【22号】思い出/岡村総吾
大学を卒業して直ちに本学の講師を拝命してから38年の歳月が立って、この13月で東京大学を定年退官することになりました。 月並みな表現ですが、今更ながら月日の経つのは早いものだと感無量です。
卒業後すぐ一年生の弱電実験(今の基礎実験に相当)の講義と実験の指導を命ぜられ、鳳誠三郎先生の御手伝いをすることになりましたが、同時に有線通信の勉強をするために 五反田の電気試験所第2部に派遣されました。当時所長は密田良太郎さん(明治44年)で第2部の部長は学生時代「有線通信」の講義を拝聴した大橋幹一先生(大正11年)で、吉田五郎さん(昭和5年)や染谷勲さん(昭和13年)等の先輩にお世話になりました。ところが間もなく2年現役海軍造兵中尉として、軍務に服することになりましたので、電気試験所の生活は3か月足らずで終わってしまいました。したがって研究としては何一つ手掛けることができませんした。ただ当時の電気試験所では幾つかの輪講のグループがあり、時には毎週朝7時に集まって勉強したことが記憶に残っています。
海軍に入って横須賀の砲術学校で訓練を受けた後、約6か月佐世保海軍工廠で実習をしました。実習中工廠場の現場を廻り、実際に鋳造や機械工作等も自分でやることができて有益でした。また勤務時間外に桂井試之助さん(昭和11年)の翻訳されたパルクハウゼンの「電子管」の原稿を読ませて載いて大変興味をもち、後に自分でも原書を買って読み始めました。昭和16年2月、東京恵比寿の海軍技術研究所に配属され、暫く部品素材の担当を命ぜられていましたが、その年の10月に伊藤庸二さん(大正13年)がドイツから帰国され、磁電管を使ったレーダーの研究班に配属され、これこそがその後現在までマイクロ波の研究に従事する端緒となりました。昭和16年12月3日、芝浦工作機械株式会社の屋上に仮設した実験所で実験中、横浜港を出港した商船浅間丸を、レーダーにより22km程度まで捕捉することができて大喜びしたのも、ついこの間のような気がします。その直後第2次世界大戦に突入したため、終戦後まで海軍にされ召集されることになりましたが、東京の研究所に勤務していた関係上、軍務のかたわら、本郷に来て大学で講義をすることを許して載きました。
終戦後大学に復帰して、阪本捷房先生の御指導の下に、高周波研究室の一員としてマイクロ波の研究に従事することになりましたが、山田直平先生の研究室での基礎物理学の輪講にも参加させて戴きました。また講義の面では星合正治先生の御指導で「電子管」の講義の一部を受け持たせて戴き、先生の御退官後これを引き継ぎ、とうとう定年退官の本年度末まで電子管の議義を担当することになりました。また大山松次郎先生が学部長てお忙しいとき、「電気工学通論」、「電灯照明」、「電熱工学」等の議義を代講し、大変勉強になりました。昭和28年British Councilの留学生として約一か年University College Londonに留学し、H.M.Barlow教授の御指導を受けましたが、その帰途オランダのヘーグで開催された国際電波科学連合第11回総会に出席する機会を与えられ、これが契機となって、同連合の仕事の一環としてマイクロ波標準測定の研究に従事するようになりました。この仕事では終始古賀逸策先生の御指導を受けました。昭和30年には阪本捷房先生の御推薦で郵政省電波研究所の超高周波研究室長を兼務することになリ、ミリメートル波の大気減衰の研究を開始することになりましたが、このとき研究所の予算要求のため大蔵省の主計官と折衝するようなこともしました。これは今になって考えるとよい経験であったと思います。
卒業後大学に残るようにお勧め戴いたとき、生来自分は内向的な性格で研究室にこもっているしか能のない人間だと思い、大学にお世話になることを決心したのですが、昭和43年に思いがけない大学紛争が勃発し、いつの間にか大学行政に関係させられるようになり、工学部長や総長特別補佐を命ぜられたり、政府の審議会やOECDの科学技術政策委員会の委員等、柄にもない仕事で忙しいめに会うことになってしまいました。自分としては、若い時から今に至るまで、その時その時の仕事に自分なりに一生懸命努力してきたつもりですので、心残りはありませんが、退官に当たって過去を振り返ってみますと、何となく周囲の情勢に押し流されて、いろいろの事に手を出してしまい、教育研究、大学行政、社会奉仕等のいずれも中途半端に終わってしまったことを恥ずかしく思っております。
子供の時から蒲柳の質で、若い頃も始終風邪を引いていた弱虫の私が、元気で間もなく還暦を迎えることのできるのはまことに有難いことです。今まで何とか無事に仕事をしてこられたのも、ここに述べた方々を始め、数多くの恩師や先輩の方々の御指導のお蔭で感謝に耐えません。また多くの立派な同僚、友人、後輩および学生諸君に恵まれ、楽しい研究生活を送ることができたことを嬉しく思っております。幸いまだ元気ですので、今後も自分の出来るだけの仕事に精を出すつもりです。何分宜しくお願い申し上げます。
(昭和15年卒 東京大学電子工学科教授)
<22号 昭53(1978)>