「2004年1月」のアーカイブ

 美談か苦労話か/粟冠俊勝

矢部さんから執筆依頼が来て、半世紀ぶりに電波報國隊と云う言葉を思い出しました。電波報國隊を可能にした国家総動員法等々を思い出すには、大分手間が掛かりましたが。

昭和13年の、それはノモンハン惨敗の前年ですが、総動員法は政府に事実上の独裁権を与えたもので、大抵の事は勅令等で、当事者が小さいと考えた事は、その通牒等で決められる云う物でした。

学徒出陣は前者で、昭和18年の臨時特令です。しかし学徒動員の強制を定めた「学徒勤労令」は昭和19年の筈ですから、我々の電波報國隊はその直前、商工大臣(もしかすると省の名前が変って軍需大臣)のご意向による口頭の通牒だったかも知れません。

あの狂気と動乱の時代に生まれていなかった世代に電波報國隊の経験を話しても、美談か苦労話としか受け取られない事を恐れます。

「軍部が何の見境もなく熟練工を徴兵してしまったので、電波兵器の生産が麻揮状態になってしまった。それを憂いた学生達が、お国のため、自ら進んで学業を中断して軍需工場に…」と云う調子に。

「恐れます」と言ったのは、今も当時と同様、お偉方の責任を隠匿するために、動機の美しさ、純粋さ、目的の正しさ、高尚さだけを強調して、惨めな結果には眼が行かないようにしようとする力が働いているからです。

あの「正しく、高尚な」目的は何だったのか。私の記憶では「アジアから鬼畜米英を駆逐して、そこに日本のための王道楽土、すなわち大東亜共栄圏を建立(コンリュウ)し、あわせて恐れ多くもアキツカミであらせられるカミゴイチニンの御稜威(ミイツ)と御仁慈を八紘(ハッコウ)に宣布する」事でした。

白痴的、宗教的とも言える当時の狂気の政治的背景は、今の世代に冷静に、客観的に(このような情緒的、逆狂気的でなく)伝える事は出来ないものでしょうか。それをする事があの法文系の友人達、昭和18年に、自動小銃でなく、明治38年の38式歩兵銃を担がされて学徒出陣した友人達、或いは1トンでなくコンマ1トンの爆弾1個で特攻に出撃した友人達への申し訳になるような感じがするのですが。

(昭十九会編「寄せ書き」<平成16年10月>より)

 無題/矢部五郎

1.2年半の学生生活の思い出

高等学校三年の2学期に、繰り上げ卒業の噂で、授業が駆け足で進み始めたが、急にまた予定が変わって、大東亜戦争がまだ勝利気分の昭和17年3月に電気工学科に入学することができた。しかし、最初の1学年を半年に短縮するために化学の実験を土曜の午後に行うような詰め込み時間割であった。そして、4月18日(土)の昼休みに化学実験室の前の芝生でひなたぼっこをしながら駄弁っていたとき、上空を見慣れない飛行機が飛ぶのを発見した。しばらくして、空襲警報が鳴り、これが最初の本土空襲であることを知った。

つまり、我々の大学生活は空襲体験から始まり、食料難、学徒動員、卒業式も参加することなく陸海軍に勤務するという、慌ただしい2年半であった。

しかし、次の3期に相当する学年の学生はもっと激しい戦争体験を経験したのであるから、贅沢は言えないが、電気同窓会の名簿で調べると不思議と我々の同期生(特に第一工学部)は早く亡くなった人が多く、次に多いのが20年卒業である。

