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  • 半世紀前の記録から:南アフリカ(1)・空の旅/小林凱@クラス1955

      1966年11月、私は南アフリカ共和国のヨハネスブルク(Johannesburg)へ来ていた。南アフリカへはこの年2度目となる出張で、一回目は7月にエジプトのカイロを経由してから此処へ廻って来た。

      本来なら南アフリカにはもっと滞在する予定であったが、思いがけぬ東京からの指示で急遽オーストラリアへ廻る事になった。この為8月5日発の南ア航空でヨハネスブルクを発ちモーリシャス、ココスのインド洋の島々を経てオーストラリアへ渡った。お蔭で滅多に来る機会の無いインド洋の島々に立ち寄る事が出来て、その時の様子はブログにも「インド洋の旅」として投稿したからご覧頂いた方も居られると思う。

      この様な経緯から私はアフリカへ来ることは恐らくもうあるまいと思っていたが、ご縁があると不思議なもので同じ年に再び当地へ来ることになった。
      南アフリカは最近では日本からの観光ツアーも設定されて居るが、日本とは地球のほぼ反対側に位置する事もあって、その地理に就いてご存知の方が少ない事も考えられるので地図を入れました(Fig.1)。 Fig1.JPG
    Fig.1
      お馴染みの喜望峰とケープタウンは、この国即ちアフリカ大陸の南の端にある。当時この国でビジネスの中心であったヨハネスブルクはその中央少し上で、周辺一帯は標高約1000mの広大な台地である。
      前回は先にエジプトに立ち寄ったが、今回は回り道はせずに当時の南アフリカ行きの標準ルートで行った。此処へはヨーロッパの主要都市からヨハネスブルグへの直行便が毎日出て居り、このルートは便の好き嫌いをしなければほゞ毎日出発が可能であった。中でもLondonからはBOACが南ア航空と補完して便が充実して居たと思う。
      次に日本からLondonへ行く行く経路だが、その数年前から北極上空を周っていくPolar Routeが開かれ、以前からのいわゆる南回りルートより時間が短縮されて、ヨーロッパに用事がある人の多くは北回り便を使っていた。また南アフリカへの便は、多くが夕方に欧州の都市を発ち、地中海を越えて翌朝赤道直下のケニアの首都ナイロビに着く。ここで乗客の昇降があってから一路南下し、約3時間で最終目的地のヨハネスブルグに着く。私の時は11月6日(Sun)22時に羽田を発ってから4~5Hrの旅であった。
      ご参考に当時の旅程を紹介すると、1966/11/6(Sun)に羽田発22:00のスカンジナビア航空で出発、同じ日にJALの便もあったが急ぎで取れなかった様だ。出発後暫くして夜明けになるが日付変更線を逆に超えるので同じ日の朝の09:35にアンカレッジに到着する。周囲は薄暗い氷の世界だが、乗客は降ろされてロビーで待ち10:35にコペンハーゲンに向け出発した。(Fig.2) この頃欧州に行かれた方は、航空会社は違っても似た時間帯で旅行されたと思う。機はアンカレッジからは欧州に向けてほゞ真っすぐに北極の上を越えて行く(Fig.3)。 Fig2.jpg
    Fig.2
    Fig3.jpg
    Fig.3
      この時ではなかったが後日同じルートで見事なオーロラに包まれる様に飛んだ経験がある。機はその後南下して翌11/7(Mon)の06:05にコペンハーゲンに到着した。東京との時差は8Hrだから約16時間の旅である。当時はソビエト連邦を迂回して飛んだ様だが、冷戦終了後は日本から欧州への便はロシア上空を飛んで行く様になった。それでこの60年代の北極ルートは過去の懐かしい記憶となった。
      コペンハーゲンから先は同じスカンジナビア航空の接続便でロンドンに向かった。待つ間に乗り継ぎ客にはオープンサンドウィッチとビールの朝食が出された。どちらも美味でデンマークはビールのCarlsbergが有名な事を改めて認識した。この後私の便はHeathrow空港に10:20に到着した。
      好奇心から若しJALの席が取れていたらと比較したところ、Polar RouteのJAL411便は羽田発22:30で、Anchorage、Hamburg経由で翌日の08:20にLondonに到着する。また南回りで行った場合では、JAL461便は同じ日の14:20に羽田を発ち、香港、バンコック、デリー、カイロを経てローマ、パリに立ち寄り翌日の10;45にLondonに到着する。南回りで行った場合でも夕刻にLondonを発つ南アフリカ行きの便には間に合う訳だが、その後の仕事を考えればこのルートでの離着陸の繰り返しに付き合うのは大変だ。
      但し当時のIATA規約では北も南も同じ運賃であったから、時間と体力さえあれば南廻りも悪くは無かった。離着陸の都度色々な国の風景が見れるし、仕事が済んだ帰路に南回りルートを試したことがある。ヨーロッパの空港を朝発つと地中海の上で日が暮れて、イラン辺りを深夜に通過してインドで夜が明けてくる。ベンガル湾でカルカッタに立ち寄ってから、アジアの国々を眺めて夕方香港に着く。この後日本までの約3時間は仕事を終えたビジネスマンが多数乗って来て、Beerを片手に忙しかった東南アジアでの日々を回顧する様子が眺められた。
      この時の南アフリカへはLondon発19:45のBOAC121便を予約して居たので約7時間の自由時間があった。こうなると悪い虫が頭を擡げるのが私の欠点で、初めての英国に来たからと直ぐに空港からTown Air Terminalに向かった。バスがLondonの市内に入ると、道の両側には屋根にChimneyが突き出た家が並んでいて、これがその頃好んでいたAgatha Christieの世界かと喜んだ。
