「2011年3月」のアーカイブ

【20号】車両の磁気浮上の研究/山村昌

我が国では鉄道は交通量(man-km)の半分以上を運んでいて、依然として最も重要な交通手段であるが、いろいろな問題に直面している。技術的な面では騒音と保守の問題がある速度を増すと、加速度的に騒音と保守量も増加するので、これによって実用の速度が制限されている面が多い。これらの問題に眼をつぶるとしても、300 km/h以上の速度を考えると、車輪とレールの間の粘着係数が不足して、充分な推力とブレーキ力とを得ることができないし、安全性も低下してくる。これらの問題を解決する未来の軌道車として、非接触形の支持案内を行う車両の開発が先進諸国で行われている。非接触形に空気浮上と磁気浮上とがあって、前者の方がフランスやイギリスなどで早くから開発が進められたが、現在では磁気浮上の方が有利であることが定説となっている。

磁気浮上のことをmagnetic levitationという。Oxford辞典を引くと、levitationとは「神霊現象の力によって物体を空中に持ち上げること」となっている。車も翼も無くて、見えない力によって浮上する車両には、ぴったりした名称である。磁気浮上に起電導マグネットを用いる反発形と、常電導マグネットの吸引力による吸引形とがある。この他、 リニアモータで推進力と支持案内力とを同時に発生する方式など、いくつかの方式が提案されているが、世界的に見ても上記の反発形と吸引形とに、開発の努力が集中している。

超電導反発形では車の床下に設置された超電導マグネットの作る強い磁界(地表面で0.5Tesla=5,000ガウス程度)が走行して、地上に設置されたアルミ板または閉コイルの二次回路に発生する誘導電流と、磁界との間の反発力によって、車体を浮上させるもので、浮上高を大きく(10~20cm)取れる特長があるが、飛行機のように、地上を滑走してからでないと、浮上しないこと、浮上中の安定性(ダンピング係数)が小さいこと、超電導マグネットを液体ヘリウムで極低温に保たねばならないこと、強い磁界が車室の内外に広がること、抗力が発生して、特に加速中の抗力が非常に大きくて、加速に困難があること、などの問題がある。

常電導吸引形では、地上側に地面より高い位置に水平に固定された鉄レールに、車上の電磁石が対向して、両者の間の吸引力で車体を支持案内する。両者の間のギャップ長を一定に保つためには、電磁石の電流を閉ルーブ制御する必要があるので、制御回路の信頼性が高い必要があるが、速度が零でも浮上できる特長がある。浮上のための消費電力は、ギャップ長が15mm程度で2~4kW/tであって、推進の電力に比べて、小さい。高速を出すためには、地上レールの工作精度を高くしなければならない。

我が国では国鉄が5年前に、東京‐大阪間に起電導反発形の磁気浮上車によって第2新幹線を建設して、500 km/hで所要時間1時間のサービスを10年後に行うという計画を発表した時期に、これに刺戟されて、私の研究室では常電導マグネットによる磁気浮上の可能性の研究を開発した。1972年にドイツで常電導吸引形磁気浮上のテストに成功したとのニュースが入ったとき、先を越されて残念に思ったが、我々の考えが正しかったことに気を強くした次第でもある。その後の研究は順調に進んで、1点支持、ついで2点支持の浮上テストに成功し、一昨年1月には2m×1.2m、350kgのテスト車の浮上テストに成功した。これは室内実験ではあるが、 リニアモータも備えており、我が国においては最初に成功した磁気浮上のテストとして、記録されるべきであると考えている。

それまで起電導反発形に一辺倒であった我が国の業界も常電導吸引形に関心を持つようになり、一昨年日本鉄道技術協会内に低公害列車開発委員会が発足し、運輸省にも低公害列車総合委員会が設置されて(私が両方の委員会の委員長)、常電導吸引形磁気浮上車の開発に着手した。2年を経ないうちに2.8m×1.7m、2tの試験車と180mの試験線とを完成して、テストを開始したことを、昨年末に発表することができた。なお同様なテストの発表が他の団体からもあったが、上述したところの当研究室の成果から考えて、取り立てて大騒ぎをするには当たらない。むしろ今後の実用車を目指して研究開発の成果を挙げることが大切であると考えている。

当研究室の仕事は、助手諸君のほか、大学院生、卒論の学生諸君の努力によって支えられている。磁気浮上車はリニアモータによって非接触推進されるのであるが、 リニア誘導電動機の研究もここ10年余り続けていて、磁気浮上と併せて50編余の論文、報告、著書を発表することができた。なかにはリニア誘導接の端効果理論、浮上用マグネットの速度特性の解析など、常電導磁気浮上方式の理論的な基礎を与えたものもあって、アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、イタリーの学会や大学から招待論文や講演をたのまれて、国際文化交流にもいささか役立っていると考える。

世界的に見ても、また我が国でも、常電導吸引形の方が理論的にも実験的にも進んだ段階にあって、低速から300km/h以上の超高速域までの広い速度範囲で、従来の鉄道のかかえる間題をすべて解決する新しい形の交通システムを生む可能性が大きい。エネルギー政策上から見ても、電力に変わるエネルギーならなんでも利用でき、エネルギー効率のよい未来の大量交通手段である点も、見落としてはならない点である。実用化までには技術的にも問題が残されているが、開発資金面での、またさらには交通政策上での困難が少なくない 同窓生各位の御支援をお願いする次第である。

 (昭和16年卒 東大教授)

<20号 昭51(1976)>

【20号】核融合の研究開発と電気工学科の人々/山本賢三

核融合という新らしい核エネルギー利用の可能性が高まってきて以来、昨今はしばしば新聞にその名が登場するようになった。日本でこの研究が始ったのは、米・ソを除けば西欧諸国と同じく20年前である。それは核分裂原子力開発のため原子力委員会、原子力局、 日本原子力研究所が発足したのと同時期になる。

ここで一寸自己紹介をさせて頂くと、私は大学卒業後3年間を富士通に勤め、昭和15年創立された名大(初代総長 故渋沢元治先生)に助教授として赴任した。電気工学科は野口孝重先生(大正7年卒)を中心に電気材料と電気化学に特色を発揮するという方針に従って高周波放電の化学作用を研究課題とした。赴くところ放電、高温プラズマの物理の研究に移行し、昭和31年(1956)高温ブラズマ方式による核融合研究が各国で始まるに当たって数少ないこの分野の研究者の一人として推進役の一端をつとめるようになった。

発端として日本の研究をorganizeするため法貴四郎氏(昭和12年卒、当時科学技術庁原子力局次長、現住友原子力専務取締役)の骨折りで原子力委員会の下に核融合専門部会が設けられ研究開発の基本方針が議せられた そこで二つの案が競われ、一つは実験物理の故菊池正士先生や電気工学の渡辺寧先生(大正10年卒、元静大学長)や小生らが支持する計画で、すぐれた実験施設を重点的に整備し我が国の在来めぐまれていない実験研究を強力に推進しようとするものであった。このいわゆるB計画はすぐには実現せず結局昭和44年から始まった原子力特定総合研究(第一段階)で結実した。この原案作製のための原子力長期計画の分科会主査は故詢形作次氏(昭和2年卒)であった。