理由は分からないが、精神的、肉体的な条件が我々を短命にしているのかも知れない。

2.間一髪、靖国神社に行かずに

昭和20年6時22日午前9時20分ごろから呉海軍工廠は米軍の爆撃を受けた砲こう部を中心に激しく破壊されたが、私が新米技術中尉として勤務していた木造2階建の電気部外業工場は半分崩壊しただけで人は無事だった。ところが、偶然、私は今川貞郎先輩(昭和16年3月卒)の出張中の代理として消防隊長を臨時に務めていた。一度空襲警報が解除されたので、防空壕から出て消防隊を指揮して、隣接した工場の火災に放水を始めた。盛んに燃える炎を見て、なにしろ初めての消防隊長は消せるかどうか、まったく自信がなかったが、ともかく放水を続けていた。突然、空襲警報が鳴り、総員退避の命令が出た。一般の職員工員は直ぐ防空壕に走ったが、消防隊員はホースを撤収して、ポンプを停止してから防空壕に走った。隊員全部が現場を離れたのを確認して、空を見たらB29の爆弾倉が開いて爆弾が空中を落下するのが見えた。それから、夢中で、一生一度の全力疾走で工廠神社の下にある防空壕に駆け込んだ。しかし、防空壕は既に満員で、通路も人がぎっしり壁に並んでいた。その列の最後にたどりついたと同時に防空壕の入り口付近で爆弾が炸裂して爆風で壕内に衝撃波が走った。一瞬、胸を押し潰された感じがしただけで、助かり幸運に感謝した。それから、半分消した火災の消火を再開し、やっと消し終えて、ポンプを片付けたのは昼過ぎになっていた。

この恐怖の経験は、自覚することなしに心の奥に潜在していて、今の言葉でPTSD(心的外傷後ストレス障害post-traumatic stress disorder)を起こしていたことが、6年後に結婚してから、自覚症状を経験して初めて分かった。

3.分からないことを調べる楽しさを50年

戦後は文部省電波物理研究所で柿田さんと一緒に勤務したり、旭化成㈱の研究部などで勤務してから、満50歳で定年扱いで退職し、技術士事務所(産業科学研究所)を開設した。ここで、何をするか考えたが、他人のやらない事をやれば下手でも一番になれると思って安全社会学(現在は安全学という)を始めることにした。

災害や事故で死ぬのは人であるから、災害や事故を防ぐ方法すなわち安全を研究するには、死んだ人、被害者の立場で調査し検討しなければならないというのが、出発点である。多くの事故報告では事故の原因は被害者(死んだ人)の過失、不注意であると書いてあるが、本当だろうか、「死人に口なし」で、真相は隠されている場合が多い。

安全社会学は死んだ人の言い分を聞くことから始めている。技術士法が改正されて、技術士は公共の安全を害することがないようにする責務が規定された。この機会に「技術者のための安全学」を執筆しようと計画している。30年考えてきたことを記録し、少しでも社会のお役に立てばと思っている。

幼時から現在までの人生を振り返ると、どうも「考える」ことのみに興味を感じる性格らしいと思うようになった。ともかく記憶の必要なゲームや学科は興味もないし不得手である。中学の学期試験を病気で休んだとき先生が追試試験を口頭でするというので教官室にいって先生の質問に答えたが、それがまるっきり教科書と違うので先生は呆れてしかることができなかった思いでがある。また、4年終了で静岡高等学校に入学して、第1学期の日曜日に帰京し、デパートに遊びに行ったとき、ばったり中学の恩師に会ったが、先生の名前を思い出せなくて恥をかいたこともある。

というわけで、記憶が必要なことはすべて諦めることにしている。しかし、考えることは楽しい。

4.道楽は日曜農園

満50歳で会社を辞めたことを記念して、退職金で千葉県佐原市の外れの住宅団地を購入して農園にしている。ほぼ毎週、年40回ぐらい出掛ける。30年過ぎると、種子を撒いたニセアカシア、カシ、ナラなどが大木に育っている。

農園で一番面白いのは、椎茸栽培である。ほかの作物は、花が咲き実が太るのが予測できるが、椎茸は数日前でも予測ができない。突然、傘が開く神秘性は自然の芸術である。

 無題/稲上英次

我々が入学したのは昭和17年、既に大東亜戦争も始まり厳重な報道管制が敷かれていて一般には短波放送を聞く事は出来ませんでした。米国の宣伝放送を聞くような人間は、非国民か国賊と考えられる時代でした。

