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  • 油絵教室の孫ブーム/大橋康隆@クラス1955

    油絵は最初に果物の静物画から入門し、次いで風景画へと進んだ。しかし、本当に描きたいのは人物画であった。


    未熟な腕で人物画を描きたいと大久保先生に申し出たら、「先ず自画像を描きなさい。」と言われた。6号の自画像を描いたが、完成直前に仲間から「願望が表れて実物より若く描いている。何年前の自画像かな。」と冷やかされた。皺を入れたり、白髪を混ぜたりしたが纏まらず、断念した。そこで妹の孫達4人を描くことにした。先ず妹の次女が住んでいた山梨県を訪れ、自宅前で最初の孫娘の写真を撮り8号に描いてみた。
    「子供は未だ話せないから文句を言わないが、両親が目を光らせているから注意せよ。最後は私が可愛く修正してあげよう。」と温かい激励を受けて描き上げた。(写真1)翌年、妹の長女が住む千葉県を訪れ、最初の孫息子の写真を撮り描いた。(写真2)この頃になると、私の隣で海軍兵学校出身のMさんは、小学3年生位のお孫さんが蝉を網で捕って得意になっている素晴らしい油絵を描いて、NEC OB パレット会の展示会に出展され、急に孫の絵に興味が集中してきた。極めつけは、Kさんが両腕に孫を抱きかかえた自画像を描いて出展した時である。最後は、大久保先生が、孫娘の成人式を30号に、曾孫を抱く孫娘を60号に描いて、東京都美術館で開催された新構造展に出展されたのである。

    その翌年は、妹の次女に頼んで、2番目の孫娘の写真を郵送してもらった。ところが背景が店屋の煉瓦の壁であった。これではチューリップに囲まれた姉の油絵に比べ見劣りする。

    写真1 花壇の幼女a.jpg$00A0 写真2 僕2才a.jpg$00A0 写真3 バラ園の幼女.jpg$00A0
      $00A0(写真1)
     花壇の幼女
      $00A0(写真2)
       僕2才
      $00A0(写真3)
     バラ園の幼女

    そこで登戸のバラ園の写真を背景に置き換えて描いてみた。(写真3)最後に、妹の長女を訪れ、2番目の孫息子の写真を撮って油絵に描いた。(写真4)この時のオモチャの車はイタリア旅行の土産であったが、迂闊にも兄の車まで手渡してしまった。何時も兄貴のお下がりを譲り受けていたらしく、両方とも自分が貰ったと思い込み大喜びしていた。兄貴が幼稚園から帰宅して、一つ取り上げると烈火の如く泣き喚いた。仕方なく当日は兄貴に我慢してもらったが、翌日は納得したのか仲良く1台づつ持っていた。
    これらの油絵は、いずれも本人達にプレゼントした。「将来子供達が大きくなって、親父の給料が少ないと文句を言うようになったら、ヨーロッパでは、子供の頃の油絵があるのは王侯、貴族だけだと答えるとよい。」と母親に言っておいた。今では、妹の孫達も中学3年生、2年生、1年生と小学6年生にまで成長した。数年前、隣で描いておられるMさんに、「蝉を持っていたお孫さんも大きくなられたでしょう。」と尋ねたら「中学生になってからは寄り付かなくなった。」と苦笑しておられた。一方では今でも、初孫を熱心に描いている女性会員がいる。
    昨年の東日本大震災の影響を最も受けたのは妹の長女達であった。幸いマンションは基礎がしっかりしており災害を免れたが、周囲は液状化現象で凸凹になった。特に中学校、小学校の体育館は使用不能になった。当日、父親はNTT品川本社に出向いていたので、多忙を極め、夜中に9時間歩いて翌朝帰宅したそうだ。さすがは熊本育ちだと思う。更に残念なことに、息子達が週一回英語を習っていたカナダ人の若い先生が、帰国してしまった。

    写真4 僕の車だよa.jpg$00A0 写真5 西郷さんの銅像前a.jpg$00A0 写真6 岡山の後楽園a.jpg$00A0
    $00A0  (写真4)
      僕の車だよ
    $00A0  (写真5)
    西郷さんの銅像前
      
       $00A0(写真6)
      岡山の後楽園

    昨夏は両親の勤務先の休電日が異なり、一家団欒が難しくなった。そこで夏休みの一日だけ、孫達を東京見物に誘った。東京と千葉の境、新木場で待ち合わせ、上野の科学博物館などを見学した。兄は中学で見学に行ったことがあるそうだが、弟は大喜びであった。手回しで摩擦電気を発生して火花を飛ばしてみたいと言って行列に並んだ。前後には小学3年生位の子供達が並んでいた。順番がきた時、係の人が驚いて「君もしたいのか!」と尋ねたら、頷くや否や全力で回して火花を飛ばし、すっかり満足していた。その後、西郷さんの銅像前で写真を撮った。(写真5) 夕食は東京駅の地下街でボンゴレを食べた。リラックスしたのか本音が飛び出してきた。兄が言うには「こいつはお母さんが帰宅するまで遊んでいて6時半に帰って来るんだ。ろくに勉強しないのに、試験の時だけ要領よく立ち回っているんだよ。」直ちに弟が反論した。「本当のことをバラスぞ。お母さんと兄さんがボクが馬鹿だと話しているのを聞いたぞ。」そこで私は「本当に馬鹿だと思っているのか?怠け者だからそう言われるんだろう。英語で銅メダルを取った後、銀メダルを飛ばして金メダルを取ったじゃないか。馬鹿では金メダルは取れないよ。兄さんに使用済みの参考書とCDを早く譲ってもらいなさい。」と言った。数か月後に母親から、兄は英検3級を、弟は5級を取ったと電話があった。
    小学校時代に私と妹が一緒に撮った写真はたった1枚である。(写真6) 母の従兄が、私達を後楽園に連れて行き、岡山城を背景に写真屋が撮影した記念写真である。妹が小学2年生、私が5年生だろう。2年後には空襲を受け、妹の手を引いて旭川の河原から岡山城が焼け落ちるのを眺め、やがて敗戦を迎えて過酷な日々を送ることになるとは夢想だにしなかった幸せな頃である。

    1件のコメント »
    1. 大橋画伯の展覧会でずっと拝見してきたのは専ら風景画でした。その風景画、最近富に風格を増してきたと感心していましたが、今回初めて人物画を拝見。人物画もすばらしいではありませんか。妹さんのお孫さん達とても可愛らしく描かれていて家内と見入ってしまいました。

      コメント by 新井 彰 — 2012年3月19日 @ 17:10

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