空の旅アラカルト/森山寛美@クラス1955
記>級会消息 (2011年度, class1955, 消息)
テキスト:
ハプニングを楽しんだ「Queen’s English in Paris」やリスクを楽しんだ「Ladies in Milano」と続いた一人旅シリーズの最終回は「空の旅アラカルト」である。
今回は三つのエピソードからなっている。
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この機体の最初の愛称は「滋賀“Shiga”」で1968年5月に登録されているが、約6か月後の1968年11月にサンフランシスコで着陸に失敗して着水事故を起こしている。乗客96名、乗員11名は無事だった。大きな損傷がなかったので引揚げ修理されて約5か月後の1969年3月に運航に復帰した。この際愛称が「日高“Hidaka”」に変更されている。事故の原因は「所定の飛行方式からの逸脱によるものであり、この逸脱は同型式機に装備されている装置について慣熟しておらず、使用する頻度の少なさが不適正な操作につながったとする操縦ミス(ヒューマンエラー)」とされた。JA8032は二つの愛称を持った唯一の機体である。
それから4年後に小生が搭乗したことになるが、さらに1年後の1974年1月に発生したシンガポール事件(武装した日本赤軍メンバー2人とPFLPメンバー2人の計4人による石油施設爆破)で知られることになる。この時、JA8032は移送特別機として使用され、上記犯人グループをクエート経由南イエメンのアデンに移送した。その後犯人グループは、南イエメン政府の黙認で逃亡している。JA8032はその後9年間運航され、計15年のJALでの役目を終えて1983年3月に登録抹消されている。
エピソード2:Lady Doctor on Board
話下手の小生が日本人相手で会話が弾むことはあまりないが、一人旅の場合、英語による会話が弾むことがあるのは何故であろうか。“Queen’s English in Paris”のイギリス女性との会話もさることながら、フランス、ラニオンにあるCNET研究所を訪問した際、海辺のレストランでランチを御馳走になった時のフランス男性との英語による会話などは、オードブルから最後のチーズまで、話題が途切れることはなかった記憶がある。いずれも一対一の会話の場合であるが。
米国はジョージア州アトランタへ度々出かけていたころの話であるが、当時は往復とも東京‐サンフランシスコ‐アトランタ便をよく使っていた。たまたまノースウエスト航空がスト中でビジネス席が取れず、止む無くJALのファーストクラスを取ってもらい出かけたことがある。ジャンボのファーストクラスの座席は機体の最前部にペア席が2列+α配置されているが、隣りあわせたのが韓国の女医さんであった。ご主人はシカゴで勤務医をされており、当時韓国へ一時帰国されているようであった。この女医さんと英語での会話が弾んだのである。羽田を離陸したジャンボはやがて巡航状態になり、形通りディナーの時間となった。このフライトでは、ファーストクラスのディナーは2階席に用意されており、2階席に移動してサービスが行われたが、会話はその後も途切れることはなかった。2階席はテーブルが対面式になっていたが、スーツ姿の日本人(ビジネスマン)2名が斜め前の席で小生と顔が会う形でサービスを受けており、こちらの女性客との親しげな会話が気になるようであった。大きな声ではいえないが、かすかな優越感を味わったものである。残念ながら会話の内容はほとんど記憶にないが、日本人相手の会話より外人との英語での会話が弾むのはどのようなメカニズムによるのであろうか。
エピソード3:時差がマイナスの旅
ロンドン~ワシントンDC間の飛行時間は、巡航速度マッハ0.85で飛行するボーイング747で約8時間だが、マッハ2.02の「コンコルド」は約3時間半である(ロンドン~ワシントンDC間5,800kmをマッハ2で飛べば5.800km÷2.45km/h=2.36hだが、マッハ2で飛べるのは海上かつ成層圏のみ)。ロンドンとワシントンDCの時差は5時間なので、午前10時にロンドンを発った「コンコルド」は午前8時半にワシントンDCに到着することになり、時差がマイナス1.5時間となる。ロンドンからのワシントンDCやニューヨークは、まさに日帰り圏内となったのが頷けた。