この時期に学生寮の一室で小生を含む数人の学生が密かにサンフランシスコからの放送を聴いていました。今考えても日本国民に向けてはその国民性を考慮した内容であったと思います。天皇を誹謗する内容は全くありませんでした。この戦争を起こしたのは天皇ではなく日本の軍閥であると強調するのが趣旨であったと思います。放送内容は概略下記のようなものでした。

1、放送は夕方5時から始まり最初に歌劇「椿姫」の序曲が流されました。

2、次に流暢な日本語でその日のニュースを放送します。当時は丁度ミッドウエイ海戦の頃で日本の航空母艦赤城、加賀、飛龍、蒼龍の四隻を撃沈した(大本営発表では航空母艦二隻喪失)等の情報を流していました。

3、次に対話劇の形で横暴な日本軍閥が国民を戦争に如何にして導いたかを表現し、最後に「戦争を始めたのは誰ですか?東条です」との言葉で終わりました。

4、放送は「今日は昭和17年○月×日、横暴なる日本軍閥が天皇陛下のご趣旨に叛き(宣戦布告の詔勅に「豈朕が志ならんや」の文字がある)日本国民を望み薄き戦争に陥れて以来千七百○十×日目に当ります」の文句で終わっていました。唯この起算の日が日中事変勃発より少し遅れた日で何を根拠にしたのかよく解りませんでした。もうこの時期から六十余年、当時この放送を聴いた非国民も多くの方が他界され、淋しさを禁じ得ません。

今は青春時代の思い出として心に残っています。

(H15.12.13)

 敗戦まで/丹羽登

1.二工の1回生

高校のころ、所属していた部の先輩にさそわれて東大の五月祭を見に行った。広い本郷キャンパスを回り、建設中の電気3号館の前で先輩から「君が受ける頃にはここも出来ているよ」と言われた。

東大の合格発表のとき、合格の喜びと共に、二工側に我が名を見いだした気持ちはいささか複雑であった。2~3年前に建設中だった3号館は出来ていたけれども、並行して第二工学部も(制度上は)出来ていたのだが、本郷での晴れの入学式の午後総武線稲毛駅から歩いた話以降は二工の諸君はご記憶の通り。

入学直後の4月18日の昼休みに草野球をしていると突如として星のマークの双発機が一機超低空で海岸線に沿って稲毛の方へ飛ぶのを見て驚いた。砲塔から機関砲が突き出ているのにはギョットした。飛び去ってから空襲警報が鳴り、あらぬ方で高射砲弾が飛び交った。なお翌年の電波報国隊で、VHF連続波の、俗にワンワン式と呼ばれる警戒装置が外房に設置されており、あの時の奇襲機を捕捉していたが、東京への通報連絡系の不備で警報が遅れたとか聞いた。

二工開設時から、電気工学実験は食堂の調理室で、また初期には一部の実験には本郷に通った。西千葉駅が出来たのは半年後であった。その頃から電気工学科の合格者を一工・二工と、どうやって振り分けたのだろうという疑問が話題となっていた。「双方の学力が等しくなるように・・」と言う定説のほかに「一工:二工の学生名簿で同姓の級友の分布を見ると田中君は双方に2人づつだが、藤井君は0:2、島田君は3:0と極端に偏在している。これは或るルールに従って機械的に分けた証拠ではないか」という説もあった。

2.幹事のたわごと

クラス委員は名簿の順に相田君から始まっていたが、小生も本郷とのパイプは太く保ちたいと気付き、先生方や一工側との連絡役を務めていた。入学した年の頃には東京の西側にある豊島園で一・二工合同の電気科の懇親会が開かれている。また東京の食糧事情が悪化していた頃、二工の学生食堂での合同懇親会に豚を1匹つぶすからとの宣伝が効きすぎて本郷からは大山・阪本先生始め予想外の多数の参加者を得て嬉しい悲鳴をあげたのであった。

卒業後二工への就職が内定したとき星合先生から「君達のクラスが本郷側と良く連絡を取ってくれないと後のクラスが困るよ」と言われたのを肝に銘じている。クラス会を最初に一・二工合同で開こうと一工側の幹事に申し入れた時は、断られないかと内心ビクビクしていた。幸いにして快諾され、その後も他の幹事諸氏と共に合同クラス会を続けることができた。