上記B計画はアクティブな物理と電気の若手をメンバーとする核融合研究委員会(小生が委員長)で1年間の議論のうえでつくられたものである。有名な大河千弘氏も一員で、宿屋にかんづめになり寝食をともにした仲間である。物理と電気の人達が一緒に討論し作業して案をまとめるようなことは当時としては珍らしく、考え方、表現が違うので戸惑ったが後々のためにはよい修練であった。

日本の核融合研究の大半は放電や大電流技術を行使する実験から生れたのであり、またブラズマと電磁界との相互作用は将に電気磁気学の好適な応用問題でもあるので、電気工学研究者の参加が積極的で、その後の発展をみても各大学、研究機関ともその傾向が強い。これは外国が物理屋を主力とするのとは違っている。日本の物理学が非現実的であるための穴を電気工学分野の理論・実験が埋めているという一般的パターンの一例でもある。

関口忠教授(当時助教授)は在米中マイクロ波管の専門としての研究に加えてプラズマ物理の研究にも関係されていたので、帰国後核融合分野に敢然と入られた。ご父君の名大関口春次郎先生はある日突然小生の部屋にあらわれ、いささか心配げここの研究の見通しを尋ねられたことがあった。確かに1960年前後は初期の楽観論から転落して練獄にいたのである。磁界中のプラズマは実にさまざまなモードの巨視的(MHD的)不安定性と徴視的不安定性(高周波振動の発生。伝搬)をおこすため反応に所要の時間を壁から離して真空中に閉込めることが極めて困難なことが明らかにされたからである。数年後この脱却に成功したのは在米中の大河千弘氏の偉業である。その研究が吉川庄一氏らによりふえんされ、一方ソ連で長年月続けられたトカマク実験の蓄積とから最近magnetic fusion方式ではトカマクが遂に炉心となりうるであろうとの展望がひらけるに至ったのである。

トカマク方式とは変圧器によって一次側からパルス電力を入れ、二次側に大電流プラズマ環を発生させ、外部から磁界を加えて安定放電を保ちつつ電流の加熱作用と弱いピンチ作用で高温ブラズマを閉込める方式である。これが優れているのは閉込め時間がプラズマ断面の半径(α)の2乗とトロイダル磁界の強さ(β)に比例するという比例則が成立するからである。これにほぼ従うとすれば炉はできるのである。

さきにのべた第一段階で原研のトカマク計画が進行していた昭和46年、私は名大工学部から原研に移り、東海研究所のお世話をしながら核融合研究開発の推進につとめた。原研のトカマクは世界有数の規模で設計・製作されアイディアも優れていたので世界第一級の成果が得られた。それを踏まえて昭和50年以降の第2段階をナショナルプロジェクトとすることを原子力委員会(委員長代理井上五郎氏、大正12年卒)が決定した。この時点で幸に東海研究所長は天野昇氏(昭和20年卒)に引継いで頂いたので、私は核融合に専心できるようになった。

この第二段階計画の中心はトカマク方式による臨界プラズマ試験装置の建設であって、米・ソ連・ECの計画と規模、スケジュールとも匹敵している。これは5,000万~1億度のプラズマを0.2~1秒閉込め、入力=出力=10 MWの条件を現出させ、炉心となるプラズマの可能性を実証しようとするものである。この装置はプラズマ半径α~1m、 トーラス半径R~ 3m、これに巻きつけるトロイグルコイルの磁界Bは平均5万ガウス(5テスラ)、コイルなどに供給する電力約30万kW、総重量約3,000トン、ブラズマ加熱用高周波発振器約600MHz、200kW、中性ビーム粒子入射装置10~20MW (50~100kV)、ブラズマ電流33MAという巨大な電気機械的な実験装置である。山村昌教授には今後ともますますご相談に乗って頂くことになろう。

もしこの試験結果が予想からあまりはずれぬ場合は次のステップとして実験炉の建設に向かうことになるが、 linear dimensionで2倍位のスケールアップになる。この場合は銅コイルでは電力供給が困難になるので、巨大な超電導マグネット(~100 GJ級)の開発をそれに間に合わせねばならなくなろう。

なお別の核融合のアプローチとしてlaser fusion方式がある。これは現状より桁の大きい巨大なコントロールされた発振器と、燃料の小球の超精密製作に成功すれば有望な途であるが、現在のところトカマクほど見通しが明確ではない。

電気工学は戦前の強電、弱電、無線というような時代から幾変遷があった。そのときどきにオートメーション、マイクロ波、solid state electronics、電子計算機、情報科学というように不死鳥のように新分野を拓いてきた。そして、次にこのように未来のエネルギーの主役と考えられる核融合が登場してきた。その研究の段階はまさしく電気磁気学・電子工学の応用であり、製作は電気産業であり、最終の発電は電気事業に属する。皆様のご関心を頂きご叱正を賜りたい。いまこの開発研究は原子力委員会の下におかれた核融合会議でその推進が審議されている。座長は井上五郎委員長代理で、メンバーには岡村総吾教授、関口忠教授や小生も加わっている。

 (昭和12年卒 日本原子力研究所理事)

<20号 昭51(1976)>

【21号】東大を去るに当って/尾佐竹旬

私が終戦の年の4月に、通信院工作所東京第一工場長から東京大学に移って満33年目を迎えることになった。昨年10月還暦を迎えたとき、何かと御祝詞を戴き、 自分としては一所懸命に還暦の意味をかみしめてみた。私の愛車も、走行距離19万kmを軽く超え、間もなく2度目の還暦を迎えるようになり、あちこち相当に弱ってきたが、まだ時には時速120 kmも耐えて走っている 私の体もこの車と似ているように思われてくる。

この同窓会報も21号目を迎え、第1号を作り上げるとき私が担当幹事として、表紙を自書し、内容の体裁を作り上げたことが思い出されてくる。20年間そのままの形で今日に到り、21年目にこのような一文を載せて頂くのも感慨深いものがある。

この33年間をぶり返ってみると、私としては三つの期間に大別される。初めの10年間は、大学の教官は如何にあるべきか、大学教官としての研究は如何にすべきかを勉強した期間であり、次の10年間はアメリカとの往復に過ぎ、丁度、 日本が国際社会へ復帰し始めた時期にも当り、 日本の社会や大学と、アメリカのそれとの違いを勉強した期間であり、最近の10年間は、大学教官としての仕上げとして、新しいアイディアを盛り上げるための指導と、学会を初め社会への貢献と、WFEO(世界工学団体連盟)を通じてのヨーロッパ各国、発展途上国の工学会の方々と御つき合いをし、国際間の物事の決め方のプロセスを勉強させて頂いた。

この間に、本学の名誉教授の先生方を始め、電気、電子工学科の同僚、後輩の先生方は勿論のこと、同窓生の方々、米沢滋様始め電電公社の諸先輩には、多大の御迷惑を御かけしたにも拘らず、私を心暖かく御支援戴いたことを深く感謝している。

