K-装置の開発/矢部五郎

電波報國隊として海軍技術研究所に配属された細島博文、吉名真及び矢部は新川浩技師の電波探信儀開発に従事することになり、始めはともかく勉強のため、3号1型電探の試験調整を行っている茅ヶ崎砲台を約1週間見学した。ただ見学するだけでは勤労動員にはならないというためか、行き掛けに測距用目盛りを動かす指数関数ポテンションメーター(住友通信製)とその距離目盛りを高角砲の計算機に送信するセルシン(角度送信機)などを組み込み頑丈な箱に収めた測距装置(正式の名称は忘れた)を富士電機の川崎工場で受け取り茅ヶ崎砲台まで運搬した。つまり、我々3名の作業は重量物運搬で始まった。

茅ヶ崎では、海軍技研で3号1型の責任者だった乙部聖爾技術大尉(東工大・旧制中学で矢部の5年先輩、かつ矢部の小学同級生の兄)と砲術学校教官の上田實技術中尉(電気、昭和17年9月)にお世話になった。これも奇縁といえる。上田中尉の縁で砲術学校の電探部長の大佐(氏名を失念、後に戦死された)に夕食をご馳走になり、酒の上で、戦局や職業軍人の悩みを打ち明けられたのを人生の教訓として聞いた。

茅ヶ崎から恵比寿の技研に戻ると、3名は世田谷区砧の日本放送協会技術研究所に移り、受像機部において城見多津一技師の指導を受けてK―装置の開発を担当することになった。先ず、高柳健次郎部長に着任挨拶して、城見さんから仕事の内容を教えてもらった。

たった1年半しか電気を勉強していない、僕ら3名にとって、受像機のイロハから勉強しなければならなかった。いきなりビデオアンプといわれても、まったく分からない。しかたがないので、しばらくは図書室に入りびたりで、テレビの解説書やIREの論文を読み、やっと、研究室の人の言葉が分かるようになった。

さて、K―装置とはなにかというと、簡易型電波探信儀の開発コードで航空機搭載用になるべく軽量小型にすることが目標であった。プロジェクトリーダーは大阪大学の原子物理学の菊地正士教授であった。僕らの任務はK―装置のCRT表示装置を2台試作することで、軽量小型にするために真空管を使わず、磁気回路で、同期信号と、CRTの横軸偏向電圧、輝度信号、陽極加速電圧を発生する装置とCRTを一つの箱に収める設計であった。(注)

先ず、部品設計に着手する前に、納期が長い箱を設計して注文することから始めた。略図を書いて、蒲田にある通信機工場に頼みに行くまでは3名の共同作業だったが、部品設計に着手する前に、矢部だけ住友通信工業(現在のNEC)の玉川向工場検査課に行くことになった。したがって、その後の経過は細島君から聞いた話である。

箱の材料で問題が起きた。それは航空機用だからアルミを使いたいが、材料配給キップがないがどうするかと注文先の工場から質問されたが、手配の方法が分からずに、まごまごしていると、工場が適当に材料を融通して解決してくれた。やかましい統制時代でも、なんとかやりくりできることを経験した。

箱に収める部品はすべて細島・吉名両君の手製で、E型の圧粉鉄心にコイルを巻いたものとコンデンサ及び抵抗器をアルミ板に固定して回路をハンダ着けした。

昭和19年3月に完成品を菊地先生に届けたが、ただ受け取って戴けただけで、がっかりしたと細島君は述懐していた。

(以下も矢部の感想)

昭和19年2月に砧に戻ったときに完成した箱を見ることができたが、スマートな出来栄えで、とても兵器とは思えなかった記憶がある。

平成始めごろ、NHKの技術研究所の公開に行き、思い出の研究室の周囲を見て回った。その後、木造のテレビ研究室は取り壊されたので、今(平成16年)はない。日本で最初にテレビ放送の試験電波を送信したアンテナ、スタジオなどもなくなって、歴史の変転を痛感する。

小田急の祖師谷大蔵駅を降り、研究所まで麦畑を毎朝走った記憶が昨日のように残っている。

注.―航空機用の電源は400Hzの交流だから、それをそのまま使う。磁気回路を飽和させると矩形に近くなるので、それを微分して同期信号(送信機に送る)にする。当時のCRT(2インチだと記憶しているが)は静電偏向だから正弦波の直線部分の電圧を利用して時間軸(水平偏向)に使う。受信機から受け取った信号は垂直軸に入れる。輝度信号は同期信号から作る。

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