しかし膝が痛くて杖を愛用していたところ、2~3年前からは腰痛から始まって体中の節々が痛く、整形外科とリハビリに通ってはいるが一進一退。昔からの心臓異常とからんで老化が急進し、朝起きられない日もあるので周囲の皆様にご迷惑のかけっぱなし。出席責任のある仕事は去る3月の年度末で全部辞任し、このクラス会の幹事も妻藤君に交替して戴けた。他方、体が動く日は出席責任の無い会合にも、自分の健康のために極力出席し、大声で話すので「元気そうじゃないですか」と窮状を理解していただけず困りはてている。

3.卒論から敗戦まで

電波報国隊が終わって卒業研究が始まるとき、高木教授から与えられたテーマはパルスレーダーの「疑似目標発生装置」であった。当時のレーダーは不安定で調整は困難を極めた。広い平野や海上では疑似エコーを較正に使いたい。超音波遅延素子で疑似エコーを出す、と説明された。同盟国ドイツから潜水艦で運ばれて来た俗称レーボックと言う装置と後日知った。

卒業研究の仲間は田中喜洋君で、彼が「回路の方を引き受ける」と先に選んでしまったので超音波遅延素子が小生の方へ回ってきた。水晶振動子と石英棒を切断・研磨・電極メッキをして接着するのだが、不明なことばかりで、苦心惨潅であった。田中君作の試験装置でテストを繰り返した。小さなエコーを初めてCRT上に見たとき我々は歓喜した。その後遅延素子の作りかたがうまくなり、試験装置の性能も上がって、多重エコーが次の繰り返しまで続くようにもなった。

その頃研究室は電波兵器の遅れに対応して新設された陸軍多摩技術研究所の分室になっていた。エコーが出るようになると多摩研や住通・東芝からそれぞれのレーダーの較正装憧に使うべく種々の仕様の遅延素子の注文が来はじめ、その製作は動労動貝の女子高校生に移っていた。

卒業期が来て筆者は大学院特別研究生として同じ研究を続け得ることになり、較正装置本体の製作にかかった。波長1.5m用の靖1号機は設計計画から板金加工・配線・局発の周波数調整・アンテナ加工など全部自分でやった。真空管の不足・不良に悩まされながらも何とか本体をまとめあげた。立川の多摩研で出力・周波数などチェックの後、実用レーダーに対応すべく、入営直前の佐下橋助手と共に東芝小向調整場へ行き「た号改4型」標定機(た号とは陸軍でのレーダー)を借用し、種々データをとり、きれいなエコーを出せるに至った。これらの多摩研立川・住通生田・東芝小向などぺの打合せには高木教授のお供で何回も通った。目黒の海軍技研へ連絡に行った際、較正装置を見学し、やはり海軍の方が進んでいると知った。

その頃は既に米軍の空襲で東京近辺の交通は困難を極めていた。3月10日の大空襲の日は午後に会議が予定されており是非とも千葉へ着きたかった。飯田橋駅まで来て、不通は亀戸まで吉聞き歩きだした。まだ燃えている街の強い屍臭や惨状は描写に堪えぬ。国電に乗れたのは市川駅からであった。水晶振動子研磨のリーダーであった市鳥淳君の神田あたりは全焼で、同君は行方不明であった。

3月には研究室の山梨県への疎開が伝えられ、下旬に荷作開始、4月中旬に日下部駅(現在の山梨市駅)向け貨車を2両出じた。高木教授以下の先発隊が下旬に、また本隊も着いて5月5日に一宮村で開所式を迎えた。日川中学(現在の日川高校、後に甲子園で活躍)に開設した研究室では早速女子高校生の水晶擦りなどが始まった。東京よりは食料事情が良いとは言え、突然の大部隊の集団生活は困難を極めた。女子職員が健闘した。土地に馴れてからは近隣ヘラジオ修理に回った。当時ラジオは空襲警報を聞くための必需品で、大歓迎された。食糧難を補い、特上の葡萄酒の恩恵に預かる日もあった。

