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  • リトアニア史余談97:ジェマイチヤの反乱/武田充司@クラス1955

     1401年3月、ドイツ騎士団の支配を嫌うジェマイチヤの人々が決起し、多くのドイツ人を人質にとってフリーデブルクの城を焼き払った(*1)。すでにジェマイチヤの長老や有力者の多くがドイツ騎士団によってプロシャに連れ去られていたから(*2)、彼らは人質にとったドイツ人と交換にその人たちを取り戻そうとした。

     1398年のサリーナス条約(*3)によってドイツ騎士団領となったジェマイチヤは1400年夏からドイツ騎士団による本格的な統治が始まっていたが、多くのジェマイチヤ農民がドイツ人の支配を嫌ってリトアニア領内に逃げ込んできた。その数4000人ともいわれているが、ドイツ騎士団はそれら逃亡民の送還をヴィタウタスに要求していた。しかし、彼ら農民の自由を尊重するという口実でヴィタウタスはドイツ騎士団の要求に応じなかった。ジェマイチヤの反乱の背後には当然ヴィタウタスがいると考えたドイツ騎士団は1401年秋、リトアニアのカウナスとガルディナス(*4)を急襲してヴィタウタスを牽制したが、彼らも本格的な戦争を望まなかったからそれ以上の事態には発展しなかった。事実、ジェマイチヤの反乱は自発的なもので、ヴィタウタスが扇動したという形跡はなかった(*5)。
     ところが、またしてもポーランド王ヨガイラの末弟シュヴィトリガイラ(*6)がこの不穏な状況に便乗してリトアニア大公の座を狙ってヴィタウタス追い落としに動き出した。1402年1月末にヨガイラはスロヴェニアから後妻を迎えて結婚式を挙げたが、この婚礼の儀に出席すると偽って、商人に変装したシュヴィトリガイラはドイツ騎士団のもとに赴き、ヴィタウタス追放の同盟を結んだ。そして、同年3月2日、彼らは共謀してリトアニアに侵攻してきた。これに対してヴィタウタスも、ニェムナス河畔のドイツ騎士団の拠点ゴッテスヴェルダー(*7)を急襲し、3日間の包囲ののち制圧した。こうしてサリーナス条約による偽りの平和は僅か3年余りで崩壊した。
     ヴィタウタスが立ち上がったことで士気を鼓舞されたジェマイチヤの人々は、1402年5月、バルト海に面するドイツ騎士団の重要拠点メメル(*8)を襲って焼き払った。しかし、その年の7月、ドイツ騎士団に支援されたシュヴィトリガイラがヴィルニュス南方に現れ、シャイチニンカイとメディニンカイを襲ったあとアシュメナに迫った(*9)。しかし、激しい攻防のあとドイツ騎士団軍は敗れ、撤退して行った。このとき、シュヴィトリガイラに与するヴィルニュスの一部貴族たちの陰謀が暴露した。ヴィタウタスは直ちに彼らを捕えて処刑した。そして、その翌年(1403年)の春、ヴィタウタスはジェマイチヤの人々の協力を得てダウガワ川中流のリヴォニア騎士団の拠点デュナブルク(*10)を襲ったが、ジェマイチヤをめぐるドイツ騎士団との戦いは決着せず、両陣営の対立は続いた。
    〔蛇足〕
    (*1)「余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ」参照。フリーデブルクの城については同余談の蛇足(8)参照。
    (*2)同じく「余談96」参照。
    (*3)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照。
    (*4)ガルディナス(Gardinas)はカウナス(Kaunas)の南方約140kmに位置する現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna)で、昔はグロドノ(Grodno)と呼ばれた。ここはドイツ騎士団が支配する現在のポーランド北東部の湖水地方(マズーリ〔Mazury〕)に近く、リトアニアとポーランドを結ぶ道筋に位置していたから度々ドイツ騎士団の攻撃目標になった。
    (*5)このとき(1401年の秋)、ヴィタウタスはスモレンスクを包囲していた。しかし、スモレンスク公ユーリイを屈服させることができず撤退している(「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」参照)。この撤退はここで述べたドイツ騎士団によるカウナスとガルディナス攻撃に対処するための作戦変更であったと推測される。
    (*6)シュヴィトリガイラ($0160vitrigaila)は活動的な野心家であったようで、ときには長兄ヨガイラさえ持て余す行動に出ることもあった。特に、従兄弟のヴィタウタスがリトアニア大公となったことに不満だった。事実、1400年末に「ヴィルニュス・ラドム協定」が結ばれた直後に、シュヴィトリガイラはマゾフシェのシェモヴィト4世を説得して反ヴィタウタス同盟を結成しようとしたがシェモヴィト4世は動かなかった。そこで次の策としてドイツ騎士団に働きかけたのだった。シェモヴィト4世については「余談84:クレヴァの決議」および「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」参照。1430年にヴィタウタスが亡くなったときにも、シュヴィトリガイラはリトアニア大公位をめぐってヴィタウタスの弟ジギマンタスと争い、短い間ではあったがリトアニア大公(在位1430年~1432年)になっている。
    (*7)ゴッテスヴェルダー(Gotteswerder)は、1369年にドイツ騎士団総長ヴィンリヒ・フォン・クニプローデによって、カウナス西方の、ネヴェジス川が北方からニェムナス川に合流する地点か、その少し下流の、ニェムナス川の川中島に築かれ城が起源であるが、その後、その城は荒廃していたので、サリーナス条約締結を機にドイツ騎士団がそこに新たな城を再建し、リトアニアとの国境を守る拠点とした(「余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ」の蛇足(8)参照)。したがって、ヴィタウタスは先ずこの国境の拠点を攻撃したのだ。
    (*8)メメル(Memel)は現在のリトアニア北西端の港湾都市クライペダ(Klaip$0117da)のドイツ語名である。当時、ここはプロシャのドイツ騎士団本部と北方の支部であるリヴォニア騎士団(現在のラトヴィアを基盤としていた騎士団)を結ぶ重要な中継基地であった。
    (*9)シャイチニンカイ($0160ai$010Dininkai)とメディニンカイ(Medininkai)は、それぞれ、ヴィルニュスの南方約40kmとヴィルニュスの南東約30kmに位置するリトアニアの都市である。アシュメナ(A$0161mena)はヴィルニュスの南東約50kmに位置する現在のベラルーシの都市アシュミャニ(Ashmjany)で、ヴィルニュスからメディニンカイとクレヴァ(Kr$0117va)を経て、現在のベラルーシの首都ミンスクに至る街道の中間(メディニンカイとクレヴァの間)に位置している重要都市であったから、ここの攻防は特に激しかった。
    (*10)デュナブルク(D$00FCnaburg)は現在のラトヴィア南東端のダウガワ河畔の都市ダウガウピルス(Daugavpils)のドイツ語名である。
    (番外)14世紀末から15世紀初頭にかけてのドイツ騎士団は、北東ヨーロッパの内陸部からバルト海への物資輸送の大動脈である三大河川、ラトヴィアのダウガワ川、リトアニアのニェムナス川、ポーランドのヴィスワ川の中下流地域を支配下に置き、ハンザ同盟とのバルト海交易を独占して大きな経済的利益を手にしていた。その結果、当時のドイツ騎士団は軍事的にも経済的にも強力な国家となってポーランドとリトアニアを脅かしていた。15世紀初頭はこの緊張関係が沸点に達した時代であった。
    (2020年2月 記)
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