ハイデルベルクから白鳥城へ/大橋康隆@クラス1955
記>級会消息 (2019年度, class1955, 消息)
1998年7月10日朝ストラスブール駅を9時8分出発し東方に向かい更に東北に進んでカールスルーエ駅(Karlsruhe)で乗換え、北進してハイデルベルク駅(Heidelberg)に11時16分に到着した。
中央駅からトラムで約10分東方に進み、大学広場で下車した。ハイデルベルク大学と旧校舎を眺めながら更に旧市街を東に進むと、マルクト広場(Marktplatz)に到着した。ここからハイデルベルク城(Schloss Heidelberg)に登り、内部を見学した。 | |
地図ドイツ南部 |
1962年の秋に米国留学の帰途訪れたのが最初であるが、その時は霧に覆われ城を通り過ぎて山に入り込んだが、親切な老人に出会い「城はもっと下だよ。」と教えてもらい助かった。その時も城から四方を撮影したが、霧で霞んだ写真しか残っていない。今回は天気に恵まれ、城から四方を撮影した写真は上出来であった。(写真1)の左に聖霊教会(Heiliggeistkirche)、右にカール・テオドール橋(Karl-Theodor Brucke)が見える。城の見学後、ネッカー川に架かる橋を渡って対岸の坂道を登り、哲学者の道(Philosophenweg)を西に向かって進んだ。ここから撮影したハイデルベルク城とカール・テオドール橋が(写真2)である。散歩道の入り口には、花壇やベンチがある。(写真3)哲学者の道を堪能して、テオドール・ホイス橋(Theodor-Hois Brucke)を渡り旧市街からトラムで中央駅に帰った。ハイデルベルク駅を16時53分出発して北方に進み、マインツ駅(Mainz)で乗換え、リューデスハイム駅(Rudesheim)に19時43分到着、川沿いのホテルに宿泊した。
7月11日朝9時にリューデスハイムの船着場からライン下りの観光船に乗船した。15分後に対岸のビンゲン(Bingen)に寄港したが、私にとって懐かしい場所だ。1962年の秋、ハイデルベルク駅からベルギーに向かう途中、夜中にここで列車が行き止まりになり、止む無く下車して暗い町で唯一灯が見えた居酒屋の2階に泊めてもらったが、清潔な部屋であった。翌朝、1階で朝の食事をしていたら、近所の低学年の小学生が数人珍しそうに窓から覗いていた。手を振ると喜んで、一斉に小学校の方へ走って行った。更に約1時間後に、バッハラッハ(Bachrach)とカウブ(Kaub)の間にある中州にプファルツ城(Burg Pfalzgrafenstein)が現れた。(写真4)ここから30分位でローレライ(Lorelei)に到着した。(写真5)写真の左にトンネルが見える。昔先輩方からライン川の両岸に鉄道が走っており、間違えるとローレライはトンネルの中からは見えないぞと注意されたのを思い出した。この後も、次から次に(写真6)の様な城と葡萄畑が現れてきた。コブレンツ(Kobulenz)の船着場に12時50分に到着したが、タクシーでコブレンツ駅に急行した。13時54分にコブレンツ駅を出発し、マンハイム、アウグスブルグ、ブッハローで乗換えて、フュッセン駅(Fussen)に20時57分に到着した。夜遅く到着したので、タクシーでホーエンシュバンガウ村Hohenschwangau)のホテルに直行した。
7月12日朝、ホテルから坂道を登り待望のノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)を訪れた。馬車に乗って訪れる観光客もいたがここまで苦労して来たので徒歩で頑張った。城の全景は、背後の山の谷に架かった橋から撮影した。(写真7)城に入場して眺めたパノラマは素晴らしい。(写真8)の右下には、ホーエンシュヴァンガウ城が見える。先程城の全景を撮影した谷に架かる橋も撮影出来た。この様に理想的な城の建設に邁進して、権力や財政の衰退の現実を顧みなかった第4代バイエルン王ルートヴィッヒ2世は、狂気王と言われ謎の死を遂げた。しかし現在では、多くの観光客が楽しみ、、村の人達は恩恵を受けている。午後は、山を降りてホーエンシュヴァンガウ城(Schloss$00A0Hohenschwangau)を訪れた。(写真9)外観は単調だが、内部は「英雄の間」「白鳥の騎士の間」など見事であった。夕方ホテルに帰着して、久しぶりにゆっくり休息した。
2020年2月1日 記>級会消息
ストラスブールの滞在を終えて愈々南ドイツの旅に出られた様子を羨ましく拝見しました。
私がハイデルベルグを訪れたのは1968年ですがその6年前にもう行って居られ流石と拝見しました。私はライン川下流のデユッセルドルフに居て時間の出来た週末に1泊で行きましたが、3月中旬は未だ春の到来前で夕刻から冷える季節でした。しかしそれなりに楽しみましたし、往復共ライン川沿いの鉄道利用で、今度のレポートに登場する幾つもの地名を懐かしく拝見しました。メインのお城見物は強行軍を頑張られて感服です。
コメント by 小林凱 — 2020年2月1日 @ 15:56
南ドイツのよい旅をされましたネ。アルトハイデルベルク、懐かしいお城です。マイヤー・フェルターのケーティに魅せられてフランクフルトから電車でハイデルベルクへ。ネッカー川にかかる橋、ケーブルで上がったお城の雰囲気を懐かしく思い出しました。
コメント by サイトウ — 2020年2月2日 @ 10:10
小林兄が1968年にハイデルベルクを訪れたことを知り、昔の事を思い出しました。1968年の春、私はM.S先輩がコンピュータ事業部へ異動された後を継いで、ジュネーブで開催されたCCITT(国際電信電話諮問委員会)に出席し、その年の秋にアルゼンチンのマルデルプラタで開催された総会に出席して、急に世界が広くなりました。1962年にビンゲンで列車が行き止まりになったのは、多分霧が深くなり、運転が危険なためと思っています。翌日は晴れて、プファルツ城の写真はよく撮れていました。
斎藤兄は当然ハイデルベルクを訪れておられると思っていましたが、投稿した写真が懐かしい思い出に繋がり、嬉しく思っています。私も本日午前に高津警察署に行き、免許証を返納して新しい身分証明書を申し込んできました。「長い間ご苦労様でした。」と係の方に言われましたが、何となく寂しい思いがしました。
コメント by 大橋康隆 — 2020年2月3日 @ 14:58
私も1996年7月にノイシュバンシュタイン城へ行きました。しかし、当時の写真機は古いもので、マリエン橋の上から取った写真は大橋兄が撮った写真に比べるとピントがぼやけていて見るに忍びないです。また、何時何分にどこどこへ行ったなどの記録は全然なく、大橋兄の記録はものすごいものと感服しています。
1996年7月15日、16時15分にウィーン飛行場に着地し、ウィーンヒルトンホテルに17時15分頃に到着という記録だけ残っていました。当時のぼやけた写真帳を懐かしく眺めました。
コメント by 高橋郁雄 — 2020年2月4日 @ 13:20