何といっても、私に「お前は、われわれの税金で食べているのであるから、 くだらぬ研究はやるな、立派な東大の先生になってくれ」と私を励まして下さった、電電公社の諸先輩の御言葉は、身にしみて感じ、今日までその御期待の万分の一は、果たし得たかと思っている。

私が大学へ移ると決ったとき、大学の教官も教育者の一人であると思うと身の引き締る思いがした。そのとき、ふと思い出したのは私の学んだ小学校、千駄ケ谷第一尋常高等小学校の講堂にかかげてあった「ペスタロッチ」の肖像画であった。人間社会のすべての基本は教育にあることを実践した人と書いてあったことと、また次に進んだ東京府立第五中学校の伊藤長七校長の身を以て学生に当るという気塊ある教育態度であった。

また、大学卒業生が一人も居ない逓信省の現場の長を歴任した私が、電気工学科の学生に接したときに、この世の中に、こんな恵まれた人達の集団があったのか、 と改めて驚くと共に、この若者達の能力を、 日本の社会をよりよくするために、大切に使うような気持にさせたいと思うようになった。それには学生に、 将来の「ロマン」を持たせることだ、 と思いついた。そして、それを今日まで続けてきた。

教官としての日常生活のうえでは、大学の先生方が、庶務、教務、物品出納から会計まで、手伝い一人で全部自分自身でやって居られるのには驚いた それまでの私は、多数の係長の上に座って仕事をしていればよかったので、先生方は何故に、そんなことを平気でやっておられるのか、 また大学には組織がないのに、なぜ動いているのかなどが判るまでには、何年もの年月が必要であった。

最初に戴いた研究室の天丼に穴が開いていて、そこから夜空が見えたのも思い出であるし、最初の高周波測定法の講義、鳳先生から引き継いだ電気磁気測定法の講義、講師の嶋津保次郎先生から引き継いだ有線機器学・有線伝送学を通信伝送学とし、有線機器学を通信交換工学にし、更に通信系統工学の新設など。

また、大学紛争のときには茅総長缶詰め事件を始め、全学学生委員長と銀杏並木でやり合ったり、工学部学生委員長の処分の文案作りから中し渡しまで、安田講堂事件の前後、名指しで工学部長宛の公開質問状を出されたり、銀杏並木に大きい立看板で、でかでかと2度にわたって批難されたときのこと、加藤総長の後任として向坊氏が選挙されそうになり、それを防止するためにピエロの役を買って出たときのこと、高エネルギー研究予算を取ってくるときのこと、10号館建設への募金を不タートするときのこと、などなど限りなく思い出されてくる。

安田講堂前には、きれいに石畳がしかれて、学生達がベンチに腰を下ろしている。10号館では、楽しげに学生も職員も暮している。

この平和な学園を眺めると、私がその幾分かにでも貢献出来たことを嬉しく思っている。やがて大学構内の桜も満開になるであろうし、また銀杏並木も色づくことであろう。しかし3号館の前の欅が、年毎に1本、 1本と枯れて消えている。

私が、 2月17日の「最終講義」のときに申し上げたことであるが、過去の歴史的事実から推論すると、いよいよ技術的にもも社会的にも、過去の知識の延長のものではなく、質的に基本的に考えの変ったもへの移り変りの時代に入ってきたということが出来ようかと思われる。

平和に見える学園とはうらはらに、内実的には大きい変革への胎動を始めなければならないと思われる。幸にして電気・電子工学科の若い教官諸君には充分その責に耐える優秀な人達が揃っている。また同窓生諸兄も既にそのことを知って居られる優秀な方々が多数居られる。

皆様の新しい時代への御健闘を期待して筆を置くことにする。

(昭16年卒 東京大学電気工学科教授)

<21号 昭52(1977)>

【21号】超LSIのはなし/垂水忠明

昭和30年代の後半、現在では電卓業界の一方の雄であるシャープ(株)が、トランジスタを使った電子式卓上計算器を発表した当時のことを覚えておられるであろうか。その最初の製品は、機械式のものに比べれば、無音、高速ではあったが、電動タイプライタのふたまわりほども大きなものであった。その後、集積回路(IC)の採用で電話機並みの大きさとなり、また大規模集積回路(LSI)の採用でポケット形となり、最近ではボールペンの先で操作する腕時計形の超小形版まで登場する一方、機能的にも、関数電卓と称して、高等関数まで扱える機種まで出現している。容積比でいえば、当初に比して1000分の1、価格の面でいっても1000分の1に達している。

この電卓の例で代表されるように、最近におけるエンクトロニクス産業の長足の進歩の原動力は、トランジスタからIC、更にLSIという、半導体回路素子の高集積化にある。例えば、当初3mm角の半導体片の上に1個のトランジスタを載せていたものが、現在では1万個近いトランジスタを載せうる製造技術が実用されている。このような高密度化が達成されたのは、半導体片、具体的にはシリコン単結晶片の数ミクロンの深さの表面に数~数十ミクロンの寸法のトランジスタを設計通りに配置し、相互結線する微細加工技術が確立されたためにほかならない。この20年間、世界の研究機関および半導体メーカは、多分、百万人年の研究者。技術者を半導体素子製造技術の改良に投入してきたと思われる。この驚くべきほどの技術開発パワーの集中が、現在のLSI発展をもたらし、システム技術そのものの革新を促した。しかもこの技術競争は、とどまるところを知らず、超LSIという言葉が現実の目標として取り組まれるようになった。

それでは、超LSIはどれだけ現在のLSIの技術レベルを超えているのであろうか。人によって定義はまちまちであろうが、大ざっばにいって、現在よりほぼ2桁の集積度の向上したものが、超LSIと呼べるであろう。

すなわち、トランジスタの寸法や、アルミ相互線の幅を1ミクロンあるいはサブミクロンにまでもっていけるかどうかが、技術の一つの鍵となろう。イメージがつかみにくいので1万倍に寸法を拡大してみると、50メートル四方のところに、数センチメートルの厚さで、色とりどりのレゴ(子供のプラスティック積み木)を設計図面通りにびっしり敷きつめたものに相当する。1個の抜けもミスでなく、このようなモザイク模様の重なりを、1ミクロンという超微細寸法において安定に生産すること自体驚くべきことであるといえよう。

われわれは、なぜにこのような努力をして、超高密度化を実現しようとしているのであろか。ひとくちにいうとそれは機能価格比の向上にある。同一工数と同一材料でより多く素子を集積することが、逆に同一機能に対する製品価格を下げることになり、これまで半導体ICメーカが苦心し、競争し、生き抜いてきたとこである。この競争の方向の延長は必然的にLSIから超LSI化への道をたどる。そして超LSI化はまたシステムの高度化につながり、エレクトロニクス産業全般へのインパクトは計り知れないもの力がある。

