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  • 確率では心配を拭えない/大橋康隆@クラス1955

    小林兄の「危険との距離」を読んで、昔のことを思い出し、改めて兄の胆力に感服した。

    コメントにも書いたように、小生は今でも航空機の離着陸時に緊張する。グーグルで調べてみたら、毎日搭乗しても438年に一度しか事故に遭遇しないから車より安全と書いてある。しかし、墜落しそうな経験をしたり、危険に異常接近すると話は別だ。
    1969年11月にロンドンで開催されたICC’ 69(国際通信学会)で高速符号器の論文を発表してから、11月29日に空路ニューヨークに向かった。ここまでは手帳に記録がある。ニューヨークからワシントンに向う時、既に12月になっていて天候が悪く一社を除き全て欠航となった。イースタン航空はストライキが終了直後で、損失を挽回するため無理をして出航したらしい。それに搭乗したのであるが、上空に上がってから後悔した。今までにない揺れ方で、女性や子供が泣き叫びだした。やがてスチュワーデスが住所、氏名を聞きに来た。いよいよ死亡者リストの連絡をするのだと思った。この状態で雲間を通常のように着陸するのは不可能だ。突然機体が急降下したので、もうお終いだと思った。次の瞬間機首が上がってワシントン・ナショナル空港の滑走路を走っていた。こんな操縦が出来るのは、元空軍パイロットではないかと思う。修羅場を潜った人でないと異常事態で冷静に判断し行動することは出来ない。12月9日に帰国したが、その後暫く経って、航空会社から悪天候で飲料などのサービスが出来なかったという理由で、僅かの送金を受領した。送金の手数料の方が多かったと思う。社命とあれば「火の中、水の中」という猛烈な時代であったが、今振り返ると結果オーライというだけで複雑な気持だ。その後もワシントンには数えきれない程出張したが、撮影した風景写真にはいずれも人物が入っている。やむなく1967年1月に出張した時撮影したアーリントン墓地の写真を掲載する。遠方にリンカーンメモリアルが見える。

    写真 アーリントン墓地.jpg$00A0
     $00A0アーリントン墓地


    1972年11月29日にモスクワ近郊で日本航空のDC-8が墜落した時は、CCITT(国際電信電話諮問委員会)に出席していてスイスのジュネーブにいた。モスクワで重要な商談が進められていたようで、日本各社の役員や技術者が多数搭乗しており、NECの技術者も1名含まれていて、離陸後失速して墜落したという情報が間接的に伝わってきた。その3日後、12月2日の17:30 にジュネーブの空港を離陸してパリに向かった。スイス航空の中型機は山岳めざして急角度に上昇する。これまでは当たり前と思っていたのに、モスクワでは仰角が大き過ぎて失速したと聞いていたので、この時は後ろに滑り落ちそうな気がして、早く水平飛行に入ることを祈った。翌朝パリ空港では最も厳重な身体検査を受けた後、JAL-440便に搭乗してモスクワに向かった。通常、給油は1時間位だが、3時間位経って一般乗客は後部座席に移され、遺族の方々が搭乗された。その間、棺も搭載されたようであった。羽田空港に到着すると、一般乗客は最後部の扉から早く降りるように促された。振り返ると機体の近くに大勢の遺族の方々や、関係者がおられた。この時のことは一生忘れられない。この事故では、死亡者520名、負傷者4名である。NECの無線技術者は、墜落して飛散した機体の破片に足を挟まれ、炎が近づいてきて自ら足を切断しないと助からないと思った時に救助隊が到着して、九死に一生を得たと漏れ聞いている。
    1978年7月4日、ワシントンからフィラデルフィアに向った際、搭乗したのは乗客7~8名の小型機であった。一番前の座席についた。離陸前に操縦席の扉を開けて、パイロットとスチュワーデスが新聞を見ながら話していた。その話声が聞こえてきてギョッとした。その新聞には前日同じ便の仲間が着陸時に高度を誤り墜落した記事と写真が掲載されていたのだ。間もなく離陸したが、着陸する時に滑走路の近くにある教会の塔に衝突するような気分に襲われた。兎に角一日違いで命拾いをしてホッとした。危険に異常接近する時は、悪天候と人為ミスの両方があり生死を分けるのは運次第である。人為ミスはランダムであるが、寒くなると悪天候が多く危険度が増してくる。昔、北欧で滑走路の先端まで走って急ブレーキが掛かり、4~5時間待たされた後に離陸したことがある。この時も11月であり、そのまま離陸していたら墜落していたかも知れない。「アルゼンチンの思い出」にも書いたが、1968年にブエノスアイレスからマルデルプラタまで中型機に搭乗して気流に流されたが、この時は11月でも南半球であるから夏に近い。1976年10月に、シドニーから中型機でマレーシアに向った時に大きなエアポケットに入り高度が急低下して、翼が折れるかと思った。どうも11月前後は縁起が悪いと非科学的なことを言いたくなる。
    最初に航空機に搭乗したのは、1961年8月である。フルブライト留学生は、前年まで氷川丸に乗船していたが、航空機に変わった。ハワイまでは直行の予定であったが、天候が悪くウエーキ島に着陸した。初めての経験で、航空機はこれ位揺れるものと思い恐怖感はなかった。以来、航空機には大変お世話になってきた。危険に接近した話ばかり書いて申し訳ないと思う。一昔前は機内サービスの競争時代であったが、現在は格安サービスの時代に入った。しかし「安全」が最大のサービスであることに変わりはない。確率では心配を拭えないが、今後も体調が許す限り航空機のお世話になりたいと思っている。

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