卒業研究の仲間だった田中喜洋君も6月には較正装置製作のため多摩研から派遣されて来た。人営者で男子職員は減っていたが卒論学生と動員の2年生で研究勢力は増していた。研究室では遅延素子の等間隔エコーを距離百盛の較正に使うべく音速測定を進めていた。そのエコー群による「た号直距離精度向上演習」の計画が姶まり、較正装置を担いで関東地区の「た号二型、三型、改四型」を回った。7月上旬には1週間に5箇所の「た号陣地」を回ったこともあった。優秀な分隊長がいて、顕著な固定エコーを示す煙突迄の距離を実測して高い測距楕度で「た号」を使いこなしている陣地もあった。

このように東京・千葉と日川との二重生活が続いていた。筆者のメモによると例えば6月の宿泊先は軍陣地:5泊、日川宿舎:11泊、日川実験室ごろ寝:2回、千葉実験室ごろ寝:4回、中野自宅:8泊く合計30日となっている。よく体力が続いたものだと驚くが、級友は皆軍服なのだからと緊張しきっていたのだ。

これらの地上用標定機と別にタキ1、タキ2(タキnとは航空機塔載用た号)と電波報国隊で接した高度計(タキ11)にも較正装置を使いたいと要請があり、7月から旧中喜洋君ほかと共に富山飛行場での演習に参加した。九九式双発軽爆の機首にヤギアンテナを突出しているタキ1と持参した装置を地上で整備して待つのだが、天候が悪くて滑走路の使用許可が降りず天気待ちが続いた。許可が出て飛んだタキ1搭載機が宿山湾で45㎞先の船のエコーを見たとのことであったが、滑走蹄半ぱの水溜りの先に披地して先端で止まらず機休}破したのには篤いた(その機に筆者は不搭乗)。台風接近や機材整備で演刊は巾断した。

富山へは3往復したが、鉄道は既に空爆や機銃掃射などで寸断されていた。乗継ぎ待ちの夜、知人宅に宿泊できた日もあったが、駅前旅館に桐部屋素泊り、塩尻駅ではホームで寝るなど、予定は大混乱であった。特に8月5日早朝に富山駅に着いて見た街の惨状には驚いた。8月1日の空製で街の92%焼失した由。富山で敗戦を閉いた時は複雑な想いであったが、飛行班は大変な剣幕であった。

本稿の表題はあえて「敗戦」とした。「終戦」とも言うが明らかに敗けたのだ。しかも敗戦直前まで其の調整・安定化に全力を注いでいた電波兵器で敗けたとも言えるのだ。責任を回避するわけではないが、我々が関与しはじめた頃には電子機器の劣勢は目に見えていた。国力の差であった。

電波報国隊から敗戦までに習得したパルスレーダーの実技と、必要にせまられて吸収した知識を基にして、戦後にパルス反射型の超音波探傷器を作り、非破壊検査グループの立ち挙げに関与できた。そのあたりの経緯は「日本非破壊検査協会50年史」・機関誌「非破壊検査」などに書く機会があった。しかし今回電波報国隊の記録をまとめるにあたり、敗職までの体験も筆者にとっては極めて重要であったと気付ぎ、紙面を拝借させていただいた。

 戦争と大学/宮本邦朋

1.入学当初

昭和17年工学系の充実拡大が国家的急務となり、東大工学部も二倍に拡大した。本郷だけでは収容できないので、千葉市の西郊に広大な敷地を確保して第二工学部を作った。私は第二工学部電気工学科に入学した。

下宿が見つからないので大学に斡旋して貰った。畑の中の農家の物置の様な二階だった。一応落ちついたが、食事は大学内食堂で食べた。国鉄に西千葉駅、京成電車に東大工学部前と言う駅が出来た。その後アパート「富士見荘」が出来たのでそこに入ったしかし大部分の学生や教授は東京から通った。