これまでのLSIの技術進歩は電子計算機を中心とした産業用エレクトロニクスに用いられるいわゆるディジタル回路を軸に発展してきた。しかしトランジスタからLSIへの進歩が桁違い(現実に3桁)に大きかったので、システム自体の質的変換をもたらすこととなった。すなわち機械システムの電子化、あるいはアナログ回路のディジタル化等によるシステムの高性能化がもたらされることになった。そしてこの波は、われわれに身近な民生エンクトロニクスの分野にも到達しようとしている。マイクロコンピュータLSIで、きめ細かに制御され、一段と便利になった家電製品、例えば、ミシン、洗濯機,電子ンンジが登場し始め、米国ではビデオゲームが爆発的人気を得ているのは周知の通りである。超LSIの波及効果が将来民生分野まで及んだ時、われわれの家の中にはモータと同じくらいの数のコンピュータが動いているであろう。

一方、超LSIには乗り超えねばならぬ幾つかの壁が立ちはだかっている。その第1は加工技術の限界追求である。素子寸法が光の波長に近づいてくるので、従来の光蝕刻技術では精度が取れず、電子ビーム露光装置を用いた高精度パターン形成技術がマスターされねばならない。第2にLSIの規模が大きくなることによる設計・試験。評価の困難さである。コンピュータを利用した設計・評価技術の改良で、多品種のLSI開発をこなす必要が生じ、例えば、従来のように、何でも高密度小面積にLSIを作るということでなく、冗長度を導入した設計にして全体としての開発コストを削減するような革新的アイデアが必要となろう。その他、放熱、パッケージ等問題は山積みであるが、これらは技術者にとってまた大いに興味をそそられる問題であるともいえよう。

昭和51年度より、通産省、電電公社の指導のもとに、国産IC-計算機メーカ5社を中心にして、超LSI技術研究開発組合が組織され、国家的プロジェクトとして大形電子計算機システムの分野で、超LSIの突破口を開こうとしている。この4年間のプロジェクトを通じて日本の技術レベルをどこまで向上しうるかに、将来の日本の運命の一端がかかっていることは疑いが無い。

最後に、超LSIの次に来るものは何であろうか。現在のLSI技術をその延長線上で究極まで追求しようという超LSIの研究開発の努力の中から、また新しい半導体技術の芽が出てくる可能性もあり、あるいは全く異なった研究分野からちょうど、真空管がサブミニアチュア管の限界まで到達した時、トランジスタが発明されたように新しい技術がこつ然と出現するかもしれない。

(昭和28年新卒 東京芝浦電気総合研究所 集積回路研究所長)

<21号 昭52(1977)>

【22号】思い出/岡村総吾

大学を卒業して直ちに本学の講師を拝命してから38年の歳月が立って、この13月で東京大学を定年退官することになりました。 月並みな表現ですが、今更ながら月日の経つのは早いものだと感無量です。

卒業後すぐ一年生の弱電実験(今の基礎実験に相当)の講義と実験の指導を命ぜられ、鳳誠三郎先生の御手伝いをすることになりましたが、同時に有線通信の勉強をするために 五反田の電気試験所第2部に派遣されました。当時所長は密田良太郎さん(明治44年)で第2部の部長は学生時代「有線通信」の講義を拝聴した大橋幹一先生(大正11年)で、吉田五郎さん(昭和5年)や染谷勲さん(昭和13年)等の先輩にお世話になりました。ところが間もなく2年現役海軍造兵中尉として、軍務に服することになりましたので、電気試験所の生活は3か月足らずで終わってしまいました。したがって研究としては何一つ手掛けることができませんした。ただ当時の電気試験所では幾つかの輪講のグループがあり、時には毎週朝7時に集まって勉強したことが記憶に残っています。

海軍に入って横須賀の砲術学校で訓練を受けた後、約6か月佐世保海軍工廠で実習をしました。実習中工廠場の現場を廻り、実際に鋳造や機械工作等も自分でやることができて有益でした。また勤務時間外に桂井試之助さん(昭和11年)の翻訳されたパルクハウゼンの「電子管」の原稿を読ませて載いて大変興味をもち、後に自分でも原書を買って読み始めました。昭和16年2月、東京恵比寿の海軍技術研究所に配属され、暫く部品素材の担当を命ぜられていましたが、その年の10月に伊藤庸二さん(大正13年)がドイツから帰国され、磁電管を使ったレーダーの研究班に配属され、これこそがその後現在までマイクロ波の研究に従事する端緒となりました。昭和16年12月3日、芝浦工作機械株式会社の屋上に仮設した実験所で実験中、横浜港を出港した商船浅間丸を、レーダーにより22km程度まで捕捉することができて大喜びしたのも、ついこの間のような気がします。その直後第2次世界大戦に突入したため、終戦後まで海軍にされ召集されることになりましたが、東京の研究所に勤務していた関係上、軍務のかたわら、本郷に来て大学で講義をすることを許して載きました。

終戦後大学に復帰して、阪本捷房先生の御指導の下に、高周波研究室の一員としてマイクロ波の研究に従事することになりましたが、山田直平先生の研究室での基礎物理学の輪講にも参加させて戴きました。また講義の面では星合正治先生の御指導で「電子管」の講義の一部を受け持たせて戴き、先生の御退官後これを引き継ぎ、とうとう定年退官の本年度末まで電子管の議義を担当することになりました。また大山松次郎先生が学部長てお忙しいとき、「電気工学通論」、「電灯照明」、「電熱工学」等の議義を代講し、大変勉強になりました。昭和28年British Councilの留学生として約一か年University College Londonに留学し、H.M.Barlow教授の御指導を受けましたが、その帰途オランダのヘーグで開催された国際電波科学連合第11回総会に出席する機会を与えられ、これが契機となって、同連合の仕事の一環としてマイクロ波標準測定の研究に従事するようになりました。この仕事では終始古賀逸策先生の御指導を受けました。昭和30年には阪本捷房先生の御推薦で郵政省電波研究所の超高周波研究室長を兼務することになリ、ミリメートル波の大気減衰の研究を開始することになりましたが、このとき研究所の予算要求のため大蔵省の主計官と折衝するようなこともしました。これは今になって考えるとよい経験であったと思います。

卒業後大学に残るようにお勧め戴いたとき、生来自分は内向的な性格で研究室にこもっているしか能のない人間だと思い、大学にお世話になることを決心したのですが、昭和43年に思いがけない大学紛争が勃発し、いつの間にか大学行政に関係させられるようになり、工学部長や総長特別補佐を命ぜられたり、政府の審議会やOECDの科学技術政策委員会の委員等、柄にもない仕事で忙しいめに会うことになってしまいました。自分としては、若い時から今に至るまで、その時その時の仕事に自分なりに一生懸命努力してきたつもりですので、心残りはありませんが、退官に当たって過去を振り返ってみますと、何となく周囲の情勢に押し流されて、いろいろの事に手を出してしまい、教育研究、大学行政、社会奉仕等のいずれも中途半端に終わってしまったことを恥ずかしく思っております。

子供の時から蒲柳の質で、若い頃も始終風邪を引いていた弱虫の私が、元気で間もなく還暦を迎えることのできるのはまことに有難いことです。今まで何とか無事に仕事をしてこられたのも、ここに述べた方々を始め、数多くの恩師や先輩の方々の御指導のお蔭で感謝に耐えません。また多くの立派な同僚、友人、後輩および学生諸君に恵まれ、楽しい研究生活を送ることができたことを嬉しく思っております。幸いまだ元気ですので、今後も自分の出来るだけの仕事に精を出すつもりです。何分宜しくお願い申し上げます。

