3号館70年/岩崎敏夫

 工学部3号館は震災復興計画の一環として、1号館、4号館、6号館(昭和13年6月)に次いで昭和16年7月に建てられ来年で70年になる。今年取り壊されるとのことで、私としては永年住んだ家がなくなるような気持ちで何とも寂しい。そのお別れ見学会が5月8日にあるそうなので、是非行こうと思っていたが、足が不自由で玄関や各階の階段に手すりがないことを思い出し皆と一緒に上がり下りできそうもないので、行くことは諦め、いずれ外観だけでも見に行こうと思っている。そして、ちょうどよい機会なので3号館の思い出を書いてみようと思った。記録を調べるのは時間がかかるので、書き流すことにした。

竣工から終戦時まで

 昭和16年3月卒業生(今川貞郎氏、故尾佐竹名誉教授、故山村名誉教授他)卒業後、18年9月卒業の人達(小口文一氏、故中原裕一氏、故字都宮名誉教授他)が入学してすぐ3号館が竣工した。そして間もなく日米戦争が始まり、学徒動員、工場動員などで構内の学生の数が少なくなっていく。代わりに工学部では軍の要請で戦争に役立つ戦時研究が盛んに行われ、研究補助の若い男女の姿が急激に増えていった。とくに、文部省が急造した「研究補助員養成所」が佐野工学都長を所長に7学科設けられた。電気関係では「高周波電気工学科」が山下先生を科長に1期生(19年10月~20年3月)18名が卒業し主に高周波研究室に配属された。その中には後に中原氏と緒婚する中原(末吉)京子さんや故鯨井恒太郎教授の息女鯨井良子さん(2期生)もいた。20年春米機の空襲が激しくなると工学部各科の研究室は長野や東北地方へ疎開するようになった。高周波研究室は上諏訪に行くことになった。各自寝具を家から大学まで持ってくる。研究室の実験用の機器や必要な図書・資料を梱包する。それらを貨車で上諏訪へ送った。発送の責任者は滝保夫助教授で、受け取る方は助手の高木末夫さんだったと聞いている。

 実は「疎開」というのは、戦火を避けて安全な所へ逃げるのではなく、疎開先で戦時研究を継続しようとしたのである。今にして思えばそう簡単に研究を継続できるわけがなかったが、当時は本気でそれを考えていた。脇道に逸れるが、航空学科の疎開のことを書き残しておきたい。当時航空学科には、昭和15年民間からの寄付で建てられた風洞実験室があり、中にゲッチンゲン型の風洞2基(吹き出し口口径:1.5mと1.0m)があった。その内の小さい方を疎開先の富士見(上諏訪の一つ手前)へ解体して持って行こうという壮大な計画であった。解体された風洞は貨車で富士見へ運ばれたが、組み立てられることもなく、終戦後富士見駅前で焼却された。

 高周波研究室の上諏訪での宿舎は、男性は仏法寺、女性は頼重院というお寺で、食料事情が悪かったので、男性が農家を回って食べ物を分けてもらうなど苦労が多かったようである。食料と労働のせいで病気になる人があり、中原京子さんも肺炎で上諏訪病院に入院したと伺っている。

 一方、東大構内は米軍が意識的に空襲をしなかったようで、1発の爆弾・焼夷弾も落とされず、戦災を受けないで終戦を迎えた。

終戦から電子工学科新設

 昭和20年(1945)8月15日(水)戦争が終わり、日本がどうなるのか、世の中がどうなるのか誰しもは大きな不安に包まれた。戦災で住居も食料も極端に不足していた。代用食にした「さつまいも」さえ十分でなく川越や銚子のあたりまでよく買い出しに行った。住むところがなく、大学の中に泊まり込んだ人も大勢いた。昼は目立たなくても、夜になるとどの建物にも灯が多く灯りその人数の多さが知れた。配給の食料を貰うため泊まり込んでいる人達で隣組ができ、3号館の裏通りを境に片方の組は、電気の用務員の長谷川ツルさん、もう一方は鉱山の高木という男の用務員が班長だった。いもや魚など配給があると、窓の下から大きな声で班長が知らせる。とバケツなどいれものを持った人が建物から出てくる。他大学から転勤してきた教授が教授室を暗幕で仕切りをして自分の母親と同居していた例もある。製図机をベットに、製図入れの大きな戸棚に寝具などをいれ、手製の電熱器やパン焼き器などで炊事をした、電力不足で建物輪番で停電した不便さはあったが、部屋代・光熱水料タダ、通勤時間0の環境はなかなかだった。焼け跡に次第に家が建つようになり、工学部では構内泊まり込み教職員に対し指示が出され昭和26年3月末日までに全員退去させられた。

