Contract Bridge は何故面白いか/吉村久乗@クラス1955
記>級会消息 (2011年度, class1955, 消息)
学生の頃から下手の横好きで時々 Contract Bridge(普通単に Bridge という)を嗜なんでおりましたが、数年前先輩から、地域で Bridge Club を作るので講師をして欲しいと頼まれたのを機に、多少最近の技法を勉強しました。
私は碁・将棋・麻雀も少しは齧りましたが、どれも余り性に合いませんでした。しかし Bridge は気に入っています。以下に何故 Bridge は面白いかをお話しようと思いますが、御関心をお持ちでない向きは御遠慮なく直ぐに close して下さい。
Bridgeが他の伝統的な室内ゲームと異なる点は、
①Pair対 pairのゲームであること。1 Table は4人で、時計回りにN、 E、 S、 Wと着席し、対面の N-S、 E-W が pairを組みます。
②配られたカード( Joker を除いて13枚ずつ。これを Hand といいます)はその回の play 終了後、4つのポケットのある Board とよばれる盤に入れて保存します。他の pair もその Board をplay するので、多数の pair が全く同じ Hand でplay することになります。この方法を duplicate といいます。
Hand は運により良し悪しがありますが、もし全ての pair の技量が同じなら、結果は全pair の得点が同じ(これを平均値とする)になる筈です。従って各 pair の得点の差は技量の差を表していると言えます。つまりBridge では、各 pair の得点の平均値との差で順位を決めます。碁・将棋・チェスのような棋盤ゲームでは技量が総てで運は0%、それに対して賽(イカサマは無しとして)や籤(ゲームか否かは別として)では、その帰趨に本人が全く関与出来ず運が100% です。Bridge ではduplicate 化によって運の要素の多くを除去しています。
上記の特徴を言い換えれば、
①Pair 間の情報伝達が非常に重要
②可能な限り運を消去する。
ということになります。
これは極めて特徴的で、他のゲームには多分見られないことだと思います。情報伝達(“Bid”という)には厳密な規則があり、最も大切なことは pair間でのみしか解読し得ない暗号を使用してはならないということです。即ち味方の情報は敵方にも伝わります。碁・将棋を始めるには先ず定石を会得する必要がありますが、この点はBid でも全く同じです。
日本の伝統的なゲームで2人が一組になって行うものは、室内外を問わず見当たりません。一方 Bridge はその前身である Whist以来、 pair で行うゲームです。昔は、pair はカードを引いて決めていたそうですが、現在では予め pair を決めて参加するのが一般的です。テニスや卓球の doubles は、1対1でも出来るゲームを2対2で行うというものですが、bridge の pair は社交ダンスのように二人が一組にならないと成立しない所が違います。尤も Bridge の pair はダンスのように男女である必要はありません。
Bridgeでは Hand が配られた後、各 player は自分のHand を値踏みし、そのゲームを落札するための Auction( Bid )を行います。Bid に使用する用語は、棄権の意思表示である ”PASS”、レベル(値段に相当)を表す1~7の数字と切札の指定(切札無し、スペード、ハート、 ダイヤ、クラブ :最近のカードは4色で barcode 付き)との組合せの35語、それに特殊な2語を加えた38語しか使用出来ません。しかし Bridge が本当に面白い所は、これ等の用語の意味は規定されていないという点にあります。つまり同じ用語でも状況に応じて色々な意味を持たせることが出来るのです。これにより Bid の技術が極めて進歩しました。勿論上述のように、使用する Bid の意味は公開しなければなりません。Bridge を楽しむには① ゲーム規則、② play 技術、③ Bid の semanticsの習得が必要です。① は極めて簡単なので、1時間もあれば誰にでも覚えられます。② は一朝一夕には無理で、上達には経験を積む以外にありません。③ は中々奥が深くテキストも数多く出ています。通常Bridge の勉強といえばこれを指します。更に中級者以上では、④ 参加人数に応じたゲームの設定及びtrouble arbitration rule の習得も必要になります。
