「三号館の思い出」のカテゴリー

昭和47年新年記念写真/クラス1969

 昭和47年1月5日新年の集合写真です。室内で撮影されました。
 40年会を開催するのを機会に、学生時代の写真を同級生から募集しました。その1枚で、鈴木浩さん(1969年卒業、1974年博士修了)のアルバムにありました。池田佳和(クラス1969)

三号館集合写真(1970年代前半頃)/広瀬啓吉

 毎年、お正月の新年会の際に行っている、集合写真です。年がいつだったか忘れましたが、私の任官したてだと思います。(30年位前) 宮川先生もお元気な姿で映っています。なお、電気系事務室にこう言ったものが保存されているかどうか聞いたのですが、ないそうです。

五角形の工学部三号館/岩崎敏夫

工学部三号館は昭和16年(1941)7月に、電気工学科・船舶工学科の建物として建てられた。地上3階(一部4階)地下1階、延べ面積6,285㎡と記されている。

この建物は少し変わった所がある。緩い傾斜地に建てたため南側の入り口は1階にあり、東北側の入り口は地階にあリ、うっかりしていると階数を間違えることがある。また、西側部分の2階の床が西側以外の2階の床と高さが違い廊下に数段の階段がある。私が古い職員に聞いたところによると、西側部分は前にあった建物を壊さずに残し、タイルで覆ってあるのだとのことだった。何故そうしたかという理由は伝わっていない。

三号館の一番の特徴は、東北の角を切った五角形の形であろう。1階の廊下は館内を一周しているが、歩いていて今どの辺まで来たか分からなくなることがある。何故五角形にしたのか、いくつかの説があるが、設計者に聞けない今となっては本当のことは分かりようもない。

弥生門を入ったところにあるので、門から建物を見たときの景観を良くするため、門に対した東北の角を落とし、玄関を設け玄関の左右を見た目で対称になるように造ったという説、確かに玄関の上方に4階(旧31号講義室)を乗せ地上の人を圧倒する観がある。さらに穿った見方としては、この東北側の玄関は建物の正面玄関として設計されたとする説もある。しかし正面玄関説には同調しづらい。その訳は、たしかに玄関は広いが通常玄関に設けられる受付け用の窓がなく、1階に上がる階段も狭く、事務室・用務員室用と思われる間仕切りも近くにない。また単に景観だけを考えた設計とも思われない。

私は、奇抜な考えかも知れないが、「陰陽道(おんみょうどう)」でいう「鬼門」を避けた設計だと思っている。鬼門は場所や建物の東北(うしとら)の方角をいい、鬼や凶気が出入りするという。三号館自体10万坪の旧加賀藩上屋敷の中で「うしとら」の方角に位置し、ために「処刑場」として使われていたと伝えられている。そこに建てた建物ゆえにことさら鬼門の対策を考え、鬼門にあたる東北の角を落とし「鬼門封じ」をしたのではなかろうか。建物の鬼門の角を落とす工夫は、古く京都御所にもみられる。御所を囲む長い塀の東北の角は1間にわたり内側に凹ませてある。この手法は陰陽遣では「欠け」と称している。明治になり、陰陽道は公には禁止・廃止になったが、鬼門等の禁忌は民間に伝えられており、三号館の一隅をとったのも鬼門を避けた設計者の思惑ではないであろうか。

 <陰陽道(おんみょうどう)>
 古代中国の陰陽五行思想にもとづき、災難や人間界の吉凶を占うことを主要要素として体系化された技術。10世紀頃陰陽道という名称が一般化し、天文、暦などを含む学問体系として発展した。天武朝に国家による組織化が進み陰陽寮が設けられた。特に平安時代は貴族社会を中心に発展した。藤原道長のところに出入りした安倍清明(921~1005)など有名である。明治維新後太陰暦・陰陽寮の廃止により、公的な場では陰陽道は用いられなくなったが、一部の禁忌などはその後も民衆生活に影響を与えた。

三号館前クラス写真/クラス1969

クラス1969の池田佳和氏から以下のメールをいただきました:

同窓会幹事さま、メールマガジンお送りいただいてありがとうございます。「セピア色の三号館」の記事に関し、3号館が壊されることに感慨無量です。

我ら、昭和44年卒業生は今月40年会を開催するのですが、余興として「懐かしい写真スライドショー」を準備しています。その中から一つ、アーカイブ用の参考資料としてお送りします。他にも、学生実験室でのスナップが数枚あります。40年会でのスライドショーの披露が終了したら、それも投稿したいと存じます。

三号館前で写したクラス仲間のカラー写真(当時はまだ珍しかった)

保存していた所有者は、昭和44年電気工学科卒業 新永恵洋君。(撮影者は、現時点では不明、同級クラスの誰か)