正門には二本の門柱があるだけ、敷地には草が背丈ほど茂り道路も工事中だ。各課毎に一画を占め木造二階建ての校舎があった。水高入学の当時も経験したが環境の激変で体調を壊し、虫歯がおこった。歯医者を捜すと女性だったが技術は良かった。

大学総長は「平賀譲」教授、船舶工学の大御所で海軍中将でもあった。軍艦の設計技術は世界一という。工学部長は「瀬藤象二」先生、電気が専門で「アルマイト」を発明した人、少年時代に郷里和歌山に水力発電所が出来たのを見て電気を勉強する気になったという。主任教授は「星合正治」先生、太閤記が得意で「電気工学第一」授業も面白く進めた。副主任の「福田節男」先生の「電気工学第二」は入学第一日の第一時限が目に浮かぶ。五十音順に点呼して、私をミヤモトクニアキと呼んだ。「邦明でなく邦朋です」というと慌てて、まだ一字も書いてない黒板に大きく私の名を書いてみた。福田先生には卒業後、兵器の研究でお世話になった。

当時日本の軍部は精神面に重点を置き、科学の力を軽視していた。海軍の訓練も「月月火水木金金」と励み、水雷戦隊は夜襲に絶対の自信を持っていた。所が「ツラギ」海峡の夜戦では、敵が見えないうちに敵弾がこちらに命中した。「敵艦には神様が乗っている」と思ったそうだ。「それは電波兵器というものだ」と聞かされて、科学の力に気が付いたが既に手遅れ。「早く電波兵器を作れ!」何事もこの有り様たった。

さて、クラスメートはさすがに皆優秀な人だ。40人の中に台湾から1名、朝鮮から1名来ていた。台湾の中山君は音楽感覚が抜群だった。戦後は台湾で活躍していた。朝鮮南部の裕福な家柄から来ていた文江君は私の同じ実験班だったが、戦後の消息はない。実験班には他に藤井君!日立製作所から九州産業大学の教授、松田君!東京工大から松山大学教授。お二人とも最近までおつき合いを頂いている。その他のクラスメートも何かとおつき合いを頂いている。

暇を見つけては旅行

水高の理科甲類の級友が10人くらい第二工学部に入った。学科は分かれてもよく顔が合う。入学間もない頃、第二工学部の野外パーティの日、早く抜け出して、銚子方面に出かけた。犬吠崎から歩いてヤマサ醤油を見学、香取神宮を参拝して、佐原から舟で潮来に向かった。舟に居た旅館の客引きの勧めで旅館に入ると、宿賃は七円と言う。銚子の宿は1円50銭たった。旅館を変えようとすると、「それだけの待遇はする」と引き留めだ。私たちは一夜眠ればよいのだ。金もない。話し合いの結果3円で泊まることにした。懐が寂しくなった。

私は電気の実験授業が本郷教場であるので、翌朝一行に別れて一人帰路についた。先ずバスで玉造へ、そしてぽんぽん船で浮島に渡る。乗客は私だけなので、3円50銭とられた。浮島を徒歩で縦断し、江戸崎に渡る手漕ぎ舟は10銭。バスにて土浦駅に着いたとき私の財布は殆ど空だった。しかし念願の浮島を訪ねることが出来だのは嬉しかった。あの時から50年後、千葉方面出張の帰途立ち寄ると、桜川村として陸続きになり、周りには堤防をめぐらせ今昔の感に打たれた。

冬休みに親しい友人、津田君、三上君と京都に行った。津田君の叔母さんの家に泊めて貰って名所旧跡を存分に巡った。戯れにそれぞれ「和尚」「上人」「法師」と名乗って、歌や句も読んだ。京都の冬は寒いというが、確かに寒かった。明け方雨戸の節穴から覗く空は何時も鉛色、時々時雨て、雪もぱらつく。