Bid には透明性が求められますが、それならいっその事 Hand を公開したらどうでしようか。碁では次の一手には多くの可能性がありますが、Bridge では取り得る次の一手は極めて限られています。その中で最良の手は多くの場合、略自動的に一つに絞られてしまいます。従ってもしHand を公開したら、ある程度経験のある総ての player は全く同じ行動を取るでしょう。これではゲームは成立しません。
Bridgeが面白いのは Bid の processです。Bid には ① 自分の Hand を素直に表明する Natural Bid の他に ② partnerの Hand に関する情報を要求する Ask Bid ③それに応える Answer Bid ④ partner に特定のBid を要求する Puppet Bid 等があります。例えば2-NoTrumpという Bid はnatural な使用法以外に約 10 通りもの意味があります。通常 Bridge の tournament では、碁や将棋のように何分にも亘る長考は認められませんので、player は与えられた状況下で瞬時に最適と思われる Bid 用語を選択し、また partnerが発信した Bid の意味を理解しなければなりません。
Bridgeはでキリスト教を基盤とする西欧社会の中で誕生し進化して来ました。ある意味では西欧を象徴していると言えます。よく知られていることですが、カードのスペード、ハート、 ダイヤ、クラブ は夫々騎士・教会・商人・農民を表しています。この点は我国の士・農・工・商と似ています。(我国では僧侶や神官は独立した階級ではなく、武士階級の一部と看做されていました。)階級はどの社会にもありますが、Bridge ではこれら四つの階級は平等ではなく、騎士と教会は Major、 商人と農民は minor と呼ばれ、この間には非常に大きな格差があります。Bridge ではスペード、ハート、 ダイヤ、クラブ とはただマークが違うだけでなく、全く別ものと考える方がよいのです。従ってBid の仕方も両者では大きな相違あります。
私は宗教には疎いので以下の記述には誤解があるかもしれませんが、あまり眼に角を立てないで下さい。
同じ一神教としてキリスト教とイスラム教は屡対比されます。後者は前者を否定して成立しただけあって、極めて完成度が高いと言われています。イスラム教はその前身であるユダヤ教と同じく宗教法を持っています。イスラム法は精緻を極め世俗社会をも規制したので、永いことイスラム社会には世俗法は必要ありませんでした。またイスラム教では教義がコーランで正確に規定されており、解釈の相違が生ずる余地がなかったのです。
一方キリスト教では、キリストは人間の預言者ではなく“神の子”であるとしたため、多くの矛盾を生ずることになりました。もし神の子が神なら、神は“父なる神”とキリストの二人(二柱?)が存在することになり、一神教を根底から否定することになります。更に精霊という不思議なものがあり、この3者の関係を決める必要に迫られました。そこで Nicaea、 Constantinople 等数度の公会議が招集され、三位一体説が正統教義であり、それ以外は異端とされました。ここで重要なのは、キリスト教では教義は神から与えられるものではなく、人間が、それも多数決で決めるということです。三位一体説が宗教なのか哲学なのかは扠置き、その内容はとても常人には理解出来ません。最近有名になった興福寺の阿修羅像のような三面六臂と思えばよいのでしょうか。
兎も角西欧では一見不都合な事態でもそれを前提として受け入れた上で、客観的事象や過去の経験と矛盾しないように理屈を付けるという手法で切り抜けて来たように思います。例えば初期の原子モデルで、古典電磁気論では不可避な電子と核との衝突を回避し、電子に安定軌道を保証するために量子力学を創設したことや、Lorenz収縮をうまく運動学に取り入れた相対性理論等この類だと思います。
イスラム世界のキリスト世界に対する優位は、17世紀後半に Osman 帝国がWien 包囲に失敗し西欧から撤退する迄永く続きました。更に約1世紀後のフランス革命を経て両者の優位性は逆転します。これらの歴史的事象の要因の一つに宗教の差があります。イスラム世界と異なり宗教法を持たないキリスト教世界では、人間が法律を創る必要がありました。世俗に関しては近世の絶対王政時代迄は国王が、宗教に関しては宗教改革迄は教皇がその権限を持っていました。教皇といえども神ではなく神の代理に過ぎないので、法律は人間が創っていたわけです。これが中世イスラム世界と決定的な相違です。モーゼの十戒はYahweh 神から与えられたものなで人間が勝手に廃止したり改定したりすることは出来ませんが、人間が創るものなら、国王や教皇に代って市民が制定する権利を持ってもよいわけです。
