【24号】定年を迎えるに当たって/斎藤成文
私は昨年9月17日、満60歳の誕生日を迎え、本年3月をもって、足かけ39年お世話になりました東京大学を定年退官いたすことになりました。
我々のクラスは第2次大戦のため3か月の学年短縮が実施され、大戦突入直後の昭和16年12月末に所謂戦時規格(Z-規格)第1号として卒業致しました。私は翌昭和17年4月に開校が予定されておりました東京帝国大学第2工学部の教官要員として就職致し, 1月7日に新学部長に内定しておられた瀬藤先生から講師の辞令を頂きました。短い期間ではありましたが、今まで学生として通っておりました工学部の電気科教室に教官の卵として勤務し、第2工学部にお出になることが決っておりました星合先生、福田先生から第2工学部の構想なとを伺ったのを昨日のことのように覚えております。
1月末から短期現役の海軍技術士官として終戦まで、目黒の海軍技術研究所においてマイクロ波レーダの開発に従事致しましたが、この間も引続き第2工学部の講師を仰せ付かり、僅かではありますが月々のお手当も頂きました。あとから承りますと私の名札が常に赤札になっていたので学生さん方は幻の斎藤講師と呼んでいたそうです。
終戦後、ただちに千葉の第2工学部に帰って参りましたが、戦後の混乱期にあって建設中ばであった第2工学部での教育、研究は困難を極め、瀬藤、星合先生はじめ、諸先生方の御苦労は大変なものでした。当時は沢井先生と私の一年後輩の水上さんが共に健康を害され、休んでおられましたので唯お一人の助教授の森脇先生と私だけが着手の教官という寂しい状況ではありましたが、私なりに先生方の御指導で電気エ学教室の建設に努力したことを楽しい想い出としております。特に当時特別研究生であった安達、丹羽、中西、野村さんなどの協力を得て、学生さんと一緒に芋畑を作り、食糧確保に努めながら学校に泊り込みで研究、教育に若い情熱を傾けたことは生涯忘れ得ぬ思い出であります。第2工学部の卒業生が各方面の第一線で活躍されている現在でも、20年会、30年会などでお目にかかると話題に出るのは当時第1工学部に比べて決して恵まれた環境ではなかった千葉での学生生活、そして困苦欠乏に耐えた貴重な体験についてであり、それぞれの楽しい想い出となっていることを伺って教職冥利につきるとつくづく感じる次第であります。
終戦直後の混乱期にあっては当時興味のあったマイクロ波の研究などを行う環境ではありませんでしたので、当時流行の高周波誘電加熱の基礎的研究、例えば加熱電極による電磁界分布と加熱特性、高周波沿面放電などの問題に取組むと共に、その応用例として特殊合板の成型加工の試作研究を私の慶応幼稚舎時代からの友人の新田ベニヤ工業と共同で始めました。幸にして前者は後に私の博士論文としてまとめることが出来、後者は新田ペニヤ工業(株)東京工場の主要製品になりました。
やがて逓信省電気通信研究所がマイクロ波通信の開発研究を始めるなど、マイクロ波研究の気運が高まると共に私もマイクロ波精密測定という地味ではあるがこのような新分野の開拓に極めて重要な基礎技術の確立に努めました。その幾つかは上述の通研の委託研究として行ったもので、その後のマイクロ波通信の発展になにがしの貢献をなし得たことを喜んでおります。
またこの時期にエレクトロニクス技術の導入に努めていた電力会社の要請を受けて、高木先生、藤高先生の御指導のもとに電力線搬送通信、電波障害、さらに当時創設期にあった電力用マイクロ波通信方式の研究を行いました。特に千葉の学校の構内に数kmにも及ぶ模型送電線を作って広くこの方面の専門家を動員しその搬送特性の解明を行ったことなど忘れられません。
これより前昭和24年5月には第2二学部廃止を前提として新しく生産技術研究所が発足し、私も配置換えとなり、前述の研究も生産研の仕事として行われたものであります。
昭和30年9月より2か年間マサチューセッツ工科大学エレクトロニクス研究所にて客員研究員として留学し、マイクロ波低雑音電子ビームの研究なと低雑音増福器の研究を行いました。これは当時米ソ冷戦下の対ICBM早期警戒や宇宙通信の黎明期にあるマイクロ波低雑音受信機の開発が国家的問題として採り上げられていたことと無関係ではありません。またこの研究が私がその後現在まで観測ロケット、科学衛星など広く宇宙開発の途に入る切っかけともなりました。
御承知のように東京大学生産技術研究所では昭和30年より観測ロケット特別事業が発足し、私が帰国した昭和32年にはやっと高度60kmを目標にしたロケットの開発が進められておりました。先生方のお勧めで低雑音受信機の研究の成果を活かすよう、宇宙エレクトロニクス分野担当の一員としてこの特別事業に参加させて頂きました。
その後今日まで数多くの先生方並びに各方面の関運の同窓の方々に御指導、御協力、御援助を頂きました。大学の事業として破格の規模に進展し、既に十数個の人工衛星を打ち上げ、国際的にも高い評価を受け、またその将来の発展が約束されております。私自身、この大学の科学衛星計画のみならず、実用衛星を担当している宇宙開発事業団に非常勤理事として一時勤務いたし、またその後は宇宙開発委員(非常勤)としてより広い立場から我が国の宇宙開発の進展に参与させて頂いております。
この間私の研究面で特筆すべきことはレーザとその光通信への研究であります。レーザは昭和35年米国において発明されましたが、その翌年渡米した私が、かつてマイクロ波研究の同僚が数多くレーザ分野に転身しているのに刺激され、レーザ研究を恐らくは我が国の電子工学者として最も早く着手致しました。マイクロ波研究の私なりの手法に従ってレーザ電磁回路とその精密測定技術の開発から一歩一歩進めて来たのも今になっては懐しい想い出であります。幸にしてかつては金のかかる道楽息子と悪口を言われたレーザも光通信を始め多くの実用面が開拓され、前途洋々であります。
本当に皆様の御指導、御鞭撻のお陰で恵まれた教育、研究生活を送らせて頂きました。東京大学は離れますものの、今後とも心身の許す限り同じような方面で努力させて頂きたいと念じております。従来同様の御厚情を頂きたく本誌を拝借して同窓の方々に御願い申し上げます。
(昭和16年12月卒 東京大学生産技術研究所教授)
<24号 昭55(1980)>