宇都宮敏男先生を偲んで/曽根悟
東京大学名誉教授 宇都宮 敏男先生は、平成21年11月26日肺結核に伴う腎不全で逝去されました。88歳のお誕生日を迎えられた直後のことで、葬儀は親族葬として執り行われました。
先生は、大正10年11月20日に香川県にお生まれになり、戦時体制の中で昭和18年9月に半年繰り上げで東京帝国大学工学部電気工学科を卒業され、内定していた海軍技術士官への道を捨てて、新発足の大学院特別研究生になられました。5年後の特別研究生満了の後、昭和23年12月に東京大学助教授に任ぜられ、この間昭和34-35年には文部省在外研究員として米国コロンビア大学の客員助教授を経験され、帰国後の昭和36年1月には一般電気工学担当の教授に昇任されました。昭和57年に東京大学を定年退官の後直ちに東京理科大学理工学部教授に就任され、平成14年3月末までの20年間を教授、嘱託教授、非常勤講師として同大学での教育・研究に捧げられました。
先生のご専門は、当時勃興期にあったいわゆる弱電分野で極めて広範囲にわたっており、電気工学科の中で弱電分野全体のとりまとめ役を演じられていた阪本 捷房教授の下で、マイクロ波通信、直流増幅器、テレビジョン回路、パラメトリック逓倍器などの電子回路や、工学と医学との境界分野など、いずれも具体的な応用を見据えてのさまざまな研究に取り組まれました。別の言い方をすれば、他の教官が通信方式やデバイスなどの固有の分野を確立していった中で、常に新しい応用分野を開拓する役割を演じてこられました。中でも特筆すべきものの一つに、学術会議の電気工学研究連絡委員会に設けられた医用生体工学分科会が提案して採択された科学研究費特定研究「生体の制御情報システム」での活動が挙げられます。考え方も流儀も異なる全国の工学と医学に跨る多彩な研究者を組織して、新たな境界領域での成果を引き出すには、先生の円満なご人格や強い目的意識が不可欠であったと思われます。先生ご自身は五つの研究班の一つとこれらを纏める総括班の責任者として多忙で献身的な活動をなさいました。後年もこのような姿勢は貫かれ、医用生体工学分野ではヒトの意識に反応する誘発脳波の計算機解析から、医師不足や無医村地域での医療の質を格段に高めるための地域医療システムなどに至るまで、生活の質の向上に寄与することを念頭に研究開発を進めて来られました。誘発脳波の解析はそれ自体がヒトの意識というものを知る手段になるという意味で注目されていますが、当初の先生の想いの中には、病気や障害を持った人が何か思っただけでしたい動きを助けてくれる知能ロボットなどの支援システムを考えておられた、と伺った記憶があります。
このような広範囲な研究業績等に対して各種の学会賞の他、東京都知事表彰、郵政大臣表彰、NHK放送文化賞、高柳記念賞、勲二等瑞宝章、IEEEミレニアムメダルなどをお受けになられました。
先生の研究の進め方が、特に弱者の生活の質の向上に向けられていたことからも判るように、博愛主義にあふれた円満・高潔なご人格に裏打ちされて、特に強い指示を出されずともまわりに優れた研究者や実務者が自然に集う雰囲気のなかで、非常に広い人達から尊敬と敬愛を受けてこられました。
東大内部の学内行政の面でも先生の手法は遺憾なく発揮されました。全ての教官が個人秘書を持つことが難しくなったことに対応して、教官室と秘書室に互いに連動するセルシンモータを用いた行先表示器を手作りで設置して個人秘書並の電話での応対を可能にしたり、工学部全体の事務改善のためのUM(University Management)委員会(人呼んで宇都宮委員会)でリーダシップを発揮されたり、大学紛争後の改革を民主的に進めるための工学部調査室長、教授会議長、大学の工学部選出評議員などとして学部の運営にも大きな貢献をなされました。
筆者は、宇都宮先生が阪本先生の意を体してさまざまにお助けしてこられたのとは対照的に研究分野ではわがままを通させて頂いた文字通りの不肖の弟子であるだけに、それを許して下さった先生には全く頭が上がりません。ここに深い感謝を捧げるとともに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
ご葬儀に参列できなかった多くの方々から、先生をお慕いしご恩に対してのお気持ちをお伝えしたい、奥様やご遺族に弔意を表したいとの声が寄せられております。先生からご指導を賜った東京大学と東京理科大学の研究室に関わりのあったメンバーが中心となって、平成22年3月21日にお別れの会を計画しておりますので、電気系同窓会の「お別れの会」のご案内をご覧の上、ご参会いただければ幸いでございます。
(昭和37年電気卒 東京大学名誉教授)