      この時Londonで見たい処は決めて居たので、案内所でMapを貰って出かけた。先ずBackingham宮殿とWestminster寺院の前に行って表敬し、次にLondon塔に行った。ここは入場して王冠や宝石の収蔵品を拝観し、その後近くのテームス川沿いのパブで、鱈の切り身のフライとビールの食事を取った。これは一度試して置く儀式と思って賞味した。
      この後大英博物館へ急いだ。ここは是非見たいと思っていた所で、先ず入口近くに展示されていたロゼッタストーンを拝観し、この年の夏に訪れたエジプトを思い出した。その後アッシリヤなどの古代文明の遺品を拝観してエジプトのコーナーへ行った辺りで時間が無くなった。
      大英博物館を後にしたら外はもう真っ暗で生憎しぐれて来た。TAXIが中々居なかったが、漸く1台来てVictoria Station近くのTown Air Terminalへ連れて行って呉れた。他にバスや地下鉄もあるだろうが、田舎者の私には良く判らないからこれは助かった。
      空港ではゆっくり間に合って、席は15A、窓際で外を眺めるのに便利であった。このFlightの機材には英国が新しく作ったVC-10が使用されて居り私も初めてであった。搭乗すると「Built by Vickers, Powered by Rolls Royce」と表示されていて、英国の思いが籠って居るのだなと感じた。
      第二次世界大戦が終わり戦争中に開発された技術が民生用に転化される過程で、旅客機は当時の重要なEmerging Technologyとしての地位を占めて居た様だ。日本とドイツは蚊帳の外に置かれたが、各国はこのチャンスに飛び乗って群雄割拠の熾烈な第一ラウンドが行われていた。
      このレースはB-29を4000機も生産した米国が断然有利だったと思うが、英国も熱心で初のジェット旅客機として1952年にデハビランド(deHavilland)社のCometをBOACの路線に就航させた。ただこの機は1953年にインドのCalcuttaで墜落し、更に1954年1月アジアルートの帰路に地中海上空で破裂して世界に衝撃を与えた。
      英国は壊れたCometの機体を引き上げ調査した結果、機体爆発の原因は高空飛行の繰り返しによる与圧キャビンの構造疲労が主因との結論に至る。一方高空飛行が元々の使命であったB29にはそれに対応して機体が作られていたと思う。この様な経緯から英国のVickers社が VC10を完成するのは1960年頃に遅れ、営業路線への就航は1964頃となっていた。
      一方でPanAmerican航空は1958年10月Boeing707機でNewYork-Paris間の運航を開始し、更に米国のダグラス社も似た仕様のDC8型機を国際線用として提供開始して居た。英国のBOACもこの頃はB707機を使用して居り、これは私がアフリカへ行ったと同じ年の1966年3月羽田を離陸後富士山上空で空中分解して墜落した。この年は旅客機の大事故が続いた年で、その少し前の同年2月に全日空のBoeing727機が羽田沖に墜落し、次いでカナダ太平洋航空のDC8機が羽田着陸時に大破炎上した。たまたま私は豪州に行く用事でBOAC機墜落の翌日に羽田から出発したが、搭乗したカンタス航空の707機が離陸のため滑走路の端に行くと、その数日前に大破したDC8機の焼けた残骸が山の様に積み上げられていた。
      この様に航空機の安全性が問題となる中で、英国は頑張ってVC10を就航させ、その間もない時期に私は搭乗した事になる。VC10は4基のエンジンを胴体後部に2基づつ装着して居て、私の席は前方だった事もあって機内は静かで乗り心地は中々良かった。 Fig4.jpg
    Fig.4
      このフライトは翌朝ケニアのナイロビに立ち寄ったが、空港ターミナルからの乗客達が向かう先にVC10が見える。(Fig.4)
      この様に苦労して登場したVC10だが、その後大きな活躍無しに空の旅から退場してしまった。事故も無く、操縦性能も評価は良かった様だが、市場へのタイミングを失したと言われた。私も搭乗して気に入ったが、二度目に乗る機会は無かった(この時の帰途は別ルートでした)。
      これと対称的にPanAmは大西洋横断から世界中に路線を拡大し、一時は米国のFlag carrierの様に思われた時代もある。それと共に使用機のB707、後にB747も世界中で見られる様になった。VC10は開発時に投入予定路線の空港滑走路の長さに合せる為、離着陸距離の短縮に苦労したらしいが、後日路線に登場する頃には各地の空港ではB707、DC8機を受け入れる為こぞって滑走路を延長したので、Vickers社の苦労は市場から報われる事は少なかった様だ。
      PanAm路線の拡大に合わせて登場したTV番組が「兼高かおる世界の旅」で、PanAmが全面的に協力して制作された。番組放送は1959年から始まったから、VC10が完成に向けた努力をしている頃、Boeing機は既に市場でその活躍がPRされて居た事になる。
      私の旅のレポートも随分ルートを外れてしまった様です。搭乗したBOAC121便はこの後一路南のヨハネスブルグを目指しますが、これに付いては次のレポートに致したいと思います。ご寛容ください。
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