「コンコルド」には専用ラウンジがあり、出発前からシャンパンのサービスがある。とにかくサービスはファーストクラス以上である。見にくい写真であるが、客室のマッハ計は確かに2.00を示していた。成層圏を飛行するのでコンコルドの小さな窓からは空がやや黒ずんで見えた。 この先進的な超音速機も、騒音や燃費の悪さで運行が中止されてしまったが、貴重な体験をさせてもらったと思っている。 |
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マッハ2で飛行
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2012年1月1日 記>級会消息
正月早々に珍しいエピソードを楽しませてもらいました。とりわけコンコルドに搭乗された感激は二度と味わえないでしょうね。マッハ2.00になれば定常状態なので快適でしょうが、加速や減速する時の乗り心地や、物凄い騒音についての感想は如何でしたか。
数多く航空機に搭乗すると慣れて怖くなくなるだろうとよく言われますが、私は逆で何度も危い目に遭っているので、離着陸の時はいつも緊張します。1日違い、3日違いで墜落を免れたこともあります。また出張のため悪天候にもかかわらず搭乗したら落ちそうになり、急降下して雲の中を突き抜けて着陸したこともありました。多分、元空軍の経験者でないとこんな操縦はできないと思い、パイロットの技量に感嘆しました。
コメント by 大橋康隆 — 2012年1月1日 @ 22:18
早速のコメント有難うございます。コンコルドの問題点は,速さで犠牲になったご指摘の騒音と客室の狭さだと思います。記憶が薄れてしまってはいますが,客室内の騒音,特に離陸時の騒音は大きかったと思います。しかし我慢ができないレベルではありませんでした。また離陸時の加速度はかなり感じますが,減速はスムーズでした。乗り心地の最大の問題点は室内の狭さだと思います。それにしても,空港近辺にまき散らす騒音の方が遥かに問題ではないでしょうか。確かパリのシャルルドゴール空港でコンコルド離陸時の異様な騒音を聞いたことがありますが,この騒音を毎日聞かされたのではたまらないと思います。
コメント by 森山 寛美 — 2012年1月2日 @ 14:49
このレポートのおかげで、初めて海外出張をした頃のことを思い出しました。小生の初出張は1965年(S.40)秋、当時担当していた仕事の関係で東大教授を団長とする調査団に加わりアメリカの各地を3週間かけて回りました。当時はまだ海外へ出かけるのが珍しい時代だったので「家族や知人が羽田まで見送りに行き、帰国時には出迎えに行く」のがごく普通で、小生の場合も家族は勿論、九州から両親が出てきて見送ってくれました。
行きはアラスカのアンカレッジ経由。給油や点検のため2時間くらい留まり、その間乗客は空港内のショッピング街で時間をつぶすことになります。当時はアメリカ便、ヨーロッパ便共にアンカレッジ経由だったので飛行機が着く度に大賑わいし、おみやげ店、免税店、ブランドショップなどかなりの数の店が軒を連ねる堂々たるショッピング街でした。その後直行便が飛ぶようになってさびれてしまい、ローカル空港になってしまったのではないかと想像しています。
帰りはホノルル経由、調査団の最後の一仕事が予定されていたので一泊。翌日帰国の途に着いたのですが、向かい風が強くて羽田まで飛べそうにないとのこと。予定変更して給油のためにウェーキ島に着陸。ここでは機外に出ることなく待機させられ、しばらく待ってから離陸、無事帰国することができました。しかし到着が予定より3時間くらい遅れたため、羽田に迎えに来ていた家族は随分ヤキモキしながらロビーで待たされたわけです。
46年くらい前の思い出話でした。
コメント by 大曲 恒雄 — 2012年1月3日 @ 11:07
大曲兄のコメントで小生も最初の海外出張のフライトを思い出しました。1966年1月,ニューヨーク他への一人旅でしたが,当時のニューヨーク便は給油のためアラスカのフェアバンクス経由でした。給油中は休憩室に移動しましたが,氷点下15度の中を歩かされ,スチュアーデスからは屋外に5分以上いないように注意されたものです。また空港では照明のため見えませんでしたが,フライト中にオーロラが見えました。初めて見たオーロラはカーテン状の幻想的なものでした。
その後のアメリカ行きフライトはカナダのアンカレッジ経由,そして直行便になり氷点下15度の屋外に出るチャンスは全く無くなりました。このフライトは懐かしい思い出の一つです。
コメント by 森山 寛美 — 2012年1月3日 @ 13:57
カナダのアンカレッジはアラスカのアンカレッジの間違いでした。
コメント by 森山 寛美 — 2012年1月3日 @ 14:39