「樫の実のぱらぱら落ちるせきか亭」
「京の町電車の車掌はかるさんをはいて次は西大路千本町」
「鴨川の中之島辺のむれかもめ乱れつ下りつものをこそ思え」

嫌な顔も見せず歓迎してくれたあの叔母さん、その後の消息は聞いてない。

春休みには伊豆、修繕寺、湯が島、天義、下田と歩いた。野草の食べ方や夜の寒さは背中に新聞紙を入れて防ぐ等、山岳部の三上君に指導された。夏は伊豆の辺田港にある東大寮で海水浴合宿に参加した。東大鍛練体操の講習を抜け出して達磨山に登ったものだ。

二年の夏、級友の江森君と山口県小野田市の火力発電所建設現場で実習をした。中年の技術者が応対してくれた。
「大学は何処だね?」
「東大第二工学部です」
「家の倅は第二工学部に入れられると嫌なので工業大学を受けた」
少々皮肉に聞こえたが別に気にすることはない。実験設備は不十分なので、本郷に行くがその他は何も不都合はない。教授は優秀だし、何よりも開拓精神が漲っていたのだ。

宇部市にはセメントエ場や既設の発電所もあった。又北九州の門司、小倉、八幡の発電所も見学した。実習では電圧電流の測定など頼まれた。実験室とは違い抵抗器もない。バケツに水を入れて抵抗器の代用だ。当時この地方には、朝鮮からの労働者が多かった。もともと方言の強い地方、銭湯に行くと朝鮮語か日本語なのか話ている言葉の意味が全然わからなかった。

20日間の実習が終わると、近くで実習していた冶金工学科の三上君と打ち合わせて、山陰北陸まわりで帰った。切符は学割を使って上野迄通しで買った。山口県では秋芳洞、秋吉台、長門峡と歩いた。ここでは「肩の荷の重きに悩む」の長編詩をものしたが今は手元にない。萩から津和野、浜田、出雲とすすみ、大社に参詣した。参道には「武運長久」の幟旗が高々と並んでいた。宍道湖の夕日を見て松江についた。

「沈む日や宍道の湖に火の柱」

松江で宿賃7円とられ、手元の金は殆どない。この後は夜汽車で寝た。山陰は神話や伝説の国、初めて見る裏日本の景観は紺碧の日本海とともに強烈な印象で焼き付いた。天の橋立は昼頃、海水浴で賑わっていた。福井、金沢、能登、富山と商業都市が続く。親不知の難所は汽車で過ぎた。柏崎から長野に向かい、姥捨ての千枚田も見た。小諸から小海線、美しい野辺山高原を経て小淵沢、そして中央線、夜明けに上野駅に着いた。上野公園の水飲み場で歯を磨いていると、警官が近づいて来て、「いげつない真似をするな!」 私はむっとしたが、こんな単細胞の人間を相手にすることもない。静に説明した。戦局がまだ厳しくなかった時期の、束の間の平穏な学生生活の一こまだった。

本郷では味わいない経験

一年の時、利雄兄は第一工学部の応用化学の三年にいた。ある日私の所に遊びに来た。水高からの友達数人で歓迎した。稲毛海岸や千葉市内を案内した。みな下駄を履いて悠々と歩くので、兄から見ると至極のんびりして見えたらしい。「本郷の学生はもっとぱりっとしてるぞ!」

大学から南に向かって畑の中を行くと国鉄総武線、更に京成線-この電車はしょっちゅう故障していた。更に行くと坂を下りて海岸に出る。ここに国道一四号線、当時は千葉東京間の弾丸道路があった。台風が来ると道路一杯波が被る。海は三、四キロの遠浅、海水浴や潮干狩り、特に食糧不足の頃はアサリを採って電熱器で煮て食べた。農家にはさつまいもや野菜があった。運動施設がないのでもてあますエネルギーは、近辺の自然の中や旅行に向けられた。

勉学のこと

電気関係の指定された単位の講義の他、共通科目として、数学、機械工学、熱力学、測量工学等では他の学科の者と一緒だ。複素数は電気工学特有の便利な数学だ。電気については物事を簡単にするため入力と出力の間の四端子網で考える。この間で、切れるかつながるか、減衰するか増幅するか、そして電界ど磁界の関係、電磁波の性質。エネルギーの伝搬や変換等だ。目には見えないので実験も大切だ。講座は「何々工学第一」「**第二」。教授も自分の講義を面白く聞いて貰うため工夫して、余談を入れながらやる。居眠り等は出たこともない。原書や専門書も沢山読む必要かある。語学の足しにもなる。勉強は遣りすぎることはない。しかし高校時代のゆとりの気持ちが抜けきれないうちに戦局激化で軍に手伝いにかり出され、あげくは六ヵ月短縮で卒業させられた。