(昭和15年卒 東京大学電子工学科教授)

<22号 昭53(1978)>

【22号】ディジタル画像情報処理/尾上守夫

「百聞は一見に如かず」ということわざにもあるように人間が外界から情報を取り入れる手段として、画像は情報量からいっても、音声や感触によるものよりけた違いに優れている。また処理という点から考えても「パターン認識」という言葉があるように人間の認知能力は画像において最もよく発揮されている。したがって社会活動のあらゆる分野においてデータが画像の形で与えられることが多い。従来その処理は専ら目視によってきた。しかし集団検診などに端的に見られるようなデータ量の急増、それを処理する人手不足などから画像処理の機械化、自動化には強い社会的要請がある。

画像処理の方式は大別して光学、写真、ビデオ技術などに基づいたアナローグ処理と、電子計算機によるディジタル処理とがある。後者は、前者に比して融通性、精度、再現性などの点で優れている。しかし画像のもつ膨大な情報量(たとえばテレビの画面を画像に分ければ、約500×700=35万、それに濃淡、カラー、時間、変化などの情報が乗っている)を計算機内に貯えるための記憶容量とそれを直列に演算していくための時間が実用化の上で大きな障害になっていた。幸いにして集積回路技術の進歩によってディジタル記憶および演算のコストは、このインフレの世の中にあっても確実に低下しつつある。一方アナローグ処理のコストは他の物価と同様に上昇しているから、遅かれ早かれ両者はクロスする。その時期はその応用分野に対する社会的ニーズの強さで決まっていくる。

ディジタル画像処理が最初に日常的に使われはじめたのは衛星画像の分野である(新聞紙上おなじみの月や火星の写真は原画のコントラストが悪いのですべて計算機による強調処理が施してある。また処理の仕方一つで火星の空が青色になったりピンク色になったりしたニュースを記憶しておられる方もあろう)。宇宙観測では経済性をあまり考える必要はなかったが、その後の実用衛星ではそれを考慮してもディジタル処理を取り入れることが多くなってきた。たとえばリモートセンシングで知られる地球資源探査衛星では受信処理がアナローグからディジタルに切り替わってきたし、また多くの波長でとったマルチベクトル画像から土地利用や作況の判別を行うのに従来の目視からディジタルの専用機を使うことが多くなってきている。昨年上がったわが国初の静止気象衛星「ひまわり」の場合も、30分くらい隔たった複数の画像において雲の移動を追跡して、上空の風向、風速を求めるために大規模なディジタル画像処理施設が設けられている。

医学の場合は1972年に計算機トモグラフィ(CT)の劇的な登場がある。従来のX線写真がいわば影絵であるのに対して、CTでは各方向への投影像から断面像を再生することができるため、臓器や腫瘍の関係位置が手にとるようにわかる。レントゲンによるX線発見以来の画期的な出来事といわれているが、実はこの再生はディジタル画像処理によってはじめて実用になったものである。当初静止した頭部断面図をとるのに約4分間を要していたが、今やそれを秒以下に短縮して心臓など動きのある像もとれるようにと活発な研究開発が進められている。そこから並列プロセッサー、超高速データバス、高精細度ディスプレイなど画像処理技術全般に影響を及ぼす種々のものが生まれつつある。

医学の分野ではこのほかにも白血球の自動分類、子宮がんの細胞診の自動化、染色体の自動分類などがディジタル画像処理により実用あるいはそれに近い段階に達している。

はじめにも述べたように人間活動のあらゆる分野に画像処理が関与しているだけに、上記分野での成功はすべての分野にいっせいに波及するきざしにある。非破壊検査、海洋探査、地質探査、生活画像システム、長波長あるいは計算合成ホログラム、交通量計測、画像通信、顔や指紋の同定、印刷、デザインなどはその一部の例にすぎない。実用化の戦線は同時にできるだけ広くなる必要がある。幸いわが国の半導体、光学、ビデオなどの工業は世界に誇れるものがあり、またソフトウェアの開発にあてるべき教育程度の高い人材にも事欠かない。産業政策としてもディジタル画像処理の実用化に力を注ぐべきであろう。それとともに現在対象に密着している個々の画像処理の技法から共通・普遍のものを見い出して体系化していくことが大学の責務であろう。

ディジタル化した画像は従来の標本や写真と異なって保存、複製、輸送などによって劣化しない。したがって学校交流や教育に理想的な媒体である。それが真価を発揮するためには画像入出力装置の較正、記録方式、処理アルゴリズムなどの標準化が大切である。そのために標準画像データベースの建設がはじめられている。

東京大学ではこのような情勢に応えて昭和52年度から「多次元画像情報処理センター」を新設した。これは「画像情報機器学」と「画像電子デバイス工学」の両研究部門の協力を得て、画像処理関係の研究と標準画像の収集、配布のサービスを行っている。大方の御支援をお願いする次第である。

(昭和22年9月卒 東京大学生産技術研究所教授・多次元画像情報処理センター長)

<22号 昭53(1978)>

【23号】定年を迎えるに当たって/瀧 保夫

私は本年3月を以って満60歳の定年を迎えることになりました。大学を卒業し、初めて講師の辞令を頂きましてより、足掛け37年になります。考えてみると誠に長い年月ではありますが、自分にとっては本当に昨日のことの様に感ぜられます。その間、私を育てて頂いた先生方を初め、先輩、友人、後輩の多くの方々に一方ならぬお世話になりましたことをつくづく感し、感謝の気持で一杯であります。

私は、昭和13年に大学に入学しましたが、1年生の時に健康を害し1年間休学して、昭和16年12月卒のクラスと一緒に勉強をして参りました。このクラスは御承知の通り、戦争に備えて卒業が急に早められたクラスで、私共は実習先から急きょ呼び返されて面くらったことを思い出します。私は、同窓会等では便宜上、16年12月卒として居りますが、厳密に言いますと、卒業間際にまた病気をして論文提出ができず、半年遅れの17年6月という日付で卒業させて頂きました。

卒業後は、講師として教室に勤めさせて頂くことになり、直ちに1年生の弱電実験を担当することになりました。その頃は戦争もたけなわとなり、私と近い年齢の者は多く陸海軍に採られるのが普通で、大学でも、近い先輩の岡村先生、山村先生は海軍に、次のクラスの柳井先生は陸軍に入られました。そんな関係で、鳳先生の次は私しか居ないという状態で、いささか心細い気持を味わったことを思い出します。

研究面におきましては、卒業論文以来御指導を頂いた阪本先生の研究室に入れて頂き、通信関係の勉強を致すことになりました。その頃は、矢張り軍関係の研究が中心で、先生の御指導でレーダ受信機の雑音の問題をテーマに頂きましたが、これが私のその後の方向を決めることになったと考えて居ります。