このような西欧社会の構図は Bridgeからも透けて見えます。ゲームの構成や運用はACBL (American Contract Bridge League ) のルールが世界標準で、当然のことながら、参加者はそれに従わなければなりません。しかし Bridge で最も重要な核心である Bid の解釈については、参加者に自由が与えられています。
まだ代々木に米軍キャンプがあった頃、師匠格の先輩に誘われてよく Bridge に行きました。ゲーム用語以外の言葉は必要ないので、相手が外国人でも全く支障ありません。また Bridge は紳士・淑女のゲームなので、極く特殊な人を除いては、金品をやり取りするようなことはありません。Bridge は碁・将棋程ではないにしろ、それなりに頭も記憶力も使うので、惚け防止にはよいと思います。ただ少人数では出来ない点が欠点ですが、上述のようにこれがまた長所でもあるのです。私は現在は JCBL(日本コントラクトブリッジ連盟)会員ではありませんが、御興味をお持ちの向きは、JCBL のホームページを覗いて見て下さい。
以上
2011年9月26日 記>級会消息



ブリッジ、大学の研究室にいた頃よくやりましたネエ。久しぶりにブリッジの言葉を聞いて懐かしさがいっぱいです。CBCコミュニケーションブリッジクラブというのがありましたっけ。大学、電電、国鉄、郵政、富士通などの仲間が集まって阪本先生が委員長で。「そんなビッドして、いつまでも上達せんな」と叱られたものです。吉村さんにも大分絞られました。小生その後もやっていたのですがいつの間にかご無沙汰になりました。いまではもうとてもプレーできません。過日ある友人とブリッジの話をしていたときにゴーレンのポイントカウントの話をしたら古いネエと笑われました。
コメント by サイトウ — 2011年9月26日 @ 17:16
僕はブリッジをやりませんが、吉村兄の話は大変面白く読ませてもらいました。特に、キリスト教の三位一体の話から、量子力学誕生へと跳ぶところなど、絶妙で、感心しました。
ところで、以前、僕はキリスト教の三位一体説に多少興味をもち、ちょっとだけ歴史を調べたので、以下にそれを短くして書いてみます。
ニカエア公会議(325年)でアリウス派が敗れて三位一体説が正統とされたあとも混乱が続いた結果、アリウス派と同じようにキリストの人間性を認めるネストリウス派が現れ、これを潰すために、エフェソス公会議(431年)が開かれてネストリウス派も異端とされ、追放されたのですが(これが後に中国に入って「景教」と呼ばれたキリスト教ですが)、これでも収まらず、今度は、アリウス派やネストリウス派とは正反対の、キリストの人間的属性を捨象して神性のみを認める「単性説」が現れるという状況があって、いろいろごたごたした挙句、危機感をもったローマ教皇レオ1世(聖レオ、大教皇レオ:在位440年~461年)が「トムス」を出して、決着したかに見えましたが、どっこい、単性説派は第2回のエフェソス公会議(449年)で、反単性説派を破って反単性説派を弾圧しました。そこで、大教皇レオに協力的だったビザンツ皇帝マルキアヌス(在位450年~457年)が、カルケドン公会議(451年)を開いて、盗賊会議と呼ばれた第2回エフェソス公会議の結果をひっくり返して、単性説派をやっつけてしまいました。
キリストの神性と人間性を調和させるために作文された「カルケドン信条」はこう言っています。「唯一同一のキリスト、主、ひとり子として、2つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られる方である。この結合によって、2つの本性の差異が取り去られるのでなく、むしろ、各々の本性の特質は保存され、唯一のプロソーポン(位格=ペルソナ)、唯一のヒュポスタシス(自立存在)に共存している」
しかし、これでも決着するどころか、キリスト教内部の争いは続くのですが、この辺でやめます。
なお、僕も、吉村兄と同じように、イスラム教の方が整然としていて、宗教の教義としては完成度が高いように思っています。現在の実際のイスラム教はどうか分かりませんが、イスラム教の基本は、日本人にも受け入れ易いように感じました。
コメント by 武田充司 — 2011年10月2日 @ 12:30