卒業研究は電気試験所で「送電に於ける万能消弧線輪の効果について」たった。短絡電流の減衰する様子をオシログラフに撮り、フーリエ級数に分解した理論値と比較した。コンピューターのない時代、計算に時間をかけたものだ。

2.戦争の影

電波報国隊

昭和17年4月18日、千葉の丸通に出かけたとき空襲警報が鳴った。「太平洋の彼方に敵空母が発見されたのだろう」丸通の職員はのんびりしていた。

この時敵機は既に水戸方面から東京圏に侵入していた。超低空なので、防空システムでの捕捉が遅れた。情報は混乱し迎撃体制も混乱した。本郷の兄は銃を担いて出動していた。皇居の守護だろう。「皇居は御安泰に渡らせらる」と放送していた頃は敵機は中国の方に飛び去った後だ。

18年の末頃になると、雲行きは怪しくなった。文化系は学業半ばで兵役に服し、工学部は卒業するまで待ってくれた。一九年戦局はいよいよ悪化し、軍部は兵器の生産に追われ学生にも手伝いを求めてきた。私どもは電波報国隊として相模原の練兵場で電波兵器の製作にかり出された。原理は超短波を発信し、方向性アンテナで敵機の方向、反射波を捉えて距離を測定、高射砲と連動させる。実験室と実際は大分違う。苦労の末一台出来上がる。大学としてはあくまで実習を兼ねた協力だ。

日曜日に近くの大山に登った。大して高くないが見晴らしはよい。丹沢山系と顔を見せている富士山が見事だ。スケッチしてきて藤井君に見せると、彼は一目で場所が解ったと言う。秦野から下りて食堂にはいると、さつま芋が主食で魚が副食だった。蜜柑は安かった。学生は何時も楽天的で自由奔放だ。戦争の重圧にも落ち込むことはない。

春の休みには皆帰省した。私は翌朝出発する予定だ。一人で練兵場で体操をしていると、陸軍から監督に来ている青木中佐が近づいて、
「良い体操を遣ってるね!」
「東大鍛錬体操です」
「友達はどうした」
「春休みで皆家に帰った。私も明日帰るつもりです」
「学生達は日本が今どんなに大変だか解ってないので困る。この電波兵器が一週間遅れると、南方の島が一つ占領されてしまうのだ。このさい休みを延ばして手伝ってくれぬかね?」
「友達と旅行の約束をしているので、こまるのです」
「約束なら電話か電報で断ればよい。宮本君だけでも手伝って呉れよ!」

それでも嫌とは言えない。宿舎の中心道場に訳を話し、宿と食事を協力して貰った。道場は80畳の大広間、押入の中には鼠の集団が暴れていた。俺も男だ、一人で頑張った。

徴兵検査と黄疸

卒業予定一年前、クラス全員が徴兵検査でそれぞれ帰郷した。父は村長だったが長男善次郎が丁種不合格、次男利雄は丙種なので、私に期待したようだ。鶏を一羽料理して私に食わせた。当時は家で飼育している鶏を殺して食るのは最高の御馳走だった。しかし私は吐き気がして食べられなかった。当日は大儀だったが我慢して検査を受けた。「第一乙種合格」を大声で復唱して帰った家に着いて寝込んでしまった。医者に診て貰うと、「黄疸」と宣告された。後で知ったが、クラス全員「黄疸」になったのだそうだ。私か一番重症で回復に約一月かかった。原因は不明だが、造兵廠の宿舎で罹病したのだろう。

在学は二年半に短縮されたが、実験は実戦で十分やったし、生涯学習の考え方をすればなんら不都合はなかったと思う。