終戦と共に、日本全体は大変苦しい状態に置かれた訳ですが、大学では、軍に行って居られた先生方も復帰され、にわかににぎやかになりました。その頃の、物に不自由しながらも、活気に溢れた雰囲気を懐しく思い出します。私も、引続いて雑音の研究に携わって参りました。その頃は、いわゆる通信理論と言われる部門が急速に発展して来た時代で、私もそんな方面に興味をひかれ、通信方式の研究に手を染める様になり、更に通信理論の応用としてレーダの信号設計とか、テレビジョン信号の帯域圧縮、画像信号の高能率符号化といった方面で仕事を続けて参りました。いま振り返って見ますと、自分の好きなことを好きなペースでやらせて頂けた事を幸に思って居ります。しかし同時に、果してどれ程の事をなし得たかと省みますと、内心忸怩たるものが御座います。

私が大学にお世話になって来ましたこの37年は、誠に変化の激しい時代でありました。日本としても、敗戦から戦後の混乱、復興、高度成長、そして現代の低成長期と、目まぐるしい変遷をして参りました。また、技術的にも、この30年の間の進歩は、眼を見張るものがあります。そんな時代に生きて来られたこと自体一つの幸せであるとも言えますが、それを大学という恵まれた環境の中で、良き師、良き先輩同僚、良き後輩に囲まれて過ごすことが出来ましたのは本当に幸福であったと思って居ります。

私は、この40年に3度大病をし、2度の手術を経験しました。その間、多くの方々に御心配を頂き、御迷惑も掛けて参りましたが、いづれの場合も、以前よりも元気になる程完全に回復することができ、健康で還暦を迎えることが出来ますことは、本当に有難いことだと考えております。幸にして、まだ元気で御座いますので、これから自分の出来るだけの仕事をし、少しでも皆様のお役に立ては幸だと考えております。今までお世話になりましたことを感謝致しますと共に、今後もお世話こなると思いますので宜しくお願いを致します。

(昭和17年6月卒 東京大学電気工学科教授)

<23号 昭54(1979)>

【23号】神話時代の同窓会-桜岡会のこと-/古賀逸策、斉藤忠夫、川上潤三

同窓会もお陰様で会員数4,000名を越え、益々盛大なものになっておりますが、戦後生まれの会員も1,000名に達し、同窓会が現在の姿になるまでの経過などについては、ほとんど知らない世代が増加しております。そこで、この際、同窓会が現在の形になるまでについて、わかる範囲でまとめてみました。何分古い事で、当時の書類等の多くが散逸してしまい、推測に頼る部分が多く、誤りがあるかも知れません。本稿をお読みになって、訂正すべき点がございましたら、同窓会事務局までお知らせ下されば幸いに存じます。

1.桜岡会まで

明治30年頃から、当時教室の最長老教授であった中野先生を中心に、電気工学科の卒業生と在校生が懇親会を開催し、同窓会誌を発行していたようであるが1)、この集まりはむしろ在校生を中心としたようで、現在の同窓会とは性質が異なっていたと思われる。したがって、現在我々が知りうる範囲では、桜岡会が現在の同窓会の前身と考えるべきであろう2)。この会は、中野初子先生の亡くなられた大正3年2月16日以降、大正4年または5年から、毎年3月14日に開かれていたようである。この会の名称は、中野初子先生が故郷佐賀県小城の地名に因んで、「桜岡」と号しておられたことに由来する。この会は中野先生を記念するためのもので、卒業生全体を対象としたものではなかったようではあるが、昭和9年3月23日に開かれることになった。第一回同窓懇親会の準備段階における書状(図1)をみると、この桜岡会が発展解消して同窓懇親会になったことがわかる。現在教室には、第16~18回桜岡会の出欠調査のための往復はがき(図2)が残っているが、これから推測すると、卒業生が会社単位で幹事を引き受けていたことがわかる。なお表1は、この桜岡会関係の年表であるが、第1回を大正5年としたのは、この葉書から逆算したものである。

<参考資料>

  1. 電気工学科同窓会編:東大電気工学科の生い立ち(第1集)、昭和34年3月、p.40~p.49、回顧(其の一)、渋沢元治
  2. 星合正治:“仮題”、理事長挨拶、電気・電子工学科同窓会報、No.16、昭和47年4月

図1 第1回同窓懇親会の準備段階の書状

書状の内容を以下に再掲

拝啓 時下春暖の候貴下益々御清栄の段奉賀候
陳者例年三月十四日を期して故中野初子先生を記念する櫻岡會を開き兼ねて東大電氣学科出身者の懇親を計り居り候處昨年の同會に於いて故山川鳳雨先生に対しても適当の方法を講じて記念する為め此際同會の趣旨、期日、名称等につき考慮すべき申合せ有之東大電氣工學教室の吾々に原案を作成し適当なる委員會を組織して将来の具体的方法を決定すべき旨委嘱せられ候

依て去る二月廿八日本学科卒業生の各クラスより一名つつ三十余名の御會合を乞ひ御相談の上左の如く決定致し候間何卒御諒承下され度候

一、毎年一回東大電氣工學科卒業生相集り、物故されし諸先生に慕謝の意を表すと共に相互の懇親を計ること

二、右會合には、エアトン、志田、藤岡、中野、山川、鳳六先生の御寫眞を掲げて禮拝すること
(註)委員會に於いて吾々の教を受けし諸先生は右の諸教授の他講師、他学科の教官非常に多数に上るも代表的の意味にて工部大学校創立当初の教官エアトン先生と電氣工學科の教授たりし五先生とすることに決定せり

三、會合の期日は電氣デー(三月廿五日)に近き適当なる日を幹事において選定すること
(註)明治十一年三月廿五日エアトン先生は当時の学生たりし志田、藤岡、中野諸先生を助手として木挽町に新設せる中央電信局の開業式祝宴を工部大学校に開くに當り、同校の晩餐會場の燈火用としてグローブ電池を使用して蛍光灯を點せしと云ふ(工部大学校史書による)

四、會の名称は本年は東大電氣工學科同窓懇親會とし追て適当の會名を選定すること

五、會合の通知は東京付近在住の卒業生全部に郵送すること
但し当日地方より上京中の方にも成るべく繰り合せ来會を望むこと

尚本會は物故諸先生に敬意を表するを趣旨とするも追弔の意味を濃厚にして會を湿やかにすることは諸先生の霊も却って喜ばれざるべきに付き恰も記念日の會合に類するものと看倣し興味ある講演又は肩のこらぬ漫談などを催し在天の諸先生も来會遊され吾々と共に歓談せらるゝ気持ちにて一夕の歓を盡す様致し度との希望多く有之候就いては何卒奮って多数御参會下され本會合を盛大に且つ有意義になされ度希望致し候