 29年4月航空学科が出来たのを手始めに、学科の新設、講座の増設が相次いで行われるようになった。電気系も前から申請していた「電子工学科」が33年4月に漸く承認になった。完成6講座の小学科だったが、研究室や教官室の面積が必要だった。3号館と弥生門の間に建物を建てる案、3号館と2号館にブリッジをかけその上に建てる案など検討されたが、結局3号館に4階を増設することに決まった。

 私は当時応用数学科にいて図書係をしていた。定年まで図書の仕事をするつもりで、昭和29年には文部省の司書の資格もとっていた。電子工学科ができると学科主任の阪本捷房教授から電気系の学科事務をしてくれないかという要請があった。私は司書が気にいっていたので勿論断った。繰り返し話があったので、はっきり断るつもりで阪本教授の室に行ったところが、かえって強引に頼まれることになり、特に将棋会の絡みから(昭和24年工学部将棋会、会長阪本教授)頼まれ「事務の仕事は電気工学科のスタッフがやるから君は将棋をしていればいい」とまで言われ、その言葉を信用したわけではないが、引き受ける羽目になってしまった。

 33年10月、実際に仕事を手がけてみると、将棋云々どころではない、新設学科の仕事は教職員の採用、建物の増築なと毎日毎日が目の回るような忙しさであった。例えば4階増築も大変で、3階には船舶工学科の講義室や研究室があり、屋上に凸起しているベンチレイターを大ハンマーで壊すときなど、当然大きな音が出るわけだが、すぐに船舶の教官から音が煩くて講義ができない、すぐ止めさせて欲しいと苦情がくる、屋上に飛んで行って大ハンマーを振るっている作業員に止めてくれと言うと、「自分たちは受け取り仕事なのだ、一々止められても止めるわけにいかない」と逆にすごまれた。仕方なしに建築を請け負った中野組の監督を探して止めさせてもらった。そんなことが再三であった。また、ベンチレイターを壊した所から雨水が3階の室内に洩れ落ち、船舶の教官の苦情でバケツと雑巾を持って飛んで行き平身低頭して始末したことも何度かあった。人が住み活動している頭上で工事をするのは大変なことだと身に沁みて教えられた。

 その電子工学科1回生が卒業した昭和37年から、早いものでもう48年経った。

大学紛争、施設拡充金

 昭和30年代は高度成長期、大学マンモス化の時代で活気があったが、40年頃から陰りが見え始めた。例えば、39年9月4日付けの内閣からの通達「欠員不補充措置」は以後永く続く定員削減の始まりであった。学内では、多くの大学で43年頃から全共闘と称する過激派の学生グループが構内の建物を封鎖し、講義なども行われず異常な状態になった、工学部の号館は殆ど封鎖され使えなくなったが、どんな事情があったのか、3号館は最後まで封鎖を免れた。何時までも大学の機能を停止させたままにしておけず、東大当局は44年1月18日に警視庁機動隊を構内に導入し建物封鎖を解除することを決めた。前日の17日(火)夜私の所へ電話で「明朝、機動隊導入の道案内をしてほしい」と要請があった。6時までに本富士署前に来るようにとのことなので自動車を持っている職員に連れて行ってもらった。機動隊の車列の先頭車両に乗り、龍岡門から構内に入り最初に3号館に向かった。弥生門側の裏玄関前で車を下りた隊員が玄関の大扉に殺到する。私が「この建物の中には全共闘の学生はいない、中を確かめるのなら、私が表玄関の鍵を持っているからそれで中へ入り、中から扉を開けるから少し待つように」と大声で言ったが、中に過激派の学生がいるものと決め込んでいて、気の立っている隊員達は聞かばこそ、大きな丸太で扉を打ち破り中に乱入した。私は前夜も建物内を見回っていたので、学生がいないのは当然であった。安田講堂や工学部列品館の学生の抵抗は激しく、学生の投げる火炎瓶や機動隊の催涙弾、放水の応酬が夕方まで続いた。私は、3号館の前で見ていたが、気がつくと私のすぐ横に加藤一郎総長代行が悲痛な表情で安田講堂の攻防を見ていた。

