【8号】古賀先生のこと/飯島建一
今回同窓会の幹事の方から古賀先生の文化勲章御受賞をお祝いして親しく指導を受けている一人として一文を草するようにとのお話がありましたので、他の諸先輩をさしおいて御引受けするのもどうかと一応考えましたが、誠におめでたいことであり、悪筆をも顧みず喜んで御引受けすることに致しました。
先生の一貫した水晶研究の概要は「水晶40年史、国際通信の研究No.36(1963年4月)」に御自身の筆により非常に要領よくまとめてあり、全くの素人でこれを読んで興味を覚えたという人が二三に上りません。したがって水晶に関してはその方の一読をおすすめすることに致しまして、ここでは何回か直接先生にお聞きした話の中から、いかにも先生らしい話と思われる一つを御紹介したいと思います。
話は戦争のことですが、当時陸軍でいわゆる超短波警戒機と称し遠距離の飛行機を監視するレーダーが、伊豆、白浜、六甲その他の要所々々にそなえつけられており、特に六甲の警戒機についてはかなりその効果を期待されていたにもかかわらず、比較的近距離の飛行機は全くつかまらないという事態が起こっておりました。
先生は関西出張の何かのついでにこの六甲を見学してその時はたいした関心もなく帰られたそうですが、関西から帰る頃になって「古質さんは何のつもりでこんな町にやって来たのか知らないが、いくら古賀さんでもこれには手が出ないだろう」と言った人があるということが耳に入り、この一言が俄然先生の闘志をむらむらとかき立てることになり、つぎのような話に発展することになりました。
東京に帰ってから改めて詳しく関係者の話を聞いてみると、いくらいろいろの人に聞いても解決のつかない問題で、天文関係の人にまで相談をもちこんだというような次第だったそうです。先生の言によると天文の人の智慧を借りるということ自体はともかくとして、当時特に陸軍においては物事を忠実に科学的に分析するという態度が少なく、何事か困難な問題が起きるとすぐにそれを神秘視する傾向が強く、この時も何かしら放っては置けないという感じがしたそうです。
この仕事は当時陸軍では多摩技術研究所の所管であったわけですが先生は独自の研究として仕事を始め、東京から何回も十国峠に出かけて実験したり、いろいろの経過を経て問題を解決されました 後で考えれば簡単なことで近距離からの強い反射のために高利得の受信機がある時間飽和して利得を失っていることが分かったので、自動利得制御回路ともいうべきものをとりつけて自動的に至近距離に対してはある程度利得を下げ、遠距離の反射に対しては受信機の利得を正常に働かせるという方法をとったそうです。
難問を片づけ大いに面目を施した話と、場所が悪いというのでせっかく撤去に決まった六甲の陣地が再び撤去取止めとなって楽しみにしていた兵隊にうらまれたという話も伺いましたが、要するにこのような話はぜひやらなければいけないことである、意義のあることだと思えば人のやらないこと、困難なことでも進んでやってこられた先生の一つの態度であると思います。
水晶の仕事も大勢の人がやるような問題であればあるいは止めたかもしれないし、誰も徹底的にやる人がないのでやったようなものだと述懐しておられますが、研究以外の事に関しても、例えば工業教育協会の仕事なども全くそのような気が致します。
私自身のことを申し上げて恐縮ですが、先生との交渉が始まりましたのは大学卒業後、しかも陸軍にいてレーダー関係の仕事が始まりでしたが、先生について最も愉快に思うことは場合によっては行過ぎと思われるくらいのfightと事の大小にかかわらすお話をしているうちに必ず具体的な話になることです。
幸い先生は御健康で大学に勤めていた頃と変わったのは月給を貰わないだけのことだと冗談をいいながら相変わらずいろいろの用事を引受けて元気に働いておられます。
ドイツの大学教授はEmeriterungという制度で一生給料がつきたとえばMax Planckを始め68才を過ぎてから重要な学術上の貢献をした人々が多数あるということを読んだことがありますが、先生にももう少し研究の便宜を差上げて「水晶50年史、60年史等」をものして頂きたいことが弟子の一人としての念願であります。
<8号 昭39(1964)>