統だって教えられ、その間に学生 の頭が今のいわゆる人間能力の開発の誘導にな ればいいのではないかと思う。
卒業の前の年の9月ごろ私の就職先は決まっ たのだが、その当時は不景気になりかけていて 申込みも少なかった。そこで自分の考えでは同 級生に迷惑するような競争心理で就職に応ずる のはいかん、おのれの能力にふさわしい所に行 くのが最も適しておるのだと思って、だれも行 かない富士紡績の電気部からの申込みに応じた のである。全く同級の皆に迷惑はかけないので 安心して申込みのあるままに早く就職先が決定 したわけである。 就職後10年間、友人の派手な仕事をやって いることも海外留学の話にも全く耳をふさいで、 自分に与えられた会社の仕事をこつこつと、そ れが電気工学を修めたものに適していないと思 っても不平を言わず、それが電気でなくて土木、 機械、建築の仕事であっても、時には法律に関 する仕事であっても、時には法律に関していて も、こつこつ毎日を楽しく、昼は会社の仕事を、 夜はその準備的基礎固めに10年以上を知らぬ 間に過ごしてしまった。
昭和16年統制色が濃くなって電気事業の統 合、日本発送電への水力出資等に忙殺され、部 下の職員の転出等の世話をしているうちに、行 き先は自然の成行きで関東配電に行くことにな ってしまった。それが昭和26年には日本発送電と関東配電 とが一緒になって今の東京電力になって、また そこへ帰ることになったのである。
人間の働き場所を自分で求めれば人生の歩み に無理が出るが、流れるままに流されれば比 較的スムーズに歩ける。東京電力で水主火従の 方向を松永翁の先見に従って火主水従にじりじ りと変えていったし、一方超高圧送電線を大東 京の周辺に張りめぐらすにあたっても反対派の 長い間の強い抵抗に屈せずじりじり推し進め得 たのも、無理をせずに確固たる信念の基に急激 でなく徐行列車のつもりであせらずに進めたお 蔭だと思っている。
最後に信頼し得る者はだれだろうか、それは おのれ自身であるという結論が出てくるが、で き得る限りおだやかに他を説得して気永く仕事 を進める以外には方策はないと思っておる。
最近人間能力の開発推進というが、ことばでは やさしいが実行はむずかしい。各自が知識を ふやして物知りになることではなくて、必要な 知識に止め、それから先は考え出すことである。 経験を豊富にし実社会の現実をよく見て行くこ とも必要であろう。そうした中にあってその場 に適したものを考え出す力を養うというか、少 しでも考えるほうに力を入れて今の段階よりも 改善するか改革することこそ現代の要求してい るものである。
そこで学校教育にしても40年前に習った学 校と今のそれとは大変な違いであろうが、物を 知り過ぎることのないよう、しることをあせら ず判断する力を総合的に養うようにしたほうが いいのじゃないかと思っている。勉強は学校にいる時だけのものではなくて終 生必要であり、毎日毎日の蓄積が判断する力を 造り、創造する力を出すようになると思われて しかたがない。
詰込み教育、時間を無理やりに多くして科目 を多く教えてみても、2、3年も経てば忘れてし まう。要は1日1日と蓄積しなくてはせっかくの学 校のりっばな先生の講義も2、3年後にはもとの もくあみ同然となろう。無理のないたんたんたる人生の行路こそ望ま しいが、世の中は必ずしもそうはゆかない。難 行苦行の路にさしかかって気力が崩れず、それ を乗り越えてこそ人生の行路は楽しいものであ りまたそれが人生であろうと思う。
病気に打ち勝つのも同じで、いずれにしても 苦しみを通しての喜びこそ人生の生きがいでは なかろうか。 学校ばかりが人生ではない、卒業後の勉強こ そ真の学校であることだけはいって差支えない と思う。40年の経験からして後に続くものえの いささかの道しるべになればこれに越した喜び はないと思って、私の過去のその時々の感想な り今の考え方を拙い筆でしるしたまでである。
(大正15年卒 電源開発株式会社 総裁)
<9号 昭40(1965)>