昭和九年三月    世話人

図2 第16回桜岡会の案内状

表1 桜岡会、同窓懇親会関係年表

大正5年 第1回桜岡会 推定3/14
大正6年 第2回桜岡会 推定3/14
大正7年 第3回桜岡会 推定3/14
大正8年 第4回桜岡会 推定3/14
大正9年 第5回桜岡会 推定3/14
大正10年 第6回桜岡会 推定3/14
大正11年 第7回桜岡会 推定3/14
大正12年 第8回桜岡会 推定3/14
大正13年 第9回桜岡会 推定3/14
大正14年 第10回桜岡会 推定3/14
大正15年 第11回桜岡会 推定3/14
昭和2年 第12回桜岡会 推定3/14
昭和3年 第13回桜岡会 推定3/14
昭和4年 第14回桜岡会 推定3/14
昭和5年 第15回桜岡会 推定3/14
昭和6年 第16回桜岡会 3/14
昭和7年 第17回桜岡会 3/14
昭和8年 第18回桜岡会 3/14
昭和9年 第1回同窓懇親会 3/23
昭和10年 第2回同窓懇親会 3/25
昭和11年 第3回同窓懇親会 3/26
昭和12年 第4回同窓懇親会 4/27
昭和13年 第5回同窓懇親会 4/28
昭和14年 第6回同窓懇親会 4/21
昭和15年 第7回同窓懇親会 4/26
昭和16年 第8回同窓懇親会 4/25
昭和17年 第9回同窓懇親会 4/24
昭和18年 第10回同窓懇親会 4/26
昭和19年
昭和20年
昭和21年
昭和22年 第11回同窓懇親会 5/21
昭和23年 第12回同窓懇親会 11/6
昭和24年 第13回同窓懇親会 6/5
昭和25年 第14回同窓懇親会
昭和26年 第15回同窓懇親会
昭和27年 第16回同窓懇親会
昭和28年 第17回同窓懇親会
昭和29年 第18回同窓懇親会
昭和30年 第19回同窓懇親会
昭和31年 第20回同窓懇親会
昭和32年 第21回同窓懇親会
昭和33年 第22回同窓懇親会
昭和34年 第23回同窓懇親会
昭和35年 第24回同窓懇親会
昭和36年 第25回同窓懇親会
昭和37年 第26回同窓懇親会
昭和38年 第27回同窓懇親会
昭和39年 第28回同窓懇親会
昭和40年 第29回同窓懇親会
昭和41年 第30回同窓懇親会
昭和42年 第31回同窓懇親会
昭和43年 第32回同窓懇親会
昭和44年 第33回同窓懇親会
昭和45年 第34回同窓懇親会
昭和46年 第35回同窓懇親会
昭和47年 第36回同窓懇親会
昭和48年 第37回同窓懇親会
昭和49年 第38回同窓懇親会
昭和50年 第39回同窓懇親会
昭和51年 第40回同窓懇親会
昭和52年 第41回同窓懇親会
昭和53年 第42回同窓懇親会

<23号 昭54(1979)>

【24号】定年を迎えるに当たって/斎藤成文

私は昨年9月17日、満60歳の誕生日を迎え、本年3月をもって、足かけ39年お世話になりました東京大学を定年退官いたすことになりました。

我々のクラスは第2次大戦のため3か月の学年短縮が実施され、大戦突入直後の昭和16年12月末に所謂戦時規格(Z-規格)第1号として卒業致しました。私は翌昭和17年4月に開校が予定されておりました東京帝国大学第2工学部の教官要員として就職致し, 1月7日に新学部長に内定しておられた瀬藤先生から講師の辞令を頂きました。短い期間ではありましたが、今まで学生として通っておりました工学部の電気科教室に教官の卵として勤務し、第2工学部にお出になることが決っておりました星合先生、福田先生から第2工学部の構想なとを伺ったのを昨日のことのように覚えております。

1月末から短期現役の海軍技術士官として終戦まで、目黒の海軍技術研究所においてマイクロ波レーダの開発に従事致しましたが、この間も引続き第2工学部の講師を仰せ付かり、僅かではありますが月々のお手当も頂きました。あとから承りますと私の名札が常に赤札になっていたので学生さん方は幻の斎藤講師と呼んでいたそうです。

終戦後、ただちに千葉の第2工学部に帰って参りましたが、戦後の混乱期にあって建設中ばであった第2工学部での教育、研究は困難を極め、瀬藤、星合先生はじめ、諸先生方の御苦労は大変なものでした。当時は沢井先生と私の一年後輩の水上さんが共に健康を害され、休んでおられましたので唯お一人の助教授の森脇先生と私だけが着手の教官という寂しい状況ではありましたが、私なりに先生方の御指導で電気エ学教室の建設に努力したことを楽しい想い出としております。特に当時特別研究生であった安達、丹羽、中西、野村さんなどの協力を得て、学生さんと一緒に芋畑を作り、食糧確保に努めながら学校に泊り込みで研究、教育に若い情熱を傾けたことは生涯忘れ得ぬ思い出であります。第2工学部の卒業生が各方面の第一線で活躍されている現在でも、20年会、30年会などでお目にかかると話題に出るのは当時第1工学部に比べて決して恵まれた環境ではなかった千葉での学生生活、そして困苦欠乏に耐えた貴重な体験についてであり、それぞれの楽しい想い出となっていることを伺って教職冥利につきるとつくづく感じる次第であります。

終戦直後の混乱期にあっては当時興味のあったマイクロ波の研究などを行う環境ではありませんでしたので、当時流行の高周波誘電加熱の基礎的研究、例えば加熱電極による電磁界分布と加熱特性、高周波沿面放電などの問題に取組むと共に、その応用例として特殊合板の成型加工の試作研究を私の慶応幼稚舎時代からの友人の新田ベニヤ工業と共同で始めました。幸にして前者は後に私の博士論文としてまとめることが出来、後者は新田ペニヤ工業(株)東京工場の主要製品になりました。

やがて逓信省電気通信研究所がマイクロ波通信の開発研究を始めるなど、マイクロ波研究の気運が高まると共に私もマイクロ波精密測定という地味ではあるがこのような新分野の開拓に極めて重要な基礎技術の確立に努めました。その幾つかは上述の通研の委託研究として行ったもので、その後のマイクロ波通信の発展になにがしの貢献をなし得たことを喜んでおります。

またこの時期にエレクトロニクス技術の導入に努めていた電力会社の要請を受けて、高木先生、藤高先生の御指導のもとに電力線搬送通信、電波障害、さらに当時創設期にあった電力用マイクロ波通信方式の研究を行いました。特に千葉の学校の構内に数kmにも及ぶ模型送電線を作って広くこの方面の専門家を動員しその搬送特性の解明を行ったことなど忘れられません。

これより前昭和24年5月には第2二学部廃止を前提として新しく生産技術研究所が発足し、私も配置換えとなり、前述の研究も生産研の仕事として行われたものであります。

昭和30年9月より2か年間マサチューセッツ工科大学エレクトロニクス研究所にて客員研究員として留学し、マイクロ波低雑音電子ビームの研究なと低雑音増福器の研究を行いました。これは当時米ソ冷戦下の対ICBM早期警戒や宇宙通信の黎明期にあるマイクロ波低雑音受信機の開発が国家的問題として採り上げられていたことと無関係ではありません。またこの研究が私がその後現在まで観測ロケット、科学衛星など広く宇宙開発の途に入る切っかけともなりました。

御承知のように東京大学生産技術研究所では昭和30年より観測ロケット特別事業が発足し、私が帰国した昭和32年にはやっと高度60kmを目標にしたロケットの開発が進められておりました。先生方のお勧めで低雑音受信機の研究の成果を活かすよう、宇宙エレクトロニクス分野担当の一員としてこの特別事業に参加させて頂きました。

