オリンピックの辰年―その4/寺山進@クラス1955
記>級会消息 (2011年度, class1955, 消息)
今回は2000年の庚辰、シドニー・オリンピックである。柔道の4ケを含む計5ケの金メダルしか取れなかったが、何と言っても「Qちゃん」こと高橋尚子選手の女子マラソン初優勝の快挙が鮮烈で、前回辰年のソウルと全く異なり明るい印象を残したオリンピックになった。
小生の個人的環境はこの間に激変した。出向先のN.T.T.グループ企業から一旦本社に戻り、新規事業担当の大役を仰せつかった。しかし実力遥かに伴わず、又バブル崩壊にも見舞われて、敢無く失敗する羽目になった。会社は後の職も用意してくれたのだが考える所あって退職し、個人的な伝手を頼って中規模のソフト・ハウスで働くことにした。
シドニー・オリンピックの頃には、もう週に一二度の出勤程度であったが、次の年21世紀の会計初年度をもって完全に引退した。1955年以来46年に亘るサラリーマン生活にピリオッドを打った訳である。
ソフト屋としての十年間は、今まで出会った事の無かった経験だった。大企業の若い担当者から下請け扱いされる。例えば東京電力とか都銀のソフトの仕事をするのに、一次下請けは富士通やN.T.T.データなど大企業、二次に大手のソフト・ハウスが入り、中規模のソフト屋ではその下の三次下請け位の位置づけである。勿論まだまだ下はあって、四次下請けに数人程度の小さい会社、更に最下層には一匹狼のプログラマがいる。この辺になって来ると、腕は良いけど変わり者というのも多い。他人とのコミュニケーションどころか、挨拶一つまともに出来ない。というよりも寧ろ、しようとしない。こういう連中が書いたドキュメントを読んで、理解できる人間など居る筈が無いのである。所が得てして、そういう文章がノーチェックでスーと上迄行ってしまい、取扱説明書やマニュアル或いはATMの表示などに現れる。誠にこの世界の不可思議な所ではあるが、よくある話なのである。
シャープの洗濯機の購入直後、洗剤蓋開閉検出用リミット・スイッチの接点溶着が原因で、洗濯機そのものが全く動かなくなった問題を、以前ブログで取り上げた。さんざん電話で怒鳴り捲って、何人目かに設計の係長さんが出て来たが「シークエンスはソフト屋に任せているので知らない」という答えで匙を投げた。今でも小生の目に浮かぶ具体的な顔・・ああいう連中が作ったソフトなら「さもありなん」である。因みに、あわや無駄になる寸前の洗濯機は、十年後の今でも酷使に耐えてちゃんと動いている。
N.T.T.グル-プ出向中に年金システムを見学する機会があった。そのおかげで、早い時期から年金制度のいい加減さに気付いていた。自分の年金データは確認せねばと思い、時には紹介状まで用意して何度も社保庁の事務所を訪れた。根掘り葉掘り聞きまくって、損をしない様に手を打った積りである。制度の矛盾と役人の怠慢(特に、平均寿命55歳ころに決めた繰り延べ支給の計算式の倍率を、かなり後までそのままの値にしていた事)の恩恵を多少は受けたと思う。
故国頭暁君にこの件を話した事があるが、何故か「大分長生きしないと元が取れない」と云って余り真面目に取り上げて呉れなかった。自分の予命を予感していたのだろうか・・今頃になって時々そんな事が気になっている。
遥か昔入社早々の頃、国頭君が「東京通信工業(後のソニー)の株を買え」と真剣に勧めてくれた事がある。「余裕が無くて買えない」と答えると、「天引きの年金で買えれば良いのになあ」と彼が云った。本人がその後、ソニー株をどの位買ったのかは全く知らない。この時以後、株の話をした覚えがないからである。
当時年金は積み立て方式であった。「君達の老後の為に国が代わりに運用してやる」みたいな説明を受けた。確かまだ任意加入だったと思う。人事か総務部からは入った方が得だと勧められた筈である。
役人や政治家は直ぐに「年寄りは若い人に支えられている」という世代対立論を持ち出すが、飛んでもない話である。1975年頃田中角栄内閣が、高度成長の分け前を少しはサラリーマンにも分け与えようというので、年金制度の改革を行った。しかし敗戦を挟んだ超インフレの結果、その間に働いた先輩年代の積み立て年金額の不足が問題になった。解決策として素晴らしいアイデイアであるかの如く、賦課方式を持ち出した政治家や評論家の顔を今でも思いだす。その時既に団塊後の世代の出生率が低下していたので、何れ将来問題になる事位は小学生でもわかる。
