• 最近の記事

  • Multi-Language

  • ワシントン ポトマックの桜について/沢辺栄一@クラス1955

     桜の季節が近づいたが、今年は尾崎東京市長がアメリカワシントンのポトマック河畔の桜を贈ってから丁度100年になる。以前、桜の調査を行った際に纏めたポトマックの桜の経緯について報告する。

     ポトマック河畔の桜は1912年(明治45年)尾崎行雄東京市長から贈られたことは良く知られていることである。この実現にはアメリカの地理学者で紀行作家のエリザ.R.シドモア女史の夢があった。
     シドモア女史はアメリカ・アイオア州出身で、1884年(明治17年)秋に初めて来日し、日本国内各地を旅行するうちに、日本および日本人の態度と心の美しさに感じ入り、日本を大変好きになり、生涯日本を愛し、国際的にも日本を支援した。日本の桜の美しさにひかれ、また、日本人の桜に対する精神的な思いまで理解して、特に感動した桜並木の映える春の隅田川・向島の景観を、そっくり首都ワシントンを流れるポトマック河の水辺に移したいという夢を持った。
     また、植物学者のデービッド・フェアチャイルド博士も日本滞在中、桜の優美さにすっかり魅せられ、ワシントン郊外の自分の庭園に桜を植え、十分育つことを確認のうえ、1904年(明治37年)日本の桜を愛する昆虫学者のチャールズ・L・マーラット博士とシドモア女史を招いて観桜茶会を開いた。その生育ぶりに驚いたシドモア女史は5年後、当時大統領邸とその庭園を綺麗にしようとしていた友人である当時のタフト大統領夫人に面会し、この思いを伝え、桜の植栽を熱心に勧めた。日米両国間の親善促進をも合わせて、大統領夫人もこの考えに賛同し、正式な外交ルートにより、尾崎東京市長に要請が伝えられた。
     尾崎市長は日米の友好を深めるのに願ってもないチャンスと考え、1909年(明治42年)11月に東京府下の植木業者から購入した桜樹2,000本を船便で送った。しかし、アメリカでは知られていない害虫が無数に寄生していたため、1910年1月にすべて焼却処分となった。
     東京市は失敗の原因をよく調査し、改めて染井吉野を中心に3000本の桜の寄贈を決定した。尾崎市長は農商務省農事試験場長の古在由直博士に害虫の付かない強い苗の生産を依頼した。博士らの調査により病害虫の付く恐れの少ない苗の産地として選ばれたのが現在の伊丹市東野であった。苗の生産は東野の久保武兵衛が受注し、1910年末、苗木10,050本が納入され、農商務省の静岡県清水市の興津園芸試験場の専門技師によって、苗木の育成と害虫防除が施され、良い台木として育てられた。その後、東京・荒川堤の桜を穂木としてこれに接木し、6,040本が1912年(明治45年)2月、横浜港から出された。この桜が日米の懸け橋としての寄贈であることに心を打たれた日本郵船株式会社の近藤廉平社長が無償で輸送することにし、同社の「阿波丸」により輸送された。なお、最初の桜の輸送は同社の「加賀丸」が輸送していた。また、6,040本のうち半分はニューヨークに送られた。ワシントンにはシアトル経由で1912年3月26日に無事到着した。

    ワシントンの桜(写真).jpg$00A0
    $00A0

     計画から3年経過した1912年3月27日に初めて日本の桜がアメリカに植樹された。
     桜はアメリカ大統領官邸ホワイトハウスの庭園、ポトマック川沿いにあるタイダル・ベースン池の北畔に、タフト大統領夫人と珍田駐米日本大使夫人よって植えられた。ポトマック公園には記念のプレートがあり、「JAPANESE CHERRY A GIFT FROM THE CITY OF TOKYO//PLANTED MARCH 27, 1912 BY VISCOUNTESS CHINDA INPRESENCE OF THE AMBASSADOR FROM JAPAN WITH MRS.WILLIAM H. TAFT」と記されている。私は何回もワシントンを訪れたが、このことを知らず、残念ながらこのプレートに気付かなかった。
     上述の通り、桜はニューヨークにも東京市から寄贈された。最初の桜はワシントンの場合と同じく焼却処分となったが、2回目は植物検査に合格した。3000本が1912年(明治45年)4月28日にニューヨーク市クレアモント公園内にあるグラント将軍墓所前で盛大な歓迎植樹式が高峰譲吉博士たちによって催された。高峰博士はハドソン河畔リバーサイドドライブが数マイル桜で覆われるのが理想と考えていた。
     シドモア女史はその後アメリカの日本人に対する移民差別政策に断固反対してスイスに亡命し、ジュネーブの自邸で1928年(昭和3年)晩秋亡くなり、翌年の秋に、横浜外人墓地に眠る彼女の母、兄の隣に埋葬された。1991年(平成3年)シドモア女史を偲ぶ人々が外人墓地に集まり、ポトマック河畔の桜4本をシドモア女史の墓の傍らに植樹した。
     また、アメリカは桜のお返しに1915年(大正4年)「返礼」の花言葉を持つアメリカ・ハナミズキ40本を日本に贈った。伊丹市東野にも2本届けられたが、2本とも枯れてしまった。しかし、伊丹市内の郷土史研究グループ「ぐりんぷす」が東京都立園芸高等学校にあるハナミズキがその子孫であることを突き止め、同校から苗木の寄贈を受けると共に、市やアメリカ総領事館に働きかけ、東野地区の地元にある荻野小学校に苗木を1本植えることになった。荻野小学校では1999年(平成11年)2月20日にフレデリック・マークルアメリカ総領事、松下勉伊丹市長および同校児童らが校庭の一角に植樹した。
     なお、今年、日本からワシントンに桜が寄贈されて100年になるのを記念して、アメリカから東日本大震災の被害地などにハナミズキの苗木3,000本が贈られるとのことである。

    謝辞:上記に関する情報は人物史、民族史の調査研究をされている外崎御夫妻の御好意により得られたものであり、外崎御夫妻に感謝致します。

    参考文献
    ・ポトマックの桜-津軽の外交官珍田夫妻物語  外崎克久著 サイマル出版社 
    ・日本の桜-歓喜と詩のある季節  エリザ.R. シドモア著  外崎克久 訳
    ・シドモア日本紀行  エリザ.R. シドモア著 外崎克久訳 講談社

    沢辺栄一(2012.3.7)

    1件のコメント »
    1. ポトマックの桜の詳しい物語、とても興味深いですね。シドモア女史のことは知りませんでした。静岡県の興津園芸試験場のことは聞いたことがあるような気がします。桜といえば、先日星空観望で伊豆石廊崎に行く途中河津を通り、満開の河津桜を眺めてきました。

      コメント by 新井 彰 — 2012年3月18日 @ 11:54

    Leave a comment

    コメント投稿後は、管理者の承認まで少しお待ち下さい。また、コメント内容によっては掲載を行わない場合もあります。