その後今日まで数多くの先生方並びに各方面の関運の同窓の方々に御指導、御協力、御援助を頂きました。大学の事業として破格の規模に進展し、既に十数個の人工衛星を打ち上げ、国際的にも高い評価を受け、またその将来の発展が約束されております。私自身、この大学の科学衛星計画のみならず、実用衛星を担当している宇宙開発事業団に非常勤理事として一時勤務いたし、またその後は宇宙開発委員(非常勤)としてより広い立場から我が国の宇宙開発の進展に参与させて頂いております。

この間私の研究面で特筆すべきことはレーザとその光通信への研究であります。レーザは昭和35年米国において発明されましたが、その翌年渡米した私が、かつてマイクロ波研究の同僚が数多くレーザ分野に転身しているのに刺激され、レーザ研究を恐らくは我が国の電子工学者として最も早く着手致しました。マイクロ波研究の私なりの手法に従ってレーザ電磁回路とその精密測定技術の開発から一歩一歩進めて来たのも今になっては懐しい想い出であります。幸にしてかつては金のかかる道楽息子と悪口を言われたレーザも光通信を始め多くの実用面が開拓され、前途洋々であります。

本当に皆様の御指導、御鞭撻のお陰で恵まれた教育、研究生活を送らせて頂きました。東京大学は離れますものの、今後とも心身の許す限り同じような方面で努力させて頂きたいと念じております。従来同様の御厚情を頂きたく本誌を拝借して同窓の方々に御願い申し上げます。

(昭和16年12月卒 東京大学生産技術研究所教授)

<24号 昭55(1980)>

【24号】北海道-本州電力連系について/竹之内達也

昭和54年12月1日北海道と本州をつなぐ本格的な直流送電設備が15万kWの出力で運転を開始した。昭和55年6月には30万kWとなる予定である。函館と上北に変換所を設け、40 kmの海底ケープルと120kmの架空線などをもつ設備で、最終的には±25万V、60万kWとなる。全て国産の技術で記録的内容を含み世界的にも注視されている。その後の運転も順調である。以下に日本の直流電送の歴史を回顧し、この連系の紹介をいたしたい。

(1)わが国直流送電技術の生い立ち
第二次大戦末期(1945年)ドイツにおいて、115km±、20万V、6万kWの実験設備が僅か2週間運転し敗戦で中止したのが直流送電実用化の世界最初のものである。その後スエーデンにおいてゴットランド島送電が1954年世界最初の商用設備として運転を開始した。

わが国においては昭和27年より電気協同研究会に直流送電専門委員会が設けられ昭和38年に研究成果を発表し、多大の貢献をされた。また昭和33年に長崎港外高島において5km、3万V、3,750 kWの実用化研究が三菱電機(株)などの手によって行われ、一応成功したが、商用にはならなかった。

昭和34年頃よリスエーデンの技術調査の結果、確信を得て電源開発会社は50/60Hz連系計画を提案し、電力中央研究所内の両サイクル連系問題委員会の検討を経て、昭和37年2月に電力中央協議会において決定をみたのが佐久間周波数変換所である。送電線路はないが、直流送電技術の全面的応用である。直流に関係する主要部分はスエーデンASEA社よりの輸入品で、変圧器および電力用コンデンサ(フィルター用)などのみが国産であった。DC125kV、30万kWで水銀パルブによるわが国最初の商用設備である。昭和40年10月より営業運転を順調に継続している。この仕事を終って、直流機器の国産化をしなければならないと考え計画したところ、これが採り上げられ、官民共同してのサイリスタ変換装置の実用化試験研究が佐久間において行われた。昭和45年11月から3年間の実系統試験を経て、DC125kV、300Aの屋内空冷式と屋外油冷式のサイリスタパルプの開発に成功した。水銀に比してサイリスタは無逆弧、無化成などの利点がある。

このあと東京電力(株)は長野県に第二の50/60Hz周波数変換所の建設を行った。ここでは全て国産で、上記の屋外油冷式サイリスタパルプが採用されている。DC125kV、30万kW(将来60万kW)で、昭和52年12月に営業運転を開始し、その後順調に運転されていると聞く。国産による交直変換技術が正に確立されたのである。

(2)北海道-本州電力連系の建設
北海道-本州電力連系(北・本連系と略称)については昭和43年北海道開発庁の委託により電気協同研究会内に専門委員会が設立され3か年計画で、調査を始めたのが具体化の第一歩である。調査として技術的な諸問題、ルートの検討などが行われ、連系は可能であるとの結論であった。一方、これとは別に東地域の北海道、東北、東京ならびに電源開発の4電力会社による委員会が設けられ検討が行われた結果、昭和46年2月に最終出力60万kWとする連系の基本構想が4社によって策定発表され、同年9月には工事を電源開発会社が担当することも決定された以後ドルショック(昭和47年)、第一次石油ショック(昭和50年)などの経済変動による計画、工期の変更などがあったが、最終的には15万kW(54年12月)、30万kW増設(55年6月)、最終60万kW(時期未定)の計画で工事が進められた。

この設備の特長とするところは、(イ)わが国最初の本格的直流送電であり、しかも、深さ300m布設の海底横断である。汚損、塩雪害を含む直流架空線の絶縁設計、ケープルの絶縁、油圧設計など検討を要した。また諸外国において行われている大地帰路方式は日本の国情よりして時期尚早と思われ今回は金属帰路方式を採用した。(口)サイリスタパルプには前述の実用化試験研究に負うところが多いが、サイリスタ素子は4kV1、1500Aと世界最大級のものとし、また、制御方式に光ファイパーによるパルス信号伝送を用いる、など新味がある。なお、屋内形空気絶縁方式のパルプを採用しているのは東京電力の新信濃のものと異なる。 (ハ)潮流制御には常時の周波数変動を改善できるような調整機能を保有させているのも新しい試みである。

昭和51年夏頃から工事着工して以来、途中各種の困難を克服して予定通りの運転開始をすることができた。工事、調整、試験を通じて未解決の問題はなく、直流送電技術は信頼できるレベルにあると断言できる。人工故障試験で判ったことだが、故障電流アークは負荷電流程度に制御されて、損傷や系統波及が少ない利点を実感したまた鉄塔が小さく、電線の数も少なくてよいのも今後の超々高電圧送電時代に評価されてよいものと思う。終わりに、昭和30年12月の電気協同研究誌の直流送電中間報告の結言に、「新しい技術の開発に当っては、 経験を持たぬ不安から、ともすれば漠然とした危惧が持たれやすいが、直流送電の前途には超え難い障害はないように思われる」、 更に各界各層が、「実行力を発揮して一致協力することにより、わが国において大規模直流送電が一日の早く実現されることを期待する次第である」と述べられているが、今昔の感に堪えない。今後は実証済の技術として抵抗惑なく取り入れられるものと大いに期待しています。

(昭和25年第二工学部卒 電源開発(株)工務部長)

<24号 昭55(1980)>