「人間の条件」を観て/大橋康隆@クラス1955
記>級会消息 (2011年度, class1955, 消息)
8月15日~21日まで、NHK BS で五味川純平原作、小林正樹監督の映画「人間の条件」を毎夜10時から第1部~第6部まで連続して観た。
第6部「曠野の彷徨」が終了した直後に、山本晋也監督が「第1部から第6部まで連続して観られた方達に敬意を表します。この映画には、日本の軍隊、日本の国が描かれている。」という短い感想を述べていたが、この映画がどのようなものか端的に表現している。
これまで、断片的に読んだり、観たことはあるが、この年になって初めて連続して観て、その凄まじさに改めて圧倒された。原作者は旧満州の鞍山製鋼所で勤務し、1943年に召集を受け、満州東部の各地を転戦し、1948年に帰国された。主人公と同様な体験をした原作者でなければ書けないリアルな描写だ。私は主人公の梶のように強い人間には絶対になれないと思った。1956年から1958年にわたり出版されるや忽ちベストセラーになったのも当然だ。
しかし敗戦後66年も経過した現在、「人間の条件」が色褪せることなく、いや一層生々しく感じられるのは何故だろう。それは戦争という極限の体験をした人達が自分の身近におり、自分自身も空襲から敗戦日を迎え、戦後の悲惨さを体験したからである。戦争を実際に体験していない世代の人達は「人間の条件」を観てどのように感じるか聞いてみたい。
私の親戚や、友人には、前線から復員したり、満州や中国から引き揚げてきた人達が多い。8月にはテレビや新聞で、戦時中や戦後の証言記録が報道され、つい睡眠時間が短くなる。
万死に一生を得た年老いた元兵士が、帰国後病死した戦友の母親に息子の最後の様子を聞かれ本当のことは話せず「突撃して壮烈な戦死を遂げられた。」と答えたと告白している。元軍医の方は、助かる見込みのない兵士をあの世に送ったことを今も悔やんでおり、また別の元軍医の方は、今も自分の行為は正しかったと確信していると話をしていた。
私の叔父は、同様な体験をしたそうだ。敗戦の半年前に北京で召集され、中国奥地で敗戦を迎え、戦友と3人で北京へ向かって歩いた。戦友の一人が腹痛で苦しみ二人で抱きかかえて歩いた。途中で、武装解除された日本軍の部隊に遭遇した。救われたと思って、軍医さんに腹痛の戦友を診てもらったところ、注射を打たれた。間もなく容体が急変し亡くなった。「何を注射したのか。」と尋ねると「この病人と一緒では3人とも北京にたどり着けないぞ。」と答えた。こんな部隊と一緒では殺されると思い、別れを告げて戦友と二人で北京まで歩いて帰った。叔母と共に北京から引き揚げて帰国し、叔父は相模原の米軍キャンプで通訳をし、叔母は女学校の教師をしていた。1951年に私は岡山から上京して世話になり、相模原から駒場まで片道2時間かけて通学した。
満州と言えば、未だ消息不明の方がおられる。1943年小学5年生の時、国語で「月光の曲」の話を教わった。当時、音楽だけは若い女性の先生が教えておられた。私達は、音楽の時間に一度、「月光の曲」を聞きたいと先生にお願いした。先生は一ケ月間練習した後、弾いて下さった。この時の感激は、音痴の私にも忘れられない。その後間もなく、先生は結婚して満州へ赴任された。その後の消息は不明である。今では岡山弘西小学校も、過疎のため4つの小学校が統合され、廃校となり同窓会も解散となった。
シベリア抑留のことはよく知られているが、中国で留用された軍人、軍医、看護婦さん達のことはあまり知られていない。長年の苦労の末に帰国されている。海外で敗戦を迎えた人達こそ、国とは何であるかを痛感されたと思う。一方、米国では1988年に日系米国人の強制収容は間違いであったと謝罪して、11年間をかけて損害賠償を終了した。
テレビで「人間の条件」が放映された時、主演俳優の仲代達矢さんのお話が聞けた。当時26歳で抜擢されたそうだが、俳優さんも大変な職業だと思った。殴られる場面やタコ壺の上を戦車が通り過ぎる場面など想像を絶するものだ。元々演劇俳優なので、順序良く進行する演劇とは異なり、色々な場面から映画は撮影されるので苦労されたらしい。それも足かけ4年、途中他の映画にも出演されている。サラリーマン生活の経験がないので、最初の頃、満州で会社勤務時代の演技には戸惑ったそうだ。更に、当時有名な俳優、女優さん達が大勢出演しているので、色々教えられることが多く、大変だったと思う。
「人間の条件」は過去の話であるが、現在も場所や形態を変えて世界各地で民族紛争、いじめ、過労死等、人間の尊厳が問われている。東日本大震災でも、自衛隊の活躍が改めて認識されているが、組織として危機管理が徹底しているお蔭である。一方、福島原子力発電所の現場で作業した方々の中には行方が未だ把握されていない人達がいることには呆れるばかりだ。政治家、経営者、学者、教育者、マスコミの人達は、国民に正確に真実を語る義務と責任がある。日本では知らずにしたことに寛大だが、海外では知る努力をしなかった方がより罪深いと考えられている。国民も政治や世界情勢に一層の関心を持ち、真実を知る努力を怠らず、「人間の条件」の極限にまで追い込まれないように心掛けないといけないだろう。
2011年9月1日 記>級会消息
大橋兄へ
映画「人間の条件」を連続して観られた気力と忍耐力に敬意を表します。
小生は大昔(?)小説を読みました。確か厚めの新書版サイズで5冊か6冊に分かれており長編でした。映画が6部構成だということは原作にかなり忠実に作られたのではないかと推察します。
細かいことは覚えていませんが、何故か2つのシーンだけが鮮明に記憶の中に残っています。
一つは、主人公の梶が風呂に入っていて愛妻を思い出し、「この身体を一人の女が愛してくれた」とつぶやくシーン。
もう一つは小説の最後、梶が曠野の中で遂に力尽きて倒れ、そこに雪が降り積もって人間の形の小さな雪の山が出来ていくシーン。
何とも言いようの無い読後感を感じたものでした。
コメント by 大曲 恒雄 — 2011年9月1日 @ 16:33
僕の家内の姉夫婦一家も、満州で敗戦を迎え、彼女の旦那は軍人ではなかったものの、ロシア軍につかまって、多数の日本人とともに貨車に詰め込まれてシベリア送りになったのですが、夜陰に乗じて走る列車から飛び降りて脱走し、なんとか家族のもと戻り、乳飲み子を含む家族全員を引き連れて、苦難の末に、日本に帰還したと聞きました。
しかし、こうした生死を分ける過酷な体験をした人たちは、殆ど、そうした生々しい体験を詳しく語るのをはばかり、口が重いというか、思い出したくないのか、詳し記録を残していないようです。義姉夫婦も、ともに90歳を越えて、最近、相次いで亡くなりました。人生を2度生きたというか、一度死んで生き返ったような人間は、肝っ玉が据わっていて、その生き方は凄いものでした。とても、僕のようなひ弱な人間には真似が出来ないものがありました。
コメント by 武田充司 — 2011年9月6日 @ 00:19