入社当時の給料¥12000-のうち年金の天引きは¥500-、会社負担が¥500-なので年間では¥12000-払っていた。昭和31年の正月頃に買ったソニー株を、昭和の末期に売ったとすると(株主への割当増資はその時点での時価で一部を売ってまかなう、つまり追加の資金零で、又配当金で新規に株を購入する、と計算して)約5000倍になった。つまり入社時の一年間の年金支払額だけで6000万円になっている。全体としては少なくとも、10億位にはなっている筈である。我々世代の、特にサラリーマンの、その又特に物作りの会社のサラリーマンの、高度成長に対する貢献度はそれくらい大きいのである。
当初は「その4」をもって最終回にする積りだったが、今年を無視する訳にはいかない様な気がしてきた。そこで次回最終回の投稿は、2012年・壬辰のロンドン・オリンピックとしたい。
$00A0$00A0平成24年2月29日
2012年3月6日 記>級会消息
2000年のシドニーオリンピックといえば「Qチャン」こと高橋尚子選手の初優勝が強く印象に残っています。寺山兄は当時最後のお勤めをしていたようですが、小生は1997年に完全退職し、2000年8月には待望のオーストリア旅行に出かけ、帰国後にゆっくりオリンピックをテレビで楽しみました。「Qチャン」の連覇は間違いなしと思っていたのですが、2004年のアテネオリンピックでは野口みずき選手が優勝しました。その時はベネルクス3ケ国の旅行中で、ルクセンブルクのホテルのテレビで観戦しました。英語のテレビを観ていたので、ゴールの瞬間、アナウンサーが小柄な野口選手に「Prety!]と叫んだのをお覚えています。野口選手も連覇は確実と思っていましたが、2008年の北京オリンピックでは怪我に阻まれました。どうもマスコミの騒ぎ過ぎで、プレッシャーが強く、真面目な選手程練習のし過ぎではないかと思い残念でなりません。精神論ではなく科学的な体調管理と無理のない練習量が望まれます。
寺山兄がソフト屋として10年間苦労された体験は良く解かります。小生も日本高速通信からNECケーブルメディアに転職して19991年~1997年勤務しました。「技術だけ面倒を見てくれ。」とNECのトップから言われ、経営には口を出すなと釘を刺されたと理解しました。NECで光通信を世界展開していた頃、アルゼンチンの大プロジェクトを受注した時、特別起案をして大型投資をし納期を遂行しましたが、その翌年は受注が減少して、「山梨工場にぺんぺん草が生えている。」と事業部会議の度に油を搾られ「君はお金を使っている時だけ生き生きしている。」とまで言われました。ところがその翌年は、北米、南米、東南アジア、中近東から受注が殺到して「先見の明がない。」と言われました。しかし、1991年は最初のバブル崩壊後で、世界の流れはすっかり変わり、失われた20年が始まった頃でした。ケーブルテレビ分野は最後のアナログの砦であり、技術開発はNEC本体が担当していたので、デジタル化と光化は遅々として進まず、小生も6年半外に出ている間に浦島太郎になったと痛感しました。そのうちに小生の昔の部下が社長に就任したので、技術開発部隊にNECから出向してもらい、徹底的にデジタル技術と光技術を習得してもらいました。1997年に退職した時は、すっかり解放された気持ちになり、技術の世界から足を洗いました。
先般、税務署からe-Taxの葉書が来ました。昨年、税務署で係員が小生の手書き書類をパソコンで打ってくれたのを思い出し、自信がないので下書きだけでもパソコンできれいに打ってみようと思いました。インターネットで最初の画面を開き、次の画面に移ると動かなくなってしまいました。色々調べたが、ウィルスバスターの設定を変える必要があるようです。これはヤバイと思い、油絵教室で最もパソコンに詳しい若い方に相談しました。「それは止めた方が良いですよ。」と即座に言われました。「私も色々やってみましたが、次から次へと解らないコトバが出てきて頭にきますよ。」とのこと。止む無く書類もないので、添付する源泉徴収と生命保険の葉書を持って税務署に行き、長い行列を待った後に、アルバイトの 女性が昨年と同じように打ち込んでくれました。理解すると簡単なことだが、解かりにくいコトバを使って煙に巻き、存在価値を顕示しているとしか思えません。或いはアルバイトの失業対策かも。そう言えば国民総背番号制にすれば良いと思うのですが、プライバシーとか言って中々実施されません。小生などは、この歳になってプライバシーなど無いに等しいと思っています。万一に備え、手帳の裏には通っている病院名と患者番号、飲んでいる薬名が書いてあります。
コメント by 大橋康隆 — 2012年3月7日 @ 17:42