科学では解けない謎/近山隆
私が子供の頃にはもう「科学では解けない謎」は決まり文句になっていて、少年向きの雑誌には、この言葉を使った記事が3号に1回ぐらいは出てきたように思う。今でもテレビや雑誌、最近ではWeb上の記事などに、この言葉はよく登場する・・・・つづき
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私が子供の頃にはもう「科学では解けない謎」は決まり文句になっていて、少年向きの雑誌には、この言葉を使った記事が3号に1回ぐらいは出てきたように思う。今でもテレビや雑誌、最近ではWeb上の記事などに、この言葉はよく登場する・・・・つづき
趣味は?と訊かれると、料理と答える。料理人としての天賦の才能があるのか、食い意地が張っているだけなのか、はたまた大酒飲みのせいは定かではないが、料理を作り、食べ、飲むことが大好きである。 料理を始めたのは、かれこれ20年・・・・つづき
電気系同窓会報幹事の先生から今回、日本学術振興会賞という小生にとっては過分とも思える賞をいただいたことに関して原稿を書くように、との話をいただきました。日本学術振興会賞とは、公式な説明によりますと「我が国の学術研究の水準・・・・つづき
東京大学では、昨年10月に、「ナノ量子情報エレクトロニクス研究機構」が総長直属組織として発足いたしました。本機構は、既存部局の枠を越えて東京大学が擁するナノテク、量子科学、IT の「知」を結集するとともに、海外を含めた学・・・・つづき
2007年5月7日、電気系4年生向けの特別講義Iの中の1回を使い、若手OBにどのようなキャリアを歩んできたか、どのような仕事をしているかについての講義を頂いた。講師として白羽の矢が立ったのは以下の3氏である。 ・ 濱・・・・つづき
本年3月末で、43年間の長きにわたってお世話になった東京大学を離れることとなった。以下に、学生時代の9年間と教員時代の34年間を振り返り、皆様への謝辞と挨拶に代えたい。 《学生時代9年間の思い出》 1964年駒場に入学し・・・・つづき
この3月で東大の定年を迎え、本郷を離れるにあたり、同窓会報の欄を拝借する光栄に浴することになりました。表題は中原中也の詩の一部で「…あゝおまへはなにをして来たのだと…吹き来る風が私に云ふ…」という一節からの引用です。お前・・・・つづき
同窓会誌に寄稿する機会をいただき、光栄に思います。私は1972年博士課程修了と同時に、電電公社(現NTT)に入り、1984年宇宙科学研究所(現JAXA)に移り、1991年からこの3月まで東大の併任教官をさせていただきまし・・・・つづき
1996年4月1日に東大に赴任した。そのときの主専攻長の石塚先生の所へ辞令をもらうように指示があり、14号館へ出向いた。3号館が電気系の建物と思っていたので、3号館も他学科が住まわれているにもかかわらず、電気系がいろいろ・・・・つづき
私は、1972年3月工学系研究科電子工学専攻博士課程を卒業して日本電信電話公社(現NTT)に入社し、武蔵野電気通信研究所画像通信研究部に配属されました。以来、東京大学先端科学研究所の教授に1997年4月に採用されるまでの・・・・つづき
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