 紛争の頃、ヘルメットをかぶり手拭いで顔を覆い、長い鉄パイプを立てて持ち、数千人もの全共闘や民青のデモ行進、投石やパイプのたたきあいの光景は、あたかも関ケ原の合戦を見ているようで、時代錯誤を感じた。

 電気系教室では、建物のための予約金集めを2回行っている。1回目は昭和51年5億円集めて10号館を建てた(地上4階、地下1階、計3.671㎡、昭和51年9月竣工)。この募金の事務は外部団体に委託したので、募金記録の詳細は私の手元にまで来ていない。建物の場所は弥生門から200mほど離れた弥生地区だが、電話回線を使った「出退表示装置」(名札盤)をつけるなど建物管理・事務運用の面でいろいろ工夫はしたが、研究室の混雑は大分緩和された。

 2回目は平成3年4月、電子情報工学科が増設され、それに必要な建物面積を国の予算で作るのを待てず、寄付金で建てることになった。本郷通り側に国費で建てることになっていた14号館に寄付金で2階分増やし電気系研究室として使おうという計画である。

 募金目標は、企業と電気系の卒業生を対象に16億円を予定していた。募金事務は前回と同じように外部団体に委託する予定であったが、文部省と大蔵省はそれを認めず、急遽独自の募金事務局をつくらなければならなくなった。結局はそのお鉢は私に回ってきたのだが電子工学科の事務をするようになった時と同じで、断るために大学に行ったところ、3名の教授に懇願され引き受ける羽目になった。この募金の経緯は「60歳から小録」に記したが、今妙な体験を思い出している。平成5年5月に卒業生に募金依頼を郵送した。同窓会で卒業生の宛て名シールを打ち出してもらい、それを封筒に貼って使った。教官、大学院生として残っているものを除き郵送した数は、4.121通、依頼書類を折り畳んで中に入れセロテープで封をする、全くの単純作業なのだが、4.000という数は一人の手作業としては数が多すぎる。指の皮が剥がれて苦労したのを思い出す。とにも角にもこの募金のお蔭で研究室の面積不足は収まった。建物が3、10、13(高圧実験室)、14号館と分散し、管理・運用が大変だったようであるが、平成18年3月に工学部2号館の高層化・改装が出来上がり、3、14号館各室の移転により現在の状態に落ちついた。

 3号館と同じように来年70年になるものがある。建物の出来た昭和16年卒の今川さんのクラス会も70周年で、今まで65周年の会はあっても70周年は始めてである。単に記録というよりこれからより高齢になる卒業生に生きる張り合いという意味合いもある。今川さんは現在92歳、大変お元気で、「生涯青春、生涯学習、生涯成長」というモットーをそのまま実践されていて、誠にご立派である。

 電気系教室は、創成期の中野初子教授、牧野良兆助手を始め、教室を思い人とのつながりを大切にする風潮が続いてきた。それらのことはいずれ書き残せたらと思っている。

 3号館の中庭の西側・通信実験室の前に背の高い「椅」(いいぎり)の木がある。冬葉がすっかり落ちた後に小さい赤い実がいっばい枝についている。私にはたまらなく懐かしい光景である。その赤い実がどういうわけか、私が定年退職の冬1粒の実もつけなかった。私が3号館からいなくなるのを借しんでくれたのかと思ったものだった。

椅の実をつけざりしその冬を懐かしみをり昨日のごとく

平成22年5月

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