【21号】東大を去るに当って/尾佐竹旬

私が終戦の年の4月に、通信院工作所東京第一工場長から東京大学に移って満33年目を迎えることになった。昨年10月還暦を迎えたとき、何かと御祝詞を戴き、 自分としては一所懸命に還暦の意味をかみしめてみた。私の愛車も、走行距離19万kmを軽く超え、間もなく2度目の還暦を迎えるようになり、あちこち相当に弱ってきたが、まだ時には時速120 kmも耐えて走っている 私の体もこの車と似ているように思われてくる。

この同窓会報も21号目を迎え、第1号を作り上げるとき私が担当幹事として、表紙を自書し、内容の体裁を作り上げたことが思い出されてくる。20年間そのままの形で今日に到り、21年目にこのような一文を載せて頂くのも感慨深いものがある。

この33年間をぶり返ってみると、私としては三つの期間に大別される。初めの10年間は、大学の教官は如何にあるべきか、大学教官としての研究は如何にすべきかを勉強した期間であり、次の10年間はアメリカとの往復に過ぎ、丁度、 日本が国際社会へ復帰し始めた時期にも当り、 日本の社会や大学と、アメリカのそれとの違いを勉強した期間であり、最近の10年間は、大学教官としての仕上げとして、新しいアイディアを盛り上げるための指導と、学会を初め社会への貢献と、WFEO(世界工学団体連盟)を通じてのヨーロッパ各国、発展途上国の工学会の方々と御つき合いをし、国際間の物事の決め方のプロセスを勉強させて頂いた。

この間に、本学の名誉教授の先生方を始め、電気、電子工学科の同僚、後輩の先生方は勿論のこと、同窓生の方々、米沢滋様始め電電公社の諸先輩には、多大の御迷惑を御かけしたにも拘らず、私を心暖かく御支援戴いたことを深く感謝している。

何といっても、私に「お前は、われわれの税金で食べているのであるから、 くだらぬ研究はやるな、立派な東大の先生になってくれ」と私を励まして下さった、電電公社の諸先輩の御言葉は、身にしみて感じ、今日までその御期待の万分の一は、果たし得たかと思っている。

私が大学へ移ると決ったとき、大学の教官も教育者の一人であると思うと身の引き締る思いがした。そのとき、ふと思い出したのは私の学んだ小学校、千駄ケ谷第一尋常高等小学校の講堂にかかげてあった「ペスタロッチ」の肖像画であった。人間社会のすべての基本は教育にあることを実践した人と書いてあったことと、また次に進んだ東京府立第五中学校の伊藤長七校長の身を以て学生に当るという気塊ある教育態度であった。

また、大学卒業生が一人も居ない逓信省の現場の長を歴任した私が、電気工学科の学生に接したときに、この世の中に、こんな恵まれた人達の集団があったのか、 と改めて驚くと共に、この若者達の能力を、 日本の社会をよりよくするために、大切に使うような気持にさせたいと思うようになった。それには学生に、 将来の「ロマン」を持たせることだ、 と思いついた。そして、それを今日まで続けてきた。

教官としての日常生活のうえでは、大学の先生方が、庶務、教務、物品出納から会計まで、手伝い一人で全部自分自身でやって居られるのには驚いた それまでの私は、多数の係長の上に座って仕事をしていればよかったので、先生方は何故に、そんなことを平気でやっておられるのか、 また大学には組織がないのに、なぜ動いているのかなどが判るまでには、何年もの年月が必要であった。

最初に戴いた研究室の天丼に穴が開いていて、そこから夜空が見えたのも思い出であるし、最初の高周波測定法の講義、鳳先生から引き継いだ電気磁気測定法の講義、講師の嶋津保次郎先生から引き継いだ有線機器学・有線伝送学を通信伝送学とし、有線機器学を通信交換工学にし、更に通信系統工学の新設など。

また、大学紛争のときには茅総長缶詰め事件を始め、全学学生委員長と銀杏並木でやり合ったり、工学部学生委員長の処分の文案作りから中し渡しまで、安田講堂事件の前後、名指しで工学部長宛の公開質問状を出されたり、銀杏並木に大きい立看板で、でかでかと2度にわたって批難されたときのこと、加藤総長の後任として向坊氏が選挙されそうになり、それを防止するためにピエロの役を買って出たときのこと、高エネルギー研究予算を取ってくるときのこと、10号館建設への募金を不タートするときのこと、などなど限りなく思い出されてくる。

安田講堂前には、きれいに石畳がしかれて、学生達がベンチに腰を下ろしている。10号館では、楽しげに学生も職員も暮している。

この平和な学園を眺めると、私がその幾分かにでも貢献出来たことを嬉しく思っている。やがて大学構内の桜も満開になるであろうし、また銀杏並木も色づくことであろう。しかし3号館の前の欅が、年毎に1本、 1本と枯れて消えている。

私が、 2月17日の「最終講義」のときに申し上げたことであるが、過去の歴史的事実から推論すると、いよいよ技術的にもも社会的にも、過去の知識の延長のものではなく、質的に基本的に考えの変ったもへの移り変りの時代に入ってきたということが出来ようかと思われる。

平和に見える学園とはうらはらに、内実的には大きい変革への胎動を始めなければならないと思われる。幸にして電気・電子工学科の若い教官諸君には充分その責に耐える優秀な人達が揃っている。また同窓生諸兄も既にそのことを知って居られる優秀な方々が多数居られる。

皆様の新しい時代への御健闘を期待して筆を置くことにする。

(昭16年卒 東京大学電気工学科教授)

<21号 昭52(1977)>

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