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  • 英国産ワインの話/武田充司@クラス1955

     以前このブログに出た寺山君の「ふるさと:二宮」という記事に、高橋君が書き込んだコメントによると、川崎市高津区に弟橘姫を祭る神社があって、その神社の社伝には「入水した姫の御衣・御冠の具がこの地に漂着した」とあり、

    また、古事記にもそれを窺わせる記述があるとか。また、高橋君の解説では、この辺りは、中原街道が、丸子の渡しで多摩川を越えたところにある最初の台地で、現在の「溝の口」あたりは、当時、海底で、この台地が海に面していたということです。
    これを読んで思い出したのですが、僕の住む「さいたま市」には、見沼田圃という広大な農地が残っていて、そこを流れる見沼代用水西縁に迫る台地の突端に、氷川女体神社というのがあり、昔、その下は船着場で、東京湾がそこまで入り込んでいたようです。見沼田圃自体が江戸時代は巨大な沼(見沼)でしたから、東京湾がこの辺りまで達していたとしてもおかしくないようです。浦和とか川口という地名もそれを物語っているようです。
     そうしてみると、昔は現在よりずっと海水位が高かったか、それとも、その後、陸地が隆起したか、あるいは、河川の運ぶ土砂で海岸が埋め立てられたか、それらのいずれかでしょうが、昔といっても歴史的に比較的新しい時代の話ですから、これは、海水位が変化したと考えるのが妥当かと思います。同じような例は、中世後期から始まった小氷河期に、北海の水位が下がって、オランダ辺りの浅瀬が露出して湿地となったため、堤防を築いて干拓して領土を増やし、現在のような低地帯国家オランダができたという話を、何処かで読んだ覚えがあります。
     また、ハンザ同盟都市として一時栄え、いまは、日本人の間でも、観光スポットとして有名になったベルギーのブルージュは(僕も1995年に訪れたのですが)、紀元前5世紀頃から少なくとも7~8世紀頃までは、直接北海に面していたようです。しかし、ハンザ同盟時代には、海岸線からかなり離れてしまい、途中にダムという中継港を経由してズウィン湾(北海)とつながっていました。これは、11世紀後半から内陸部で農業が盛んになり、開墾などの影響で土砂の流出が激しくなったことや、小氷河期に入る前兆の異常気象で大規模な洪水が起り、その結果、土砂で港が埋まって行ったことがひとつの原因と考えられます。しかし、小氷河期が近づいて気温が下がり、北海の水位が低下して海岸線が沖合いに逃げて行ったことが根本的な原因だろうと思います。
     中世後期(14世紀後半以降)に訪れた小氷河期以前は、欧州はとても温暖で暮らしよい土地だったようです。因みに、その温暖期には、英国では葡萄が栽培されていて(これは、多分、ローマ人が持ち込んだのだろうと思うのですが)、十分な量のワインが生産されていました。その後、寒冷化が進み、葡萄の不作が繰り返され、英国から最後の葡萄畑が消滅したのは1470年頃と言われています。
    このように、小氷河期の到来によって寒冷化が進み、海面は世界的に低下したようです。そう考えると、あちこちで、「昔は、あの辺りまで海だった」という話が聞かれるのも何となく納得できるというものです。
     その後、この小氷河期は終ったのかどうか知りませんが、20世紀に入ってから温暖化が始まったらしいので、再び、中世以前の海水位に戻る可能性もあるわけで、そうなれば、東京湾が僕の住んでいる浦和の氷川女体神社の崖下まで侵入して来るかも知れません。そして、ブルージュは再び北海に面した港町となり、英国で美味しいワインが生産されるようになるかも知れません。その程度のことは起って当然というのが、冷酷な自然現象の真の姿かも知れません。実際、現在の温暖化傾向が続けば、イングランドで、また葡萄が栽培可能になるかも知れないというニュースを最近聞きましたが、これも驚くほどのことではなく、昔に戻るだけだとも言えそうです。
    $00A0                (2011年8月22日記:武田充司)

    3 Comments »
    1. ヨーロッパの小氷河期に関連した話として、フランス革命の頃冬はセーヌ川が氷結していたという話を読んだか聞いたかした記憶があります。そこで、Wikipediaを調べてみたら「小氷期」として概略以下のような記述がありました。
      ・小氷期(14世紀半ば~19世紀半ば)の間、世界の多くの場所で厳冬がもたらされたが 最も詳細な記録が残っているのはヨーロッパと北アメリカ
      ・17世紀半ば、スイス・アルプスの氷河は徐々に低地へ拡大し、谷筋の農場を飲み込み村全体を押しつぶしていった
      ・テムズ川やオランダの運河では一冬の間完全に凍結する光景が頻繁に見られた
      ・1780年の冬ニューヨーク湾が凍結し、マンハッタンからスタッテンアイランドへ歩いて渡れた
      ・この厳冬の到来は人々の生活に影響を与え、飢饉が頻繁に発生(1315年には150万人の餓死者を記録)
      ・日本でも東日本を中心に度々飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆頻発が幕藩体制崩壊の一因となった
      ・小氷期の原因は太陽活動の衰弱と火山活動の活発化の二つと考えられている

      コメント by 大曲 恒雄 — 2011年9月3日 @ 11:10

    2. 私は「溝の口」に住んでいますが、この地名も昔海に縁があったのでしょう。昔長い間勤務していたNEC玉川事業所は、当地から南東約6kmの「向河原」にありましたが、近くの神社で、この辺は昔海岸だったという話を聞いた記憶があります。
      ブルージュも昔は地形が異なっていたのですね。戦中戦後に亘り、歴史や地理をまともに教わっていないので、西洋と言えば、ギリシャ、ローマ位しか習っていません。一方、東南アジアの古い地図だけは、戦時中にすっかり頭に叩き込まれたので、よく覚えており家内が驚いています。「マレーを落としてスマトラも、落として更にボルネオも、疾風のごとき勢いに、靡くジャングル、椰子の葉も」という歌を覚えています。
      英国産ワインの話には驚きました。昔、海外出張のお土産の定番であったジョニ黒のことが懐かしく思い出せますが、ワインのことには全く気が付きませんでした。

      コメント by 大橋康隆 — 2011年9月7日 @ 11:32

    3. ついでですが、英国産ワイン消滅後の話をひとつ:
       イングランドでワインが作れなくなっても、彼らはワインを大陸から輸入して飲んでいたのですが、昔のことですから、温度管理もなしに船で長時間揺られてイングランドに到着したワインは、当然のことながら、美味しくない。特に、南方のスペイン産ワインは問題だったようです。
       そこで、考えられたのが、酒精で強化した特殊なワイン、すなわち、シェリー酒だったようです。酒精による強化で輸送中の品質劣化が食い止められ、その上、シェリー特有の風味が加わったので、「シェリー」は新しい酒として英国人に受け入れられたのでしょう。ディナーの食前酒として、英国では、「シェリー」がポピュラーなのはよく知られています。
       これと似たような話として、ナポレオンがモスクワ遠征時に、どこまで持っていっても劣化しな美味いワインの代替物として、「ブランディー」を作らせたという話を思い出します。
       酒好きの男たちの貪欲ってものは凄いですね。必要は発明の母なりですか?
       以上の話は、酒好きの僕が、聞きかじり、読みかじりによって得た知識によるものですから、「ワイン史」における「真実」であるか否かは請け負いません。悪しからず。

      コメント by 武田充司 — 2011年